12月 26
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会
2.日本語研究の問題点
と掲載してきましたが
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。
(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)
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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇
(2)関口の自己本位の由来
関口に西欧コンプレックスがないのは、西欧の一般的な学問の中に自分のような「問い」が存在しないことを明確に知っていたからだし、西欧の内部には、低レベルの一般の言語学と、それと対峙するハイデガー哲学との激しい対立があることを知っていたからだ。
つまり、西欧といっても一括りにはできず、内部に対立があり、一般的レベルはくだらない物でしかないことを知っていた。西欧にはすぐれた物もあるが、酷い物もある。それは日本の一般の学者と関口との対立と何ら変わらない。そして関口のようにハイデガー哲学に連なる人間が、なぜ西欧一般にコンプレックスを持つ必要があるのだろうか。
関口にないのは西欧コンプレックスだけではない。当時の多くのインテリが抱えていた「大衆へのコンプレックス」もまるでない。それどころか、彼は言語学者などをはなからバカにし、ひたすら大衆に向けて語っていたことを忘れてはならない。関口は三修社という出版社を起こし、ドイツ語の雑誌の編集と執筆をほぼひとりで行っていた。彼の論考は学会ではなくそこで発表されている。これも、彼の「語感」主義、「含み」第1主義からの必然的な結果だろう。
語感とは決して関口個人のものであるはずはなく(そうならそれは客観的に取り扱えない)、日本語を使用しているすべての人々の中に無意識ではあるが確かに存在し、それは連綿と続く歴史の中で日本民族の中に蓄積されてきたものだ。その語感を第1にする関口は、民衆と直接につながっている。そのことを関口はもちろんよくわかっており、そのために、関口には根底に日本民族への深い信頼がある。
もちろん同じ事がドイツ語にも言えるから、彼にはドイツ民族への深い信頼がある。こうした前提があるために、関口はドイツ語を日本語で相対化し、日本語をドイツ語で相対化する。両者の関係が全く対等であるのは当たり前なのだ。
関口にとって、直接の「先生」はハイデガーだが、より深く捉えれば、先生とは日本とドイツの民衆であり、それは人間そのものである。しかし、「語感」「含み」に現れているその民族の真実は、民衆には自覚はできない。それを意識的にとらえ言語化するのは知識人のしごとである。そこでドイツ語にあっては、人類の哲学史上のトップ(と関口は考えていた)ハイデガーが、直接には彼の「先生」となったのだ。彼にはもう一人の「先生」がいる。詩人ゲーテだが、それは西欧語では詩こそがその言語の精華であり、ドイツ詩人の最高峰であるゲーテが、彼にとって生涯の師になったのは当然だ。以上が関口の「自己本位」と「自立」の秘密である。
12月 19
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会
2.日本語研究の問題点
と掲載してきましたが
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。
(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)
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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇
関口存男にあっては、先に挙げた日本語研究の3つの問題が見事にクリアーされている。第1に、関口ほど、自らの生活実感とその学問が一体になった人はいないだろう。また、その視野は身近な日常生活から森羅万象にまで届いているように見える。そして彼は一般大衆に直接語りかける「べらんめえ」の文体で自らの言語学を述べる。
第2に、彼ほど西欧への「奴隷根性」から自由な人を知らない。彼ほどに「自己本位」な人を知らない。
第3に、彼は、ハイデガー哲学を自分の物にし、西欧の認識論や哲学に精通している。彼はドイツ語や西欧語を学びながら、人間一般の本質に迫っている。その中に自ら自身の母語である日本語とは何か、日本人とは何かは、その背景として含まれている。
(1)関口の問題意識と「先生」
こうしたことが、なぜ関口には可能だったのか。まだ『冠詞論』全3巻中の『不定冠詞論』しかを読み終えていない段階ながら、一応の仮説を出しておきたい。
第1に、関口のテーマ、問題意識の独自性のゆえであり、第2に、テーマを深めていく上で「先生を選べ」を実行したことがあげられる。この2つは切り離せない。
関口の言語学上のテーマとは、自分の「語感」が感じた物の正体を明らかにすることだった。それは言語の「含み」の存在とその含みの意味を明らかにすることに他ならない。
この「語感」や「含み」とは、自分が感じる物であり、形式文法のように外形上では根拠を出すのがムズカシイ。そもそもそれが「含み」だからだ。この「含み」や「語感」とは、自分の中に食い入っているもののことで、それは自分の存在そのものと言って良い。それをテーマにするということは、最初から、自分の実感を信じて、それを根拠に考えると言うことだ。それには自己理解の深さが必要であり、強い主体性が求められる。こうしたテーマを持ったことが関口の関口たるところだ。
こうしたテーマを持って、西欧文法や西欧の言語学を読めば、そこにあるのが「形式文法」でしかなく、関口のテーマに答えてくれないことはすぐにわかる。その答えの是非をどうこう言う以前に、問題にしていることがまるで違う。関口が求める回答はどこにもない。それどころか、参考にできるものすら存在しない。(もちろん、西欧だけではなく、当時の日本にも存在しない)。
その時に、関口はハイデガー哲学に出会ったのだと思う。その哲学だけが、関口の関心の方向に根拠を与える物だった。関口の意味形態論は、ハイデガー哲学なしにはありえない。ハイデガー哲学によって、確立されたのだと思う。これを説明しよう。
関口は、言語活動を3要素、つまり「意味(事実)」と、話し手・書き手が「意味(事実)をどう考えたか」と、その「言語表現」とに分けた上で、「意味」と「意味をどう考えたか」には直接の関係はなく、「意味(事実)どう考えたか」と「言語表現」こそが関係し、一体であることを示した。これが彼の意味形態論の大前提だ。(この3者の関係が「媒介関係」であることは、明らかですね)
「意味」と「意味をどう考えたか」に直接の関係がない以上、「意味」は「意識に反映された限りで」問題にすれば良いことになる。これがハイデガー哲学の立場であり、この立場の上に、関口は含みの研究に安心して没頭することができたのである。
関口にとっての生来のテーマである「語感」や「含み」とは、「言語表現」の中に現れた(または潜在的で隠されたままの)「意味をどう考えたか」のことなのだ。そして、関口は「言語表現」の中の「含み」を明らかにすることに全力を注ぐ。こうして「含み」の研究を中心とする意味形態論、つまり関口ドイツ語学が成立した。
そして、関口は彼のドイツ語学の中で、自らの前提としたハイデガー哲学をさらに具体化し、発展させているのではないか。
関口の仕事のすべてがその具体例になると思うが、例えば『不定冠詞』の第10章「不定冠詞の仮構性の含み」で「未来に関する仮構」を取り上げている。そこでは「人間は未来一辺倒の存在物」という人間の本質を明らかにし、ハイデガーが問題提起した「企画」の含みを徹底的に展開して見せている。この「企画」とは関口の訳語だが、一般には「投企」として知られた用語であり、サルトルの『実存主義とは何か』で一躍有名になった。
12月 17
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
以下の順で、掲載します。
1.言語学の連続学習会
2.日本語研究の問題点
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
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◇◆ 日本語研究の問題点 ◆◇
大野晋、尾上圭介、関口存男(牧野紀之も)。この3人の論考を並べて、比較しながら読んでみて、日本語研究についてハッキリと見えてくるものがあった。
日本語研究には大きくは3つの問題がある。
1つは、一般的なアカデミズムの問題。つまり「専門バカ」集団の問題だ。これはどこの国の、どの時代のどの分野にもあるだろう。
「専門バカ」集団の研究の多くは、根本、本質から逸脱した、些細なものばかりになる。その方が、すぐに成果が出るし、評価も受けやすい。
しかし本来は、すべての個別研究は、「日本語とは何か」という根本、本質論へ向けてのものであるべきだろう。ところが、個別研究をする内に、それが忘れられていく。
研究対象や研究方法だけの問題ではない。彼らは、そもそも現実や社会との関わりが弱い。そのために、生きた言葉の運動を問うことができない。言葉は現実社会の中で生きている。それでは過去の言葉の運動もわからないのではないだろうか。言葉の研究者には、その「生き方」が問われるのではないか。
第2に、日本のような「後進国」で学問をするという特殊な問題が、さらに重くのしかかっている。それは西欧への学問に対する「奴隷根性」の問題であり、夏目漱石の言葉で言えば「他者本意」で「自己本位」を失っているという問題だ。
明治以降の日本語文法では、日本語を西欧語の文法でとらえようとしてきた。そうした観点から見れば、日本語には多くの欠落があり、日本語への低い評価が生まれた。「主語がないから日本語は非論理的でダメ」とかと言った論調は、今も続いている。もちろんそれへの反撥も起きている。日本語の独自性の主張もある。しかし裏返しの「奴隷根性」であることも多い。この負の遺産とどう向き合い、どう改善していけるのか。これは夏目漱石の提起した「自己本位」と「他者本意」の問題と重なる。
そして第3に、言葉の問題自体のムズカシさがある。それは自分の無自覚な行為の自覚化であり、自分の認識自体の認識であることのムズカシさである。これにはどうしても、認識論や哲学が必要であろう。この問題とは、そもそも、言葉、文章とは何か。認識とは何か。人間とは何か。といった問題をはらんでおり、日本語とは何か。日本人とは何か。といった問題はその特殊な問題となる。
以上の3つの問題にどういうスタンスを取るのか。どれだけしっかりと向き合い、これらの問題をとらえられたか。特に、第2点目は、日本語学だけではなく、日本の他のすべての分野において問題になる。特に文科系では、それが決定的だ。
以上の3つの問題に関連して、日本語研究の内容面での課題も明らかになる。
日本語文法の核心的問題の一つとして、日本語の助詞のハとガの違いが問題になる。
次のような述語文(命題文、判断文)で、2つの使い方がある。
主語+ハ+?である
主語+ガ+?である
この違いの説明が問われるのだが、なぜこれが核心的な問題かと言えば、この問題の困難さが、日本語と西欧語との違いと、それを無視した分析方法に起因するからだ。西欧語の述語文、その主語と述語とコプラ(である)の枠組みで考えると、日本語では処理できないことが多数あるのだ。そもそも日本の文章には主語がないことが多い。
つまり、この問題の背後には、日本語の文法を外国語の文法構造で分析しようとした無理がある。つまり、第2の問題である。
しかし、この問題のムズカシサは、そもそもの判断自体のムズカシサである。それは述語文、判断をどう考えるか。主語と、述語とコプラ(である)の枠組みの把握自体が難しいことに起因する。これが第3の問題になるのだが、この問題は、未だに西欧ですら十分には解明できていない。
カント、ヘーゲル、ハイデガーなど、みながこの問題を考えてきた。こうした認識論、またそれは存在論とも深く関わる。私は特にコプラの問題が大きいと思う。ヘーゲルはコプラこそ、判断の発展をうながす矛盾の核心と見ている。
コプラ(である)は、英語のbe動詞もドイツ語のsein動詞だが、本来は「存在する」との動詞からコプラとしての役割が派生している。これをどう理解するか。それと認識の発展、言葉の発展とはどう関係するのか。
西欧語に対して、日本語ではこの両者の関係はどうなっているのか。日本語の発展を考える際には、ここに核心的な問題があると思う。
以上の問題点を確認したところで、それとの対比によって、関口ドイツ語学の核心部分が見えてくる。
12月 16
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
以下の順で、掲載します。
1.言語学の連続学習会
2.日本語研究の問題点
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
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◇◆ 言語学の連続学習会 ◆◇
今年の4月から、関口存男ドイツ語学に挑戦することにした。約1カ月の助走期間をおいてから、関口存男著『冠詞論』全3巻の通読を開始したのだ。
きっかけの一つは、鶏鳴学園の同僚である松永奏吾さんの博士論文にある。彼は東大の大学院で日本語学(「国語学)という用語は使用しない)を学び、助詞ハの用法などを研究している。大学院に在籍してすでに10年近くがすぎ、現在博士論文に取り組んでいる。しかし、どうも壁にぶつかっていて、先の見えない濃霧の中で立ちすくんでいるように見える。それを側面から支援したいと考えた。関口ドイツ語学は、ドイツ語学だが、実はその裏側では、最高の日本語学である。
そして、もう一つ、こちらの方が本筋だが、私自身が長いことヘーゲルをドイツ語で読んできて、そろそろ関口ドイツ語学にアタックするべきだと思うようになったのだ。
これまで関口さんの本は機会がある度に読んできたが、本格的に取り組むことをしないできた。その自信がなかったからだと言える。ヘーゲルもそうだが、関口さんのような屹立した高峰は、よくよくの装備を持っていどまなければ、弾き飛ばされ遭難する憂き目にあう。それは、ヘーゲルを読んで痛感しており、関口に挑みかかる覚悟を持てずにいた。
それが変わったのは、この数年で、少しヘーゲルが読めるようになってきたからだ。ヘーゲルの読み方が深まってきたと感じる今こそ、関口に挑戦するべき時なのではないか。
もう一つ理由がある。25年以上、現代国語の読解と作文の指導をしてきて、ここでも深まりを感じている。作文に関しては研究会を組織し、すでに10年以上も学んできたが、ここにきて、問題点がはっきり見えてきた。文とは何か、文体とは何か。文の種類は、大きく分ければ、描写と説明の2つではないか。その発展過程はどうなっているのか。これらの根源的な問いを問いとして自覚できるようになり、その問いへの一応の私案が用意できた。その当否を確かめたいし、より深めたい。しかし、こうした問いに挑戦している専門研究者はほとんどいない。
ここは、ヘーゲルと関口に頭を垂れて学ぶべきだろう。そこでヘーゲルの「判断論」と関口の『冠詞論』を読むことにして、今年の4月からその連続学習会を始めた。
これが松永さんのハの研究とどう関係するか。日本語の助詞ハとガの違いは、判断や命題の本質、主語と述語の関係と深く結び付いている。そして、西洋語での「冠詞」の機能は、日本語の「助詞」の役割にほぼ一致する。
そこで、一方ではヘーゲルの「判断論」を読みながら、他方で言語学の連続学習会を組織してきた。それは以下のように進められてきた。
1.大野晋『日本語の文法を考える』岩波新書
2.尾上圭介「主語と述語をめぐる文法」(『朝倉日本語講座 第6巻 文法II』に収録)
3.牧野紀之『関口ドイツ語学の研究』
4.関口存男『冠詞論』全3巻
この内の1は一般書で、平易に日本語の本質的な諸問題をまとめている。そこで連続学習会の入り口として最適と判断した。
大野は70年代、80年代の日本語ブームの火付け人。『日本語の文法を考える』は大いに売れ、編者の一人だった岩波の『古語辞典』も大きな反響をよんだ。『日本語の世界』シリーズも売れた。最近でも『日本語練習帳』は200万部近い大ベストセラーになった。『係り結びの研究』で読売文学賞受賞。『光る源氏の物語』など作家の丸谷才一との共著は多い。大岡信や井上ひさしら文学者との親交も多い。これほど、啓蒙活動に貢献した学者はいないだろう。
しかしアカデミズムからの激しい批判にもさらされた。タミル語が日本語の起源だとする日本語起源論はほぼ黙殺。倒置説である『係り結びの研究』では読売文学賞を受賞したが、これもアカデミズムからは強く批判されている。
2は現在の日本語学のトップレベルの研究を知るために取り上げた。「主語と述語をめぐる文法」は、日本語の主語と述語論、そこから助詞ハとガの違いにもまとめている。
尾上は現在の日本語学におけるアカデミズムを代表する一人。東大の教授で、専門は日本語文法論。文の成立に関わる原理的な問題を扱い、主語と述語などの、日本語の根本問題を考えられる少数の一人らしい。また、関西出身で、大阪ことばと文化、落語や笑いなどに関する著作もある(『大阪ことば学』 創元社 1999)
3は関口ドイツ語学について書かれた、ほとんど唯一の本。これを、総論に当たる1章は丁寧に、他はざっと通読し、全体像を押さえてみた。それにしても、関口ドイツ語学について正面から論じた本が他にないのは酷いことだ。「敬して遠ざける」という極めて日本的なやり方だが、ここまで徹底した例は少ない。牧野紀之以外、誰一人としてこのエベレストに挑む人はいないのだ。よく似た例としては、ヘーゲル哲学研究の分野における、牧野への徹底的無視が思い浮かぶ。これが日本の研究者のレベルである。
関口 存男(せきぐち つぎお)は、このメルマガの読者のみなさんには縁遠いだろう。亡くなってすでに半世紀にもなる。しかし、すごい人だ。すさまじい人だ。ほぼ独学でドイツ語をものにし、全く独自の「意味形態論」という観点で、ドイツ語をはじめとする西欧諸言語の諸問題に解決案を出した。そしてその最高峰が『冠詞論』だ。彼はエベレストのように屹立する巨人だが、その巨人性は、他と比較して初めてハッキリ見えてくる。
上記の1?3を読むことを、関口ドイツ語学に入るための準備作業として、6月からいよいよ『冠詞論』を読み始めた。全体は『定冠詞』『不定冠詞』『無冠詞』の3巻から成るが、『不定冠詞』から読み始めて、いま、『不定冠詞』全体の半分ほどを読み終えたところだ。「述語論」が入っていたのが『不定冠詞』だったので、これから読み始めたのだが、不定冠詞には語学上の問題が集中しているようで、抜群に面白い。これほどの興奮、感動は、久しぶりだ。11月に読み終えたが、来年には『定冠詞』『無冠詞』を読み終えたいと思っている。
まだ、関口ドイツ語学のナカミそのものに言及する段階ではないが、日本語学の現状については思うことがあるので、それをまとめておきたい。そして、それに関連する限りで関口についても述べたい。
なお、ヘーゲル論理学の方は、判断論を小論理学と大論理学で8月に読み終え、10月から始めた推理論も12月に読み終えた。こちらについては、別にまとめる予定だ。
12月 14
週刊「教育資料」2010年12月13日号で以下を書きました。
仕事の聞き書き/鶏鳴学園代表 中井浩一/
「僕は父のその決断力、行動力に圧倒された。今の経済の主流はひたすらコストカット、収益重視だ。経営面では今の銀行の建て直しが急務の中ではそれも仕方ないのかもしれない。しかしそういう点で僕は経済について冷たい印象があった。しかし、父が色々な人と出会って生み出した自分なりの信念と、それを貫き通す姿勢は何においても中心になるものだと思う」。
これは、高校生が、銀行マンの父親に仕事の話しを聞いてまとめた、「聞き書き」からの引用である。
仕事の聞き書き
現代の若者たちの問題として、フリーター、ニートの急増、人生の目標の喪失、進路・進学意識の弱さなどが言われるようになって久しい。この大きな原因は、高校生に、仕事の意味や社会の現実が知らされていないことがあげられよう。父親の働く姿を見ていないし、社会のリアルな諸問題にも触れることが少ない。
さてその対策として、私が有効だと思っているのが、親の仕事の聞き書きなのだ。弊塾ではこれを高校生全員に課題とし、保護者にも協力を呼びかけている。そして、塾生みなで互いの文章を読み合って、意見交換をする。
取材する項目としては、仕事のナカミ、仕事の喜怒哀楽。サラリーマンであれば、組織で生きることの意味、同僚や上司や部下との関わり、女性の地位など。多様な視点を生かしたい。大切なことは、「建て前」や「きれいごと」を排除し、できるだけリアルに具体的に語ってもらうことだ。問題や悩みを聞きたい。「自分の子供だ」と思えばこそ、外部に出しにくいことも語れるはずだ。
時代の激変
仕事の聞き書きからは、当然ながら、今の社会の厳しさ、大きな時代の変化も見えてくる。冒頭の聞き書きの父親は、勤め先が三和銀行から、UFJさらに三菱東京UFJへと銀行の再編統合で変わっていく。金融自由化で、初めての「投資部門」に異動がある。そうした中で懸命に仕事をする父親の姿は、息子の心を打つ。
他のケースでは、リーマン・ショック時にリーマンブラザーズに勤めていて職を失った金融アナリストの父親が、当時の内部の様子を生々しく語る場面も出てくる。彼はそれまでに転職を5回重ねていた。90年代の不況下で会社が倒産し、その整理を担当した父親の話も出てくる。起業の話も、リストラの話もある。
単に仕事やこの現実社会について学ぶだけではない。高校生の進路・進学を考えるための事例研究になるように、父親の大学や学部選び、就職先の選択、転職や結婚、単身赴任などについても聞いてもらう。「今の一瞬ではなく、30年後につぶれていない業界を選んだ」「魅力的な上司がいないような会社に、いつまでいてもしかたがない」「80年代のプラザ合意以降、将来の中心はメーカーではなく、金融になると思って、メーカーを辞め、金融アナリストになった」「就職難なら、なぜ中国語を学んで中国で就職しようとしないのか」「転職で自分が外ではどう評価されるか確かめたかった」といった刺激的な発言が出てくる。
親子の対話の復活
大きな副産物もある。親子の対話の復活だ。今の家庭では父親は「粗大ごみ」扱いされている。しかし、父親を尊敬できず、誇りに思えない中では、自分の仕事や人生への敬意や意欲をもてないだろう。
冒頭の聞き書きでも高校生はこう語っている。「自分の仕事に誇りをもち生きている父は、本物の企業戦士だ。父親として見たら子育てもろくすっぽしなかったし、お世辞にも良い父親とは言えない。そう思っていた。しかし、その人生を通して一つのことを貫き通している生き方は、子供の時に一緒にキャッチボールをしたり遊園地に行ったりすることよりも多くのことを僕に教えてくれた」。
インタビューを受けた側の父親たちの感想を2つ紹介しよう。
「日本の父親は一般に自分の仕事の話をあまり子供にしません。でもすべての父親は現代社会の修羅場をくぐっています。自分の父親から改めて仕事の話を聞く(「授業」の一環だということが双方に好影響を与えます)ことで、父親に対する信頼、尊敬などにもつながると思います」。
「自営業ならともかく、サラリーマンの場合には、家庭で自らの仕事の内容を詳しく説明する機会を持っている人はほとんどいないと思います。インタビューを機会として、娘との距離が若干縮まったような気がしました」。
仕事の話を授業で
弊塾では、今年から、一斉授業の中でも仕事の話を取り上げている。前年に出された聞き書きの中から、特に高校生に参考になると思われるものを選び、その保護者たちに来てもらう。生徒たちとはその文章を事前に読みあって、内容について話し合い、質問項目を考えあう。クラス毎にインタビューの担当を決め、当日は「講演」ではなく、生徒自身によるインタビューの形式で行った。幸い、生徒からも、協力してくれた保護者からも好評だった。今後も継続していきたいと思っている。
こうした授業や、聞き書きの実践が、全国の学校、大学、塾などで、数多く試みられることを期待したい。