12月 11

独断論

ヘーゲルは小論理学の32節で「独断論」について述べている。

 「独断論」とは「有限な規定の本性によって、2つの対立する主張の内の一方が真で他方は偽でなければならないとする」考えと、本文にある。

 また、付録には、「一般には『あれかこれか』を厳しく考えるもの」「悟性の一面的な規定に固執し、それと対立するもう一方の規定を排除するような考え」「真理は全体的なものであり、独断論が切り離して真理だとし確固たるものだとした諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」とある。(以上、牧野紀之訳、鶏鳴出版から)

 さらに、牧野紀之は注釈で、次のように述べている。

 ヘーゲルの弁証法は「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」という考え。したがって、対立物の一方をすてて他方だけをとるやり方は、どんな根拠に基づいていても、真の根拠を示さないことであり、根拠を示さない主張、つまり独断論と言える。

 ヘーゲルの説明よりも、牧野の方がさらに一歩踏み込んでいると思う。さて、では、「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」とは、具体的にはどういうことか。

 親子や夫婦の関係で、その共依存関係を説明しているような本では、両者の共依存の関係がいかに大きな問題で、自分と相手の自立を妨げるか、といった説明が一般的だ。ここではすべての関係を自立と依存を2つにわけ、「自立か、依存か」の2者択一を迫っていると言える。これが「『あれかこれか』を厳しく考えるもの」「悟性の一面的な規定に固執し、それと対立するもう一方の規定を排除するような考え」である。

 拙著『大学法人化』でも、文科省と国立大学の関係を甘ったれ坊やと過保護ママとして批判したが、これも共依存の側面を強調したもので、悟性的な批判と言えよう。

 こうした説明はわかりやすく、ある側面をくっきりと浮き上がらせる効果がある。しかし、それだけでは一面的であり、大きな方向性を考えるには良いが、実践的にはあまり役に立たない。実践は、個々の具体的状況を踏まえなければならないからだ。

 では、「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」とか、「独断論が切り離して真理だとし確固たるものだとした諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」というのはどういうことだろうか。

 例えば、上の共依存を例にすれば、「自立(区別、バラバラの側面)」の根拠に「依存(支え合い、分かち合いの関係)」を求め、「依存」の根拠に「自立」を求めることだ。それはどういうことか。「良い自立」は「良い依存」に支えられ、「悪い依存」は「悪い自立」と一体のものであるということだ。人間関係は、すべてに依存と自立の両側面があり、それらは相互関係であって、切り離せない。したがって、問いは「自立か、依存か」ではない。問題を正確に現せば、「どのような自立が、どのような依存とつながっているか」なのだ。こうした相互関係を見抜き、どのような関係が、二人の成長発展を促進するか、妨げるかを問題にしなければならない。個々の具体的状況のもとで、こうした関係性を具体的に捉えない限り、実際の問題解決には役立たないだろう。

 そしてこれが「(「自立」と「依存」という)諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」ということだと思う。つまり、自立と依存の奥に、人間の成長や発展の運動を見抜き、そのための契機として両者の関係を見ていかなければならないのだ。
                              (2010年12月6日)

12月 09

2010年ワインツーリズムの総括準備会議

12月6日に、甲府に行ってきた。

笹本貴之さんたちワインツーリズム実行委員会の2010年度のワインツーリズムの総括会議(準備会)があり、そこにオブザーバーとして参加したのだ。

問題点、矛盾点がきちんと出されて話し合われたのが良かった点だろう。どの運動や組織にも問題点があるが、それが隠されたままで、議論されることが多いと思う。

ワインツーリズムの現在の最大の問題点は、地元やワイナリーたちの主体性がまだまだ弱いことと、笹本さんたち企画運営にたずさわるメンバーがただ働きになっていることだ。3年たっても、それが改善されない。その問題はもはや放置できないところまで来ている。

企画運営の主体(会社組織か、NPOかといったあり方は一応別として)を立ち上げ、それがビジネスとして成立する形を目標にすべきだろう。しかし、それとともに、各地元の実行委員会が主体性を発揮し、企画運営組織と対峙し、対等な形でのジョイントにならなければ、本末転倒だろう。

そうしたところに、今さしかかっている。
それがきちんと確認され、意見交換ができたのがよかった点だろう。

なお、霞ヶ関でも動きはある。経済産業省の地域経済産業政策課が「地域資源経営勉強会」を発足させる予定で、そのコアメンバーとして、笹本さんたちワインツーリズム実行委員会から数人が参加する。他には風見正三(宮城大学事業構想学部事業計画学科 教授)、木下斉(一般社団法人エリア・イノベーション・アライアンス 代表理事)などがいるが、この2人は例の『コミュニティービジネス入門』の編者や著者である。
この成果にも期待したい。

12月 07

 ◇◆ 「医療行為」と「治療行為」 ◆◇

 ゼミのメンバーに某大学の大学院生がいる。精神科の医者になることを目指しているが、現在は精神分析に関する修士論文を書いている。彼から「医療行為」と「治療行為」という対概念を聞いて、これは面白いと思った。

 医療については、民間療法や東洋医学、似非医学などが常に問題になる。薬も薬事法に基づく正規のものから詐欺まがいのものまでが混在する。私が高く評価している野口整体などは、「医療行為」ではないから、保険がきかない。そのために金持ちのための医療になり勝ちだ。
これをどう考え、どう整理したらよいのだろうか。

 国が認めた「医療行為」と「治療行為」を区別して考えると、いろいろなことが見えてくる。もともと人類の発生と共に、「治療行為」はあったはずだ。母親が手当(子どもの痛いところに手を当てたり、さすったりすること)をしたり、「いたいの、いたいの、飛んでイケ?」とまじないをかけたりするのは、誰もがやっている治療行為だ。それは人類とともに古く、また普遍的だろう。

 また、民間療法もそうだ。呪術師や行者たち、仏教者も、さかんに治療行為を行ってきた。はじめはそれが医療だったし、それしか医療はなかった。しかし、いつしか、そうした治療行為の中から、またはそれらとは別に、「医療」なるものが生まれ、科学とともに体系化され、国家が承認、管理するようになった。この段階で初めて、「医療行為」と「治療行為」とははっきりと区別されるに至ったのだ。

 しかし、これまでも、これからも常に、人々の中に、生活の中に治療行為はある。特に心理的な側面ではそれが大きな力を持つことは、誰も反対しないだろう。そうした普遍的で根源的な治療行為が行われる中に、極めて特殊な異物として「医療行為」が存在している。それが実態ではないだろうか。それが逆転し、「医療行為」の中に、異物として「治療行為」がきわめてまれに行われている。そうしたイメージが広がっているのではないか。どちらの把握の方が真実に迫っているのだろうか。

12月 05

◇◆ 「付き合い」と「コクル」の関係  ◆◇

 高校生や大学生から「コクル」という表現を聞いたのは、15年ほど前になる。20年前には聞かなかったと思う。「好きだ」と告白することと知って、なるほどと思ったが、当時は特に問題には思わなかった。

しかし、その後、その内実を知るようになり、これはおかしいと思うようになった。今時の若者たちは、「コクル」ことから「付き合い」が始まり、どちらかが解消を申し出るまではその「付き合い」が続く。「付き合い」があるかないかは、この「コクル」が目印であり、これがない限り「付き合い」ではない。「付き合い」が続く間は、基本的には他とは付き合わない。これが彼らの男女間の「付き合い」の定義なのだ。

前からもう一つ気になっていた言葉が、「元カレ」「元カノ」だ。それがたびたび今カレになり、元カレに戻り、また復活する。何をやっているのかわからなかったが、彼らの「付き合い」の定義が上記のようなら、何度でも切れてはつながるのも当たり前なのだ。

これはおかしい。まず、このやり方は不自然だ。「付き合い」とは事実レベルの問題であって、「コクル」かどうかには、直接は関係がない。また、事実としてある程度付き合わない限り、自分の感情を確かめようがないはずだ。「コクル」前に、「付き合い」が必要だろう。ここら辺はどうなっているのだろうか。

また、同時並行で何人とでも付き合っても良いではないか。ある程度数をこなさなければ、異性の本質など見抜けるようにはならないだろう。そして、異性がわからない限り、自分のことも理解できないだろう。

そう考える私には、彼らのやり方が、どうにも姑息に感じられる。これは体の良い「囲い込み」ではないのか。弱者同士が、相手を確保しやすくするためのお手軽コースではないのか。
そう言うと、「それは中井さんが強者の立場だからそう言うのであって、大多数は弱いのだから、防衛策を講じて当然です」と言う。

こんなバカげたやり方をしている若者はどの程度いるのか、とたずねると、ある人は「9割ほど」、ある人は「いや?ぁ、95%はそうですよ」。

「草食系」とはこのことかと思い、「若者の保守化」という言葉も頭に浮かんだ。

11月 28

対等な関係における意見交換、相互批判の原則 その4

夏の合宿以降、ゼミ生相互の信頼感が急速に深まってきたようだ。一部にではあるが、活発な意見交換、相互批判が行われるようになった。

しかしそうした中で問題も出てきた。批判の言葉に傷ついたり、感情的になったりすることが起こってきたのだ。このことは当然予測されたことだ。一つ上のレベルへ高まろうとする限り不可避のことでもある。

師弟関係は上下関係だが、ゼミ生間は対等な関係だ。そこにはこれまでとは別の原則が必要になるのだ。

この10月に、その原則について話し合いをした。私は一般的な原則と感情的になることについての対策の2つを中心に提案をした。そのレジュメをここに3回にわけて発表する。

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◇◆ 仲間内でのアドバイスや批判をどう考えるか 中井浩一 ◆◇

          2010年10月23日

三 各論
(1)牧野紀之の「討論の5原則」 → 牧野は構造的に問題を把握できていない

1.認識
個人の認識と集団的認識 →1と5
ここでは「認識のルール」がそのまま集団のルールになる
討論を集団的認識の問題としてとらえたのは、大きな意義がある

  2.自立
他人への依存と自立の問題 それが3と4
   「人の尻馬に乗る」はこの問題。夏目が「他者本意」で問題にしたのはこれ

  3.感情的
「感情的になるな」というルールが2。ただし、これではあまりに不十分

(2)メディア、媒体の問題
1.メールやメーリスは、事務連絡や情報提供にふさわしい
2.意見の表明も良いが、意見対立、こみいった議論には向かない
3.そうしたものは、手紙にするか、直接に会って意見交換するのが良い

(3)レッテル貼り、先入観
方法一般の問題
内在的に克服するしかない

(4)夏目漱石の個人主義(参考に)
1.党派主義の親分・子分関係。みなが一体であるが、自立できない。
2.個人主義の師弟関係と同志関係。
みなは孤独でバラバラ。しかし自立し、深い信頼関係がある。