11月 26

 「痴呆を通して人間を視る」(その3)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、4回に分けて、掲載しています。本日は3回目です。

■ 本日の目次 ■

 「痴呆を通して人間を視る」(その3)
 7月の読書会(小沢勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
 記録者  金沢 誠

4.各章の検討
(5)第3章の検討
(6)第5章の検討

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4 各章の検討
(5)第3章の検討

・P73「それが見えないのは、私たちが見ようとしていないだけである。
    遠くからこわごわ眺めていては見えない。」
 → 見ようとしない人には何一つ見えない。

・P81「話し始めると止まることがない。」
 → 話しを聞いてくれる人がいれば話す。

 → ここでの問題は、家族という閉じた空間で起こっているということ。
   閉じた関係のなかでの解決は不可能。第三者が、中に入らないと
   解決できない。だから、外に、助けを求めなければならない。

・P82「彼らが激しい攻撃性によってこころの奥底に潜む不安と寂しさを
    覆い隠そうとしているに違いない」
 → 攻撃的な人の根本にあるのは、寂しさと不安。そもそも、なぜ攻撃的に
   ならなければいけないのか分からない。自分が壊れてしまうから攻撃的になる。

・P84「最も依存すべき相手だからこそ」
 →「実は彼らが妄想対象に依存したいというこころを秘して」いる。

・P87、88「もの盗られ妄想」
 → なぜ、ものを盗られたという妄想になるのかというと、自分が依存したいのに
   できないという感情と、ものを盗られて大切なものがなくなった時に味わう
   感情が似ているということ。感情的に近い現象として表現することで、
   自分の思いを伝えている。

・P89「喪失感こそが妄想の根底にある彼らの本質的な感情」
 → 攻撃性の方しか表には見えない。その後ろには、寂しさがある。

・P90「老いを生きる」
 → 家族や友人が死に、だんだん周りがいなくなっていく。このような喪失体験を
   重ねていく。その時に、それでも寂しくないという生き方をつくっておかないと
   いけない。

・P93「痴呆進行の加速度」
 → 痴呆に加速度がつく時に、周辺症状がたくさん表れてくる。
 → これから自分はどうなっていくのか分からないという怖さ。その人が、
   このような不安、怖さの中に生きているということを感じられる人が、
   その人のまわりに一人でもいるか、いないかでは、その人の周辺症状の表れに
   違いが出てくる。

・P103「人柄」
 →「人柄」とは、これまで生きてきた、その人の生き方のこと。

・P104「波乱万丈の人生」
 → このページで紹介されている例は、波乱万丈の人生ではない。波乱万丈の
   人生ならば、人に助けを求めるということを何度もやったはず。

・P111「女性のエネルギー」
 → 10代から高齢者まで、女性の方が圧倒的にエネルギーを持っている。

・P115「優位な立場で妻を所有することによってようやく維持される価値しか
    自分には残されていないと感じる人たちが嫉妬妄想に追いやられる。」
 → これは母親が子供に対して、子供を所有するという形で、優位な立場を
   確認することと同じ。このことも特別に、痴呆によって出てきている問題
   ではない。そもそも、こういうことが自分の存在証明になるような生き方を
   している人はどうしようもない。

・P126「漠然とした事象に一つの言葉が与えられると、本来その事象が含んでいた
   さまざまな差異が無視され、同一の事象とみられがちになる。」
 → このような指摘ができるこの著者は、他の人とレベルが違う。
   本来は、区別しなければいけないことが、一緒くたになってしまっている
   ことはとても多い。この著者はそれを区別して説明していく。

・P136「帰宅願望」
 →「帰る」は、女性で、「家に帰る」。「行く」は、男性で、「会社に行く」。
   今の日本の多くの男が「行く」という時、「会社に行く」となっているのは
   事実だと思う。「会社に行く」ではなく、自分自身のテーマがあり、
   そのテーマを解決するために、会社のチームの仲間や、そこで付き合いの
   あった相手方の所に行くならば、問題にはならない。

・P140「徘徊」
 → 付き添いの人と一緒に歩いて、疲れたから帰ってくるのではなく、一緒に
   歩いて自分の話を聞いてくれた人との関係があるから、その関係性をその間に
   作れたから、その関係のある所に、帰ってくることができる。

・P144「偽会話」という究極のコミュニケーション
 → 現象的には会話になっておらず、見せかけの交流のように見えるが、
   実際には、コミュニケーションが成立している。なぜなら、お互いの存在を
   確認しあうようなことが、そこで行われているから。こういう時には、
   話の中身はどうでもよい。コミュニケーションの究極の段階。だが、それほど
   特別なことでもない。人間と人間は、そういう所でつながる部分がある。

(6)第5章の検討

・P191「最も適応する力が衰えた時期に、最も厳しい適応が要求される」
 → もっと重要な課題は、自分が死ぬということを、最後の段階で、一人ひとりが
   やらなければいけないということ。最も適応する力が衰えた時に、死に向かって、
   自分で、一つ一つやっていかなければいけない。

・P198「急がず時間をかけて、繰り返し繰り返し語られる彼らの言葉を、
   こころをこめて聴く」
 → 相手に語ってもらって、それを聞くことが大切。
 → こういうことを施設の人に期待することはできない。自分でやらなければ
   いけない。ただ、痴呆になってからでは遅い。

・P199「ストーリーの真偽」
 → この場合のストーリーは本当なのか、という場合の「本当」とはどういう意味か。
   その話が客観的な事実と一致していなくても、その人が実際にそれを支えとして
   生きているということが大事。

・P209「ズレとギャップ」
 → ギャップを無くそうとするのは間違い。ギャップがなかったら成長しない。
   ただ、ギャップがあるから絶えず苦しい。でも、それを引き受けるしかない。
   そのギャップが、自分の生きる原動力になっていくような生き方をしたい。

・P211「障害受容論」
 → いきなり第5段階の受容にはいかないということ。一人一人が違うプロセスで、
   最後に向かって、一歩、一歩、歩いていくしかない。

 → これは死の問題だけでなく、人間が成長できるかどうかという問題。
   自分の弱さ、能力の低さ、勇気や覚悟のなさ、などのことを受け入れない限り、
   成長はない。ところが、多くの人は受け入れない。自分のなかで自分と
   取引きをして、あの手この手で認めようとしない。人に「助けてください」
   と言えない。だから先に進むことができない。

・P217
 → 最後の時間を、誰とどのように過ごしたかということが、その人が死を
   受け入れることができるかどうかを決め、また、その人とともにいた人も、
   その人の死を受け入れることができるかどうかを決める。つまり、個人の
   問題ではない。人は関係のなかに生まれてきて、関係の中で死んで行く。
   だから、そのような関係のないなかで、一人で死んで行く、というのは
   非常につらい死に方だと思う。

 → 受容は一人ではできない。それが一人でできる人は普通ではない。だから、
   どういう関係のなかで、ある人の死を受け入れるか、どういう関係の中で、
   自分が死んで行くのか、ということ。これならば普通の人にもできる。
   信仰は、その相手を神に求める。

11月 25

 「痴呆を通して人間を視る」(その2)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、4回に分けて、掲載しています。本日は2回目です。

■ 本日の目次 ■

 「痴呆を通して人間を視る」(その2)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
  記録者  金沢 誠

4.各章の検討
(3)第2章の検討
(4)第4章の検討

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4.各章の検討
(3)第2章の検討

・P36「痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、
    時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往還している。
    今を過去が照らし、過去を今が彩る。」
 → これは痴呆に関わる人だけのことではない。人間ならば誰でも、
   このように生きている。

・P36「彼らにかかわる私たちは、同じ時間を共有することなどできそうにない。
    それでも、彼らには彼らの歴史があり、時間の重みがあることだけは
    忘れてはなるまい。」
 → だが、今の実際の介護の現場では、一人ひとりの後ろにある、それまでの
   人生の重さを受け止めてくれる人がいない。
   ただ、それは個人の問題ではない。特別養護老人ホームも老人保健施設も、
   スタッフの数が少なく、物理的に無理なのだ。それは行政の問題。
 → だが、本来どうあるべきかを考えた場合、目の前にいる痴呆の人には、
   その人なりの人生があり、そのすべての人生の上に、今、そこに存在
   している、ということが前提だ。

・P43「ケアには相手の心根を汲むという作業が何よりまして大切である。」
 → これはケアに限らない。人間が、人と関わる時には当然のこと。
   ただ、痴呆の場合には、このことがより重要になる。

・P45「痴呆のケアにあたる者は、痴呆を生きるということの悲惨を見据える
    目をもたねばならない。しかし、その悲惨を突き抜けて希望に至る道
    をも見いださねばならない。」
 → 悲惨を見つめることはきつい。しかし、そこから目をそらしては、
   希望に至る道は見えないはず。これは痴呆を病む人だけのことではない。
   人間は、関係性のなかにしか生きられない。どういう人間と、どういう
   関係をもって、生きていくことができるかということによって、
   その人間が、幸せになれるかどうかが決まる。そのことが、
   痴呆になることで増幅されるにすぎない。

・P48「罪の意識」 
 → 罪の意識で、妻の介護をするような人生を生きてきた男は情けない。
   現在の高齢者が、このようになることは、社会的に仕方ない面がある。
   だが、今の若い人が、こうなったら、すべて自己責任。

・P50「生きるエネルギーが衰えていく」
 → 精神科の医者は、すぐに薬で抑え込もうとする。それは生きる
   エネルギーを奪う。薬によって病気を抑えようという発想が正しいのか。
   正しくないことは明らか。
   しかし実際の治療の現場では、薬で抑え込もうとする。

・P52「『かわいいー』とはやし立てる」
 → 怒りを覚える。相手を人間として見ていない。介護の現場のスタッフの
   なかにおかしい人がいることは事実。その場合には、その都度、
   その当人や責任者に、おかしいと批判しつづけなければならない。
   そうしなければ現場は一歩も変わらない。

・P54「聖なるもの」
 → ここまで突き進むことができるかどうかが問題。

・P61「どんな悲惨な状況にあっても、いや悲惨だからこそ、ひととひととの
    つながりが『幸せ』を招き寄せる、と信じたい。」
 → こういう信念がなかったら、この厳しい現実のなかで、やっていけない。

・P69「しかし、耕の誠実は耕自身を確かに救ったが、彼女を救うまでには
    至らなかったのかもしれない。」
 → この著者は、こういう所で感傷的にならない。最終的な判断は、
   読者に委ねて、読者みずからが考えて、答えを出す以外にはない、と
   突き放す。

(4)第4章の検討

・P158 
 → 認知症の人が、このような表現活動、知的活動を続けることができて
   いる稀有な例。
   なぜそれが可能なのか。そばに完全にサポートしてくれる人がいるから。
   それがなかったら不可能。逆に言えば、そういう人がいると、かなりの
   ことができるということ。

・P161「記憶障害があれば痴呆か」
 → 記憶障害自体は、他にもたくさんある。だが、それらと認知症の
   記憶障害とは何が違うのか、という問い。
 → その答え。記憶障害それ自体が認知症ではない。記憶障害であると
   いうことに対する無関心、さらに、それの否定という所まで行くと
   認知症ということになる。

・P165「見当識障害」
 → だれでも迷子になる。そのことと認知症の見当識障害とはどう
   違うのか。その答え。人に助けを求めることができるかどうか。 
 → 人に助けを求めることができるということは、自分の力では解決できない
   という自覚があるということ。その時に「助けてください」と
   言わなければならない。
 → 認知症の人は、自分が迷子になっているということ自体は、かすかに
   分かっている。だが、何とかしなければいけないという自覚が弱い。
   さらに、その自覚はあっても、人に助けてもらわないと自分ではもう
   解決できないということが分からない。だから助けを求められない。

 → これは認知症に特有のことではない。実はすべての人間に言えること。
   自分が行き詰っているのに、それが認められない。なんとかなると
   思っている。自分の変なプライドがあり、人に「助けてください」
   などと、みっともないことは言えないと思っている。
   ここで問題になっていることは、人間の本質的な問題そのもの。
   これは認知症だから出てくる問題ではなく、人間すべての問題。
   それが認知症のなかに、非常にはっきり表れてくるだけ。

・P168「定常的スケジュール」
 → 人間は、こつこつ地味に努力して生きていく以外にはない。
   ある日、突然、何かすごい変化が起こるなどということはない。
   ただ、毎日の地味な努力の積み重ねがあるだけ。

・P169「実行機能の障害」
 → これは人間すべてにとって難しい。自分が間違っているということを、
   自分で認めることはつらい。だから、ほとんどの人は、できるだけ見ない
   ようにして、ごまかす。
 → 痴呆になって、こうした周辺症状がでるということは、もともとその人の
   生き方が、このようなものであったということ。それがより強く表れる
   というだけのこと。

 → 痴呆になっても、こうした周辺症状は出ない生き方があるということ。
   自分が間違った時には、それを認め、助けが必要な時には、人に助けを求める
   などのことをやって生きてきた人間は、こうした症状にはならないということ。
 → 人に「助けてください」と言える人が、自立した人間であるということ。
   自立している人間は、本当の意味で依存ができる。「助けてください」と
   人に言える。思い切って依存ができる人が、自立が出来ているということ。

・P174「ズレが存在する」
 → この本の著者の素晴らしい所は、このズレをなくそうとするのではなく、
   このズレを大切にしようという所。人間が現実からズレて生きていること
   自体は問題ない。むしろ、ズレがなかったら成長しない。
   問題は、このズレをどのように処理すればいいのかということ。
   痴呆の人の場合は、とりあえず妄想の形で、それを解決する。
   だが、痴呆の人だけでなく、多くの人も同じことをやっている。

・P175「うたこ だんだん ばかになる どうかたすけて」
 → これがなぜ賢い叫びと言えるのか。自分が、ばかになるということを
   自覚している人間と、実際は、ばかなのに、それを自覚していない人間と、
   どちらが、ばかなのか。
 → こういう所を読むと、詩の力というものがあると感じる。
   文学の力というものは捨てたものではないと思う。

・P181「新たな生き方の発見」
 → このこと自体も、人間関係のなかで、常に出てくる2つの面。
   ある人と関わりをもったら、その人に依存したいという思いと、
   その人から自立したいという思いを持つのは当然。

11月 24

「痴呆を通して人間を視る」(その1)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、本日から4回に分けて、掲載します。

■ 全体の目次 ■

「痴呆を通して人間を視る」(その1)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
  記録者  金沢 誠

1.はじめに
2.参加者の全体的な感想
3.中井の全体的な感想
(1)全体について
(2)構成と言葉の定義
(3)親子関係について
4.各章の検討
(1)「はじめに」の検討
(2)第1章の検討
→ ここまで本日(11月24日)掲載

(3)第2章の検討
(4)第4章の検討
→ ここまで11月25日掲載

(5)第3章の検討
(6)第5章の検討
→ ここまで11月26日掲載

5.読書会に参加しての感想
6.記録者の感想
→ ここまで11月27日掲載

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■ 本日の目次 ■

1.はじめに
2.参加者の全体的な感想
3.中井の全体的な感想
(1)全体について
(2)構成と言葉の定義
(3)親子関係について
4.各章の検討
(1)「はじめに」の検討
(2)第1章の検討

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1.はじめに

・日時 2012年7月14日
・参加者 中井、社会人2名、大学生1名、浪人生1名、内部生1名、
     内部生の保護者1名の計7名   
・テキスト 小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』岩波新書
・備考 今回の読書会は、鶏鳴学園に通う高校生の保護者にも参加を
    呼び掛けた
・記録者 金沢 誠

2.参加者の全体的な感想

・この本を読む前に自分が持っていた介護の仕事のイメージは、低賃金、
 汚い、暗いという印象だったが、本を読んでみて、介護の仕事は、
 人間の本質が表れる仕事だと思った。自分の母親との対立の問題など
 を考えながら読むことができた。

・自分の身近な高齢者を見ていて、この本に書いてある「身体のささいな
 変化が、老人にとっては精神的なショックと結びつく」ということを
 考えさせられた。
 原発事故で家を追われた高齢者の方たちの環境の変化は、大変なものが
 あったのだろうと思った。

・精神医学に興味を持っていて、一番近い人で、もっとも依存すべき相手
 だからこそ、その人に攻撃してしまうという部分に思う所があった。

・特養ホームに入院している親戚がいるが、そのことに関わることが
 ほとんどなく、避けて来ていた。
 これまでは痴呆の人に会っても意味がないだろうと思っていたが、
 この本で「ボケてもこころは生きている」という所を読んで、驚いた。
 痴呆の問題だけでなく、日常の自分の人との関わりのことで、
 考えることが多かった。

・以前、職場で痴呆や介護のことを勉強したことがあったが、その時に
 習ったことと、今回のテキストの著者の言っていることとは違うと
 感じた。
 痴呆の初期の親戚がいて、その時にどう接したらいいのかなどを
 考えたい。

・特に3章ではっきり表れていると思うが、たくさん問いが立っている
 と思った。
 それから、この著者は、明確な否定のある人で、そこからこの人の仕事が
 始まっていると思った。

3.中井の全体的な感想

(1)全体について

 この本を読んで感動した。認知症を外から理解しようとする本は
 たくさんあるが、この本は、認知症を生きている人の側に立って、
 その人の世界を理解しようとする立場から書かれている。

 人間そのものの本質に迫っている。この本に取り上げられている問題は、
 すべて自分の問題として考えることができる。逆に言えば、この本が
 他人事にしか読めない人はおかしいということ。

 この人の文章は、圧倒的に問いが立っていく。問いが立つということは、
 現在、世間で行われていることがおかしいのではないかという、
 強い疑いがあるということ。

(2)構成と言葉の定義

 本の構成に問題がある。
 1章と2章は序論。本論は3章、4章、5章だが、本論を3章(周辺症状)
 から始めるのは間違い。4章(中核症状)から始めなければいけない。
 その次に、妄想などの周辺症状を取り上げた3章が続き、最後に、
 全体を踏まえたうえで、ではどうしたらいいのかということを問題にした
 5章が続かなければいけない。この読書会では、この順番で取り上げる。

 この著者は、このようなことができていない。こういうトレーニングを
 していない。精神科の医者で、特に無意識ということを扱う人たちは、
 意識的にトレーニングをするということをなおざりにしがちなのではないか
 と思う。

 この著者は、ケアと治療を概念として区別している。しかし、その定義が
 曖昧。著者の代わりに整理すると、治療とは直接の医療行為のことで、
 これは医者や看護師の仕事。ケアとは、直接の医療行為以外のすべてのこと。
 生活、生き方を含めたもの。

(3)親子関係について

 今回のテキストで考えたいことは親子関係のこと。
 鶏鳴学園では親からの自立ということを強調しているが、自立ができた
 後のことは、これまで問題にしてきていない。

 親から自立できた後には、自分の親が生活する能力を失う時が来て、
 介護の問題が出てくる。親子関係の最後には、親の死を看取るという段階が
 ある。そこで、親の最後に対して、どういう関わり方をするかという問いの
 答えを出さなければいけない。死までを踏まえて、親子関係の問題を
 考えておかなければならない。

 それと同時に、もう一つの大きなテーマである、死ぬということを
 どのように受け止めるかという問題がある。親が死ぬこと、
 自分も死ぬということ。

4.各章の検討
(「→」で示した部分は、すべて中井の発言をまとめたもの)

(1)「はじめに」の検討

・iiページ「悲惨を見極めた者だけが到達できる清明な達観が
     ここにはある。」
 → 絶望したことのない人間は、ろくなものではない。私は絶望の先に
   何かを手に入れた人間以外は、相手にしたくない。

(2)第1章の検討

・P14「私は、これまでケアに行き詰ったときには、いつもこの言葉に
    立ち戻って考えてきた。たとえば、『一生懸命に生きている』
    という言葉。長年、痴呆を病む人たちとおつきあいしていると、
    本当にそう思う。私よりよほど彼らの生き方は懸命だなあ、
    と感じるのである。」
 → どんなに優れている人でも、懸命に生きていない人がいる。
   私はそういう人を軽蔑している。

・P14「これまで痴呆を病む人たちが、処遇や研究の対象ではあっても、
    主語として自らを表現し、自らの人生を選択する主体として
    立ち現れることはあまりに少なかった」
 → 相手の主体性を、徹底的に尊重していくということが、この著者の立場。

11月 23

公開講演・討論会のご案内 11月25日(日)
「研究不正と国立大学法人化の影―東北大学再生への提言と前総長の罪」

私(中井)は昨年から東北大、岩手大、福島大の、震災後の対応を取材してきました。
その過程で、東北大の前総長の井上明久氏の研究不正疑惑と、それへの内部告発を巡る学内の混乱を知りました。

私なりに、その研究不正と、学内の混乱の背景を考え、文章にまとめました。
その拙稿を第1章とした報告書『研究不正と国立大学法人化の影』が社会評論社から11月25日に刊行されます。
私以外の執筆者は東北大学の有志の先生方で、この問題の解決に向けて調査・研究をしてきました。その集大成の報告書です。

この出版を記念して、公開講演・討論会を開催します。関心のある方はおいでください。

以下、主催者「東北大学フォーラム」からの案内文です。
連絡や問い合わせなどは、主催者(以下に連絡先あり)に願います。

各位
標記の公開講演・討論会を下記要領で開催します。ふるってご参加ください。

趣旨
総合学術誌『ネーチャー』でも報道された、井上明久東北大学前総長の研究不正疑惑と大学運営における私物化問題は、東北大学関係者有志の5年にわたる徹底的な調査・研究によって究明され、その驚くべき全貌が克明に明らかにされた。研究不正と大学の私物化は、東北大学という一大学の問題ではない。日本の大学行政・研究費政策の歪んだ構造的背景に起因するものである。本年11月25日、東北大学有志によるこの問題の調査・研究を集大成した報告書が『研究不正と国立大学法人化の影』と題して社会評論社から刊行される。

同書では、
(1)2004年の国立大学法人化によって、研究資金をめぐる大学間、個人間の競争が政策的に強化され、研究不正発生の温床になったことが全国の豊富な事例によって明らかにされ、井上前総長による研究不正の隠蔽と大学私物化の背景には、法人化後出現した総長専決体制と、膨大な総長裁量経費、57億円超 ? この金額は、教育系の地方国立大学の年間運営費交付金はむろん、国立大学法人一橋大学の運営費交付金(56億5千万)を上回る ? の存在があったこと、またその経理に関する問題点が整理されている。

(2)約18億円の国費が投じられたJST(科学技術振興機構)の井上過冷金属プロジェクトの代表的研究成果27編の論文のうち、6編もの論文に データの改ざん・ねつ造が確認され、JSTに不正告発されたことが詳述されている。JSTは本年1月の調査報告でこの代表的研究成果27編の論文には問題がないとしていた。告発はこの調査報告の結論を正面から否定するものであるが、JSTはこの新規告発を正規に受理し、調査に乗り出していることが紹介されている。

(3)名誉毀損裁判で当初の原告の一人、横山嘉彦金属材料研究所准教授が、本年連休明けに提訴を取り下げ、大室弁護士らを解任したこと、いまやこの裁判は井上前総長一人を本訴原告、反訴被告として争われていること、最近、井上前総長は、裁判の準備書面で、不正がないと強弁していた1996年論文の自己矛盾を認めざるを得ない発言をしていること、等々、裁判の直近現況が詳細に明らかにされている。

(4)最後に、東北大学を代表する3つの付置研究所、金属材料研究所、電気通信研究所、多元物質科学研究所の元・前所長3名の名誉教授が、井上問題の深刻さを憂え、東北大学の再生のために、まず何をなすべきかを声明にしたが、この声明が全文収録されている。

本講演、討論会では、本書の核心をなすこうした4つの論点についての本書の編著者、寄稿者の報告をうけて、 報道関係者を含め、出席者との間で質疑応答を行い、問題解決の道を明確にする。

―記―
日 時 : 2012年11月25日(日) 15時 ? 17時30分
会 場 : 明治大学紫紺館(旧明治大学生協会館、リバティタワーの斜め向い側)
TEL.電話03-3296-4727
アクセス : http://www.meiji.ac.jp/koyuka/shikonkan/copy_of_shikon.html
JR御茶ノ水駅下車 徒歩5分、地下鉄神保町駅下車 徒歩5分

発言予定者 ?.「研究不正と国立大学法人化」(上記論点(1)) 日野秀逸(東北大学名誉教授)、中井浩一(教育ジャーナリスト) ?.「新たに発覚した井上の研究不正、名誉毀損裁判の最新現況」
(上記論点(2)(3)) 青木清(北見工業大学名誉教授、同元副学長)、松井恵(弁護士) ?.「東北大学再生への提言」(上記論点(4)) 齋藤文良(東北大学名誉教授、前多元物質科学研究所長) 矢野雅文(東北大学名誉教授、前電気通信研究所長) 鈴木謙爾(東北大学名誉教授、元金属材料研究所長) 司会:高橋禮二郎(東北大学元教授) 主 催 : 東北大学フォーラム
会 費 : 500円

連絡先:
松田健二(社会評論社代表):090-4592-2845
e-mail: matsuda@shahyo.com
大村泉(東北大学教授): 090-6459-1605
e-mail:iomura@econ.tohoku.ac.jp

11月 23

7月の読書会のテキストは『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、明日から4日に分けて、掲載します。

『痴呆を生きるということ』は感動的な本でした。
私の思いは、読書会の案内として、メルマガ(6月25日配信)の号外に、書きました。
読書会の記録の掲載の前に、再録します。

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◇◆ 人間そのものの本質に迫る本 『痴呆を生きるということ』 ◆◇

『痴呆を生きるということ』 (岩波新書847) 小澤 勲

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出版社/著者からの内容紹介

痴呆老人は,どのような世界を生きているのだろうか.

彼らは何を見,何を思い,どう感じ,
どのような不自由を生きているのだろうか.

痴呆老人の治療・ケアに20年以上携わってきた著者が,
従来ほとんど論じられてこなかった痴呆老人の精神病理に光をあて,
その心的世界に分け入り,彼らの心に添った治療・ケアの道を探る。

(アマゾンより引用)

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これは素晴らしい本です。
認知症という特殊な病を理解するために
大いに有効なだけではありません。

これは、人間そのものの本質に迫っている本なのです。

認知症を、外から理解する本は多数あります。
この本は、そうした本ではなく、
認知症をその内側からとらえようとするのです。

徹底的に患者本人に寄り添い、当人の心の世界を、
当人の側から理解しようとします。

彼らはどのような世界を生きているのか。
それを理解し、その世界をともに生きようとします。

この本は、認知症の人の世界を解き明かしただけではありません。
それを通して、すべての人間の本質、社会と家族との関係で
生きることの本当の意味を浮き彫りにします。

それほどの深さと広がりを持った本です。

最近、私の父が入院しました。

腰をいため、食事がとれなくなったからです。
そして入院生活の中で、認知症の症状がはっきりとわかりました。
約2年前から、認知症は進行していたようです。

私が気づくのが遅すぎました。しかし、そんなもののようです。

父と一緒に生活し、介護していた母も、父を認知症だとは思わず、
「寝ぼけている」とか、「意地が悪くなった」とかと、こぼすだけでした。

私の妻の母は20年ほど前から認知症で、
その義母との関係で私もそれなりに認知症を理解しているつもりでした。

しかし、そうではなかった。
直接の当事者か否かでは、それほどに違うようです。

今は、少子・高齢化社会です。
家族が認知症になり、その介護で悩み苦しんでいる方が
多いことと思います。

他人ごとではなく、また介護側としてだけではなく、
私たち自身が認知症になる可能性も高いのです。

本書をゼミの7月の読書会のテキストにし、認知症への理解を深め、
人間の本質を考えてみたいと思います。

最後に本書を読む上でのアドバイスを。

本書は、全体としてのまとまりが弱く、読みにくい部分があります。
特に本論である、3章?5章の関係、
特に3章と4章の関係がわかりにくいと思います。

一番大事で核心的なのは3章です。ここだけでも読めますし、
ここをしっかり読むだけでも、圧倒的に学べると思います。

3章と4章の関係については、本書の続編である『認知症とは何か』
(岩波新書942) を読むとわかります。

つまり、大きく言って、中核症状(4章)と周辺状況(3章)との
区別なのだと思います。
本書に感動した人には、『認知症とは何か』を併読することをおすすめします。