3月 14

大修館書店の『国語総合』(国総035)を指導する先生方を対象に、この教科書の評論教材に対する指導書(先生のためのアンチョコ)『論理トレーニング指導ノート』をまとめた。
その目的は、心ある先生方との「協働」を希望しているからだ。
4月からの授業の中で、私の方法が全国の高校生に届くことを期待している。

その「まえがき」にあたる部分を掲載する。

以下の目次の
5.先生方との「協働」を希望します
に先生方との「協働」への夢を書いた。

このブログの読者の中に該当者がいれば、
実際の授業の中での疑問などをお寄せいただきたい。

3.「指導ノート」の使い方
では、
「教科書信仰」を批判し、教科書との正しい付き合い方を提案している。
それは批判的に読むこと、他者の思想を媒介にして自分の思想を作ることだ。

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『論理トレーニング指導ノート』について

1.「論理トレーニング」の指導を
2.方法
3.「指導ノート」の使い方
4.「指導書」との関係
5.先生方との「協働」を希望します

1.「論理トレーニング」の指導を
この『論理トレーニング指導ノート』は、大修館書店の『国語総合』(国総035)を指導する先生方を対象に、その評論教材の論理的把握の指導に役立てていただくために作成したものです。
 私は国語専門塾「鶏鳴学園」で、高校生を主な対象として、三〇年近くにわたり国語(日本語)の指導を行ってきました。そこでは読み、書き、聞き、話し、考える、このすべての言語活動を指導していますが、その基礎にあるのは「論理的思考」の能力です。そして、その「論理トレーニング」を行うために、もっとも重要なのは読解指導です。特に評論読解は「論理トレーニング」そのものに他なりません。
私の読解方法は『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)で公開しましたが、その方法はごくごく簡単なもので、わずか三つの論理しかありません。その三つの組み合わせで、すべての論理が読み解けます。大学受験指導でも威力を発揮してきました。
この「指導ノート」は、その『日本語論理トレーニング』の読解方法で、大修館書店の『国語総合』(国総035)の評論教材のすべてを読み解いたものです。
先生方の『国語総合』の授業の中で、この「指導ノート」を生かしていただき、効果的な「論理トレーニング」が行われることを願っています。

2.方法
この「指導ノート」で使用した読解方法と使用した記号を、簡単にご説明しましょう。
(1)3つの論理(※省略)
(2)実際の文章の読み方
では、こうした三つの論理を駆使して、実際のテキストをどう読んでいったらよいでしょうか。その手順は、次のようにまとめられます。

ステップ1 論理をおさえる 論理の3点セット(対・言い換え・媒介)

ステップ2 文の流れをおさえ、そこに論理を読む

ステップ3 テキストの全体を読む

ステップ4 主体的に読み、自分の考えを作る

ステップ1では、各段落内部で3つの論理をおさえます。
次にステップ2で、段落内部の文の流れをおさえ、そこに論理を読みます。この段階では「傍流」の理解が必要です。簡単に説明します。文の流れには「本流」と「傍流」の区別があります。「本流」とは、結論に向かって論理を前に進めていく流れです。それに対して「傍流」とは、論理が前に進まず、その場にとどまる流れで、直前の語句の注釈になっていますので、それを考える必要があります。この「傍流」は(  )でくくって示しました。この範囲は読み飛ばすことも可能です。
ステップ2までが基礎の部分で、ステップ3はいよいよ仕上げの段階です。テキストの全体の立体的構成(各段落の相互関係)を読み、テキストのイイタイコト、つまりテーマ(問い)と、その問いへの答え(結論)をまとめます。これは※に示しました。
この「立体的構成」の図示でも「対」の箇所は次のように示しています。

さて、ステップ3までで、読解は一応終了です。大学入試の読解対策ならばこれで万全です。しかし、ここまででしたら、他者の考えを理解したにすぎません。ここからが本当の始まりだと思います。それがステップ4で、テキストを批判的に読み、他者の思想を媒介にして、自分自身の思想を作ることです。
「テキストを批判的に読む」とは、まずはテキストの「立体的構成」を検討し、場合によっては代案を出すことです。それによって、当然ながら著者の「テーマ(問い)」と「答え(結論)」も批判することになるでしょう。また、高校生自身が、テーマに関連する自分自身の経験を出し合い、それをみなで考える中で、テキスト理解を深めさせたいと思います。そうした作業の中で、「他者の思想を媒介にして、自分自身の思想を作ること」が可能になっていきます。
このステップ4で、読解のすべては終了です。この段階は大学入試では小論文に対応します。

3.「指導ノート」の使い方
ステップ1とステップ2の段階の論理は、テキストに記号で示し、下段で説明しました。なお、「対」と「言い換え」と「媒介」は無数に指摘できます。ですから、テキスト理解のために重要なものだけをとりあげています。
ステップ3の段階は、テキストの上部に※で示し、詳細は※にまとめて示してあります。そして、ステップ4の参考にしていただけるように、※では「コメント欄」を用意しました。
「コメント欄」ではテキストの立体的構成や論理展開について批判しましたが、あえて辛口のコメントにしました。高校生が教科書の文章を鵜呑みにすることなく、それを相対化し、批評的に読む(クリティカルリーディング)ための観点を例示したわけです。これは小論文指導にも役立てていただけるでしょう。
なお、「教科書のテキストは完全でなければならない」「批判が不可能なようなテキストを選ぶべきだ」といった考え方が一部にあるようですが、私はそうした考えに反対です。そもそもこの世界にそうしたテキストは存在しません。教科書のテキストは水準以上であれば良いのです。私たちはそれらのテキストを自由に批判しながら、その「正しさ」「大きさ」「豊かさ」「公平さ」「強靱さ」などからだけではなく、「間違い」「不正確さ」「あいまいさ」「弱さ」「偏り」などからも、学ぶことができるのです。

4.「指導書」との関係
「指導書」は、教科書の「内容」を中心に解説したもので、この「指導ノート」はあえて「形式」と「論理」に特化して解説したものです。教材数が多い教科書なので、速読の指導にも役立つと思います。
指導書にも論理や論理展開についての説明がありますが、それらとの調整はしていません。教材の読み方は多様であり、それで良いと考えているからです。私が示した読みも、絶対のものではありません。

5.先生方との「協働」を希望します
先に述べましたように、この「指導ノート」で提示した読み方が唯一絶対とは考えていません。疑問やお気づきの点などがあれば、遠慮なくご指摘ください。実際の授業で高校生を教えてみれば、教えにくい箇所や疑問点が出てくるはずです。
筆者としてはこの「指導ノート」が、現場の先生方と教材の読みを巡って対話をする契機となることを願っています。そうした対話を踏まえて読みを深め、「日本語論理トレーニング」の方法をさらにブラッシュアップしていきたいからです。
私たち国語の教師は、日本の高校生が論理的に読み書きをし、深く現実と闘っていく力を養成しなければならなりません。その使命の達成のために、志を共有する先生方と「協働」していきたいと思っています。
今回、大修館書店から「指導ノート」執筆のご依頼があったとき、お引き受けすることを決めたのは、先生方とのそうした「協働」作業ができると思ったからです。

最後に読者の先生方に辛口のコメントを一つ。
論理能力の指導には、指導者自身の論理能力の高さが前提です。そのためには、先生方御自身の「自己教育」こそが必要になります。
本書を活用していただく上では、拙著『日本語論理トレーニング』を熟読していただき、御自身の論理能力向上のために、日々のトレーニングをお願いしたいと思います。

なお、本書は鶏鳴学園の同僚であり、同志である松永奏吾と共同討議をへて作成したものです。

1月 24

『教職研修』誌の2月号に「大学と教育委員会のパートナーシップ」について書きました。

「大学と教育委員会のパートナーシップ」は『教職研修』誌で連載されているシリーズもので、

理論編4回、
実践編 各大学2本、計12回
福井大学、鳴門教育大学、大阪教育大学、
岐阜大学、岡山大学、兵庫教育大学 
総括編 3回

と続き、私の原稿はラストの総括編の1本として書いたものです。

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実践知と自己教育

(1)画期的な連載
(2)実践と実践知
(3)オープンな雰囲気と緊張感
(4)外部への発信の意味
(5)外へのアピールの仕方
(6)すべては自己教育

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(1)画期的な連載

 この連載の目的は、この連載の企画者である大脇康弘の連載初回の論考で明らかにされている。「大学と教育委員会の連携の成果と課題について実践的研究の視点から考察し、今後の連携の可能性と問題点を明らかにする」。
 私は、このテーマ設定をすばらしいと思う。これこそが、実践知が発揮されるテーマだと思うからだ。そして、こうした内容を、教育委員会や文部科学省に向けた報告書ではなく、本誌のような学校現場の方々を読者とする場で発信しようとすることに、大脇の実践知の凄みを感じる。
 「大学と教育委員会の連携の成果と課題」は、このような連載自体のなかに、端的に示されることになるだろう。ここでは何が書かれているかよりも、何が書かれていないかにその本質があらわれやすい。書かれたことの成否より、書かれなかったことの意味により多くの課題が見えるだろう。
 私は私塾経営者であり、大学や高校などの教育改革について発言してきた。「内部」の利害関係者が言えないことを、「外」から自由に客観的に発言してきたつもりだ。今回も、そのスタンスで私見を率直に述べたい。

(2)実践と実践知

 今、大学と教育委員会の連携が求められる時代背景については、この連載でも述べられているので繰り返さない。ただし、この連載に登場したのはすべて教員養成系の国立大学であることを確認しておく。それは都道府県の教育界の中心にあるが、他方では長く文部科学省の支配下にあった。その責任と自立が求められている。
 文科省から教員養成系の国立大学に求められたのは、教育委員会との連携と、学校現場や教育現場の問題を解決できる実践的な研究と教育であった。それは、一九九九年以降に文科省から出されたさまざな答申や報告書で示されている。
 大学の使命は教員養成だが、教員の採用や研修は教委の所管で、それぞれがばらばらに行い、そこには連携がなかった。教員養成から採用・研修までの一貫した体制や考え方が必要なのは当たり前であり、そのための連携は当然のことだ。そこから、地域の教育目標、理想の教師像などの確認や、大学や研修のカリキュラム、採用基準などの話し合いが必要になる。そして、両者の連携は、今ではこのレベルには到達しているところが増えてきているようだ。しかし、それは政策レベルでの連携でしかない。
 大学から送り出した卒業生が教員として赴任する学校には、現実の諸問題が待ち受けている。ところが、そうした問題に、大学が直接かかわることは少なかった。学校現場の問題解決に直接に役立つような教育と研究が大学に求められたのは当然だろう。そして、そうした試みもすでに行われている。
 新たに設立された教職大学院では、現職教員たちが現場の問題を抱えて学びに来るのだから、そこでの教育・研究が現場の問題を対象にすることは当然だ。こうして、大学には実践的な研究と教育が求められるようになった。現職教員が対象だから、大学と教育委員会の緊密な連携が必要になる。いずれも当然のことで、遅すぎたことばかりだと思う。
 しかし、懸念もある。こうした動きが、文科省による上からの強烈な指導と、逼迫した財政面から実現している点だ。大学や大学の教員たちによる自発的な動きならよいのだが、上から言われて行うような研究・教育にはろくなものはない。それは、表面的には現場の問題を取りあげるが、現場を政策的に振り回すだけの結果に終わりやすいだろう。
 そもそも、実践とは、自分の置かれた現場に問題があり、それを問題として感じた当事者から自発的に生まれるものだ。実践知とは、そうした実践を反省したものでしかない。したがって上からの強制だけから、実践知が生まれ育つのはむずかしい。実践知とは、自発的なものであり、学校現場の、教育現場の、地域の問題に迫られて始まるものなのだ。
 もちろんそうした実践と実践知と連携は、心ある関係者によって以前から行われてきた。たとえば、岐阜では、県教委の出先機関だった教育センターの服部晃(連載第四回)と岐阜大の教育学部附属カリキュラム開発センターの教員たちの信頼関係は一九八〇年代から育まれたものだ。そして、問題意識(教員養成から採用・研修までの一体的な運用)の共有があり、九七年には連携協力協定書が結ばれている。文科省がそうした指導を行うかなり前である。
 福井大の教育学部が、福井県教育委員会の指導主事と、不登校児などを対象とするライフパートナー事業を立ちあげたのは九三年のことだ。当時県下で急増した不登校児への支援が緊急課題になったからだ(連載第五回)。
 これらに遅れたが、大阪教育大が大学・学校・教育委員会をつなぐ「スクールリーダー・フォーラム」を開始したのは二〇〇三年。夜間の大学院の学生(現職教員たち)が多様化したことへの対応に迫られて、自発的に生まれた研究会が、これらの活動の主体である。その中心の大脇康弘は、長く府立高校長たちの学習会のまとめ役を務め、現場の課題に精通していた。大脇は、大学と教育委員会との意見交換(ときに事業の共同参画)や研究者や教委スタッフ共同の学校訪問・支援といった双方向的協働関係を模索したかった。学校現場を中心とした連携だ。(連載第九回、第一〇回)。

(3) オープンな雰囲気と緊張感

実は私は、「スクールリーダー・フォーラム」にゲストとして参加したことがある。2009年の第8回の時だ。「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」の3年間にわたる成果を総括するのが目的だった。
「経営革新プロジェクト」は、府教委が主催する事業で、府立高校の中堅校21校が参加し、中堅校の特色作りに取り組んだ。「特色作り」といっても、それぞれの学校の具体的な課題を明らかにし、その解決に取り組んだ。眼前の高校生たちの抱えた課題、それに全校で取り組む。学校の個性とはその結果生まれるものでしかない。
中堅校は多様なために、教育成果をどう考えるかが大きな問題として浮かび上がってくる。一般に「改革」に成功した学校は「偏差値」があがり、「良い生徒」が集まる。しかし、その分は必ず、どこかの高校が下がることになる。私立ならばいざ知らず、公立校がそれでは意味がない。大阪ではこの矛盾の答えを出した。「入学した生徒が3年間でどれだけ伸びたか」で競い合うと。
ここに基準を置けば、すべての学校で可能であり、どこが上がった下がったという基準とは別に、絶対的な基準を用意することができる。
 このフォーラムでは、各学校の内情を隠すことなく、本音レベルでの報告がなされ、また討議も率直な意見交換が行われる。オープンな雰囲気がそれを可能にするのだろう。しかし、オープンではあるが、緊張感は維持されている。
他者への批判は、そのまま自分に跳ね返ってくる。教育委員会は現場を批判するだけではなく、現場の支援ができているかどうかが問われる。現場からだけではなく、大学の教員からの批判にも応えなければならない。学校も、支援を得られる一方で、外部からの批判にさらされ、課題などの内部事情はオープンにされる。大学の教員にとっては、自分の研究のための現場の調査やデータ収集ができるのはメリットだが、その学問のレベルは厳しく問われる。現場で有効な理論を提示できるかどうか。こうした緊張関係の中から、和気藹々とした雰囲気が生まれている。それがとても尊いことだと思った。
大脇は、こうした連携が成功する条件として、大学・教育委員会・学校の三者の違いを尊重し、学び合うことが必要であるとまとめている(連載第三回)。

(4)外部への発信の意味

 しかし、なぜ、こうした連携論を本誌のような学校現場の方々を読者とする場で発信するのだろうか。それは、教育委員会や文部科学省に向けた「内向き」にではなく、外部へのアピールをするためである。
 こうした外部への発信は、関係者のモチベーションになる。また、公開することで、内部への緊張感をもたらし、問題を隠すことへの牽制の機能を果たす。そして、一番重要なことは、外からの評価や批判・圧力でしか、内部は変わらないという事実である。
 このことは、実践で苦労している方ならみな、知っている。
 そもそも、連携論がなぜ問題になるのか。以前から大学の教員が個人として、教育現場や教育委員会と連携する例はあった。一部ではあるが熱心な教員もいたのだ。何がなかったかというと、大学という組織と、教育委員会という組織とが、「組織的」に活動することだ。今問題になっているのはこのレベルである。そのむずかしさとは何か。自らが属する組織を組織として変えていくことのむずかしさである。
 個人的な活動である限り、個人のレベルにとどまり、組織の問題は表面化しない。しかし、今回のような組織としての連携では、組織の問題が隠せなくなる。内部を変えることが迫られる。それができない限り、元のような個人レベルに戻るしかないのだ。
 したがって、連携の成否は、それぞれの組織内部の組織としての変化でチェックされるだろう。それは制度面と意識面の両方である。学生に関する教育内容やカリキュラムなどの変更は、そのまま組織の制度面の変更を伴うことが多い。逆に言えば、制度面の変更がなければ、「絵に描いた餅」に終わりやすい。
 今回の連載で、自らの組織内部の事情や制度面の変更について言及した例が少ないことは、まだまだ課題が多いことを推測させる。大学人は、大学内部の組織や制度の問題をほとんど語っていない。それを行っているのは教育委員会の関係者である。
 たとえば、岐阜県教育委員会の教育センターの服部晃は、教育委員会の組織変更を行い、教育センターを格上げすることで、自らの権限を強化して連携を押し進めた。その苦労をもとに、教育委員会の組織内部の意志決定の過程を具体的に説明している(連載第四回)。同じく岐阜県教育委員会の教職員課の早川三根夫も、岐阜大学との交渉のなかでの教育委員会側の動きを率直に述べていて興味深い(連載第一二回)。
 大学人が、こうした語り口を獲得するのは、いつの日なのだろうか。

(5)外へのアピールの仕方

 連携を深め、組織を変えるためには、外部へのアピールは大いに有効だ。そしてそれには、効果的なアピール方法をとらねばならない。しかし、どうもこの判断に誤りがあるのではないか。この連載では「成果」を競い合っているように見えるからだ。
 アピールすべきはいわゆる「成果」ではないだろう。「成果」をあげることは当たりまえのことだからだ。そうではなく、「成果」の裏にある課題の掘り下げ、課題の明確化こそ、最大の「成果」ではないだろうか。教育委員会や文部科学省に向けた報告書ではできない理由がここにある。そこでは大学人は「優等生」になるしかないだろうし、「優秀度」を競い合うしかないだろう。
 こうした雑誌を発表の場に選んだ以上、そこでは問題の掘り下げこそを中心にすべきであり、それでこそ外圧を引き起こし、内部を変えることが可能になる。そのためには、問題の語り口こそが重要である。
 問題は、抽象的・一般的にではなく、個別具体的に語らなければならないと思う。連携について全般的で総花的に語るのではだめで、一つの事業にしぼり、そのなかでも問題を絞り込まなければならないだろう。そして、きれいごとや建て前論を排し、リアルに本音に近い部分で語るべきだ。すべてにおいて、人・物・金の問題は避けて通れない。それを語らなければ、問題の核心部分が見えてこないだろう。
 たとえば、「スクールリーダー・フォーラム」第九回では、大阪の府教委と市教委の対立や相互学習のむずかしさ、教育委員会側と大学の教員とのせめぎ合いなどがあった。大脇はそれらを具体的に描いている(連載第九回)。岐阜県教育委員会の教職員課の早川三根夫は、岐阜大学との交渉の舞台裏を開示し、両者の組織の違いやキーマンの存在の意味などを述べている(連載第一二回)。こうした論考のリアルな部分から、私たちは多くを学ぶことができる。
 しかし、そうした論考が少なすぎる。いつも思うのだが、「教育」の世界は、なぜこれほどに、きれいごとや建て前に支配されているのだろうか。これは、上は文科省・教育委員会から、大学や学校などの、教育界全体に広がっている問題ではないだろうか。

(6)すべては自己教育

 つまるところ、問題は、自己教育にかかわってくることがわかるだろう。「教員・指導者自身が教育されなければならない」のだ。
 今回の連載で、連携を「実践的研究の視点から考察」することを目標にしたのは、まさにこの自己教育にねらいがあったのではないか。大学人が、こうした連携自体を考察し、反省することは、「実践知」を自らの実践において示すことなのである。
 大学と教育委員会の連携にたずさわった大学人にとっての現場とはどこだろうか。それは連携それ自体であり、自らが属する大学そのものである。したがって、その実践と実践知は、その連携や大学改革によって問われることになる。
 しかし、その語り口はまだまだ平板で、深まりが弱いように思う。彼らが自己や自らの組織を語ることは、なおまだ少ない。自由な立場の私のような者が発言しなければならない理由がそこにある。読者の方々で、関心をお持ちの方は、拙著『大学「法人化」以降』(中公新書ラクレ)をお読みください。五章「教員養成系大学」では、岐阜と大阪の例を、大学と教育委員会それぞれの内部事情とキーマンたちの動きを追いながら報告しています。連携問題を考えるヒントにしていただければ幸いです。

1月 16

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その5

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか

 (1)「精神現象学」派と「論理学」派

 竹田は、ヘーゲル哲学に、特に『精神現象学』に大きな影響を受けたと言う。
彼にはヘーゲル哲学を論じた多数の本があるし、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』という、すごいタイトルの本も出している。
その「はじめに」を読むと、竹田が論理学をほぼ全否定していることがわかり驚いた。

 「『大論理学』は哲学としてはもはやほぼ使い道が無く
  過去の遺物であり(中略)『精神現象学』の注釈くらいに考えていい」。
 

 ヘーゲル哲学に関心を持つ人は、「精神現象学」派と
「論理学」派にはっきりと分かれるようだ。「文学的な」人が、
精神現象学派には多いように思う。彼らの直感的で感性的な体質に
合っているのは、精神現象学であって、論理学ではないだろう。
論理学は論理そのものだが、精神現象学は具体的な叙述が多く、
内容を捉えやすいことも関係するだろう。

 竹田は、精神現象学派の典型と言って良い。
精神現象学を高く評価する一方で、論理学を否定する。
しかし、すでにここで大きな疑問が起こる。そもそもある人の思想内容と、
その論理展開を切り離すことができるのだろうか。ヘーゲルの思考内容を
評価するなら、その内容はどこから生まれたのだろうか。それは最終的には、
彼の思考能力、つまり論理的能力以外にはないのではないか。
まさか、ヘーゲルが「直観」だけで真理を把握したとは言うまい。
「直接知」の立場を徹底的に批判したヘーゲル自身が、
そうだったとでも言うのだろうか。

 「精神現象学」派と「論理学」派の対立を考えるとき、
牧野紀之の下で起きたある事件を思い出す。牧野は40年前から
ヘーゲルを指導する学習会を主催していたが、そこには精神現象学と
論理学のそれぞれの原書講読のクラスがあった。受講者はどちらかに分かれ、
両方を受講する人は少なかったようだ。精神現象学を読んでいた人たちは
吉本隆明好きで、ある時、吉本を批判した牧野に反旗を翻し、
ほとんどが辞めていった。論理学のクラスではそうした劇的な場面はなかった。

 牧野自身は論理学派だと思うが、その立場から精神現象学も
丁寧に読み込んでいる。その記録が、彼の『精神現象学』の翻訳と注解だ。
私も牧野と同じスタンスである。特に、その序言、序論は重要だと思う。

 (2)竹田による「自己意識論」の解釈

 竹田の読解は直感的だが、実際の生活経験を振り返り、
的確なヘーゲル理解に到達している部分がある。例えば、
『自分を生きるための思想入門』(芸文社)の25?29ページでは、
『精神現象学』の「自己意識論」を、身近な具体例からわかりやすく
説明している。

 ストア主義の例に、教室でわかっていても手を挙げない
反抗的な子どもを出し、懐疑論では、どのような意見や主張に対しても
シニカルにかまえて水を差す青年の例を出す。不幸な意識の例では、
マルクス主義やキリスト教への「信仰」を出す。そうした大きな物語に
自分を一体化して他人の上に立つことは、同時に大儀のための自己犠牲をも
要求されるという矛盾であることを示している。そこでは自己否定(忠誠心)の
度合いの競争になり、依存を深めて自立を妨げることになりやすい。
それを見抜き、この不幸な意識の例としているのは、さすがに卓見だと思う。

 竹田が読まれているのは、こうしたすべての人の生活経験から
論理を拾い上げる力が、一般のレベルと比較すれば抜きんでているからだろう。
これは、自身や周囲の経験を、繰り返し考え続けて、そこから
自分の思想を作ろうとする竹田の姿勢から生まれている。その正しさが、
ある深さに達しており、それが人々の共感を呼ぶのだろう。

 竹田が取り上げた3つの例は、竹田自身の経験の反省から
生まれたものだと思うし、私自身にも思い当たることが多い。
特に不幸な意識の矛盾は重要だ。これは政治、宗教、学問などで
無数の例を出せるだろう。共産党と知識人の関係などでも、
多数の不幸な例(スターリン信仰や文化大革命、連合赤軍の粛正事件など)を
出してきた。

 実は、同じ事は、牧野紀之の下でも起きていた。
「先生を選ぶ」ことが、依存を強め、先生の奴隷になってしまう。
そうした人も出たし、私にもある時期そうした段階があった。
「先生を選べ」の原則を作った、その牧野の足許で、同じ事が起こるのだ。

 (3)竹田の限界

 竹田のすぐれた面を指摘してきた。しかし、竹田が論理学を否定したことは、
竹田の論理力にそのまま跳ね返っている。彼の思考の荒さや弱さだ。

 牧野は訳注(358ページ 注1)で、すぐれた説明として竹田説を紹介、
長々と引用している。しかし、評価するだけで限界を言わない。
私がその問題点を指摘しておく。

【1】竹田が出した3つの経験と、そこにある論理は確かに重要な問題を提起している。
  ヘーゲルの論理との対応関係もある。
  しかし、3つの例はすべて、「3つの範型」として、バラバラに
  事例として出しているだけで、そこに論理必然性はない。
  自分が考えた3つの経験を、ここにただ当てはめただけだ。

【2】だから、ストア主義と懐疑論が対立、相互関係として捉えられていない。
  また、ストア主義と懐疑論に対して、不幸な意識は両者を止揚した
  上のレベルなのだが、それも無視されている。

【3】「自分が他人より優れている、上に立っている」。この表現が一面的だ。
  主と奴の関係が逆転したことを前提に、ヘーゲルはここで展開している。
  したがって、上下関係は相対的なものでしかないことは、すでに明らかになっている。

【4】ストア主義の例
  これを「他人の承認を求めていない」と竹田は言うが、そうだろうか。
  「バカにした他者からの承認」を否定し、その否定とは自己を自己が
  承認しているのだから、それも「他者からの承認」と言えるのではないか。

【5】懐疑論の例。「相対的に上位」、【6】不幸な意識。「他人より上位に立つ」
  これらも違うと思う。「他人の下位」でも、承認になるのは、いじめの論理が証明する。

 以上の批判に対して、私の代案は三.と四.に書いたとおりだ。

 竹田の論理的思考の弱さを指摘してきたが、これはただの揚げ足取りだろうか。
こうしたことは問題にならないだろうか。竹田は不幸な意識の矛盾を的確に指摘できた。
しかし、それだけでは、その問題を真に解決することはできないと思う。
事実、竹田によるこの問題の解決策は書かれていないと思うのだが、どうだろうか。

 一方で、論理的には竹田を圧倒する牧野紀之は「先生を選べ」の原則を出し、
この問題への解決策を示すことができた。それはまさに論理の力だろう。
しかし、その牧野の下で、「牧野信仰」が起きていたのも事実である。

 そもそも、ヘーゲル自身はどうだったのか。この『精神現象学』執筆の
時点では問題にならなかったろう。『精神現象学』の「不幸な意識」の平板さは、
こうした問題を考えていなかったことも関係するだろう。
しかし、ヘーゲルがベルリン大学の教授になり、多数の弟子に囲まれて
名士に成り上がってからは、どうだったのだろうか。おそらく多数の
「ヘーゲル信仰」の若者や学者たちが、その取り巻きの中にいたことだろう。
ヘーゲルはそれには何も語っていないように思う。
さて、今度は私の番である。私はこの問題を解決できるだろうか。

 なお、竹田は、『自分を生きるための思想入門』で出した例を、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』の自己意識論の箇所では出していない。
これはどうしてなのだろうか。

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1月 10

昨年12月の読書会では、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)を読んだ。昨年読んだヘーゲルの範囲で出てきた思想家の概略を確認しておきたかったのだ。ヘーゲルの論理学の「判断論」「推理論」、『精神現象学』の「自己意識論」に出てきた以下の思想家たちだ。

古代では
  アリストテレス 第1編 第6章(74?87ページ)
  ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90?102ページ)
中世では
  アンセルムス 第2編 第1章(133?136ページ)
近世では
  デカルト 第1編 第3章(165?174ページ)
  スピノザ 第1編 第4章(175?184ページ)

読みながら、また読書会の意見交換ではっきりした点をまとめておく。

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◇◆ ヘーゲルとアリストテレス 中井浩一 ◆◇
 
(1)アリストテレスは古代哲学の完成者

 「アリストテレスは古代哲学の完成者」だというのを、改めて確認した。そして、アリストテレス哲学を近代のレベルで再興し、それによって近代の哲学を完成させたのがヘーゲルなのだと思った。

 アリストテレスは本当に凄い。彼の哲学は、内容的には、ほとんどヘーゲル哲学と同じだ。そのことには、ただただ驚くしかない。二千年以上も前のアリストテレスにも、そして二百年前のヘーゲルにも。
 ヘーゲルは、他のすべての哲学者には厳格で、高く評価しても必ず限界を指摘するのだが、アリストテレスだけは手放しの誉めようで、それはとても意外だった。しかし、これだけ2人が同じだと、それも当然だと思えた。ヘーゲルにとって、自説(「発展の哲学」)を作り上げる上で参考になるのは、アリストテレス哲学以外には存在しなかったのだろう。

 アリストテレスのすごさとは何か。

 ?個別と普遍(本質)の問題と、?変化・発展の問題と、?全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていることもすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。
 この?は誰もが問題にする。この?に対するアリストテレスの答えは並の答えで、すごいのは、この?と?とを結びつけて論じたことだ。?と?を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。その結果、?を説明することができたのだ。
ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。

(2)「近代」とは何か アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるもの
 ヘーゲルは、このアリストテレスを、近代のレベルで再興し、それによって近代哲学を完成させた、とまとめることができるのだろう。

 では、その「近代のレベル」とは何か。アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるものとは何か。
 自我、自己意識の存在、意識の内的二分である。この自我の自覚を持つことで、人間は「人格」を持ち、「人格」を持つ点での平等、人間はみな平等であることになった。デカルトのコギトが自我の宣言だ。

 アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体とその構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。
 しかし、読書会では質問が出た。アリストテレスほどの凄い人が、なぜこの立場に立てなかったのだろうか。
 当時の世界が奴隷制社会だったからだと思う。イヌと人間の違いを一般的に考えるには、同じ人間の中で、人間と奴隷(イヌと同じ)に絶対的に分かれる社会では、ムズカシイ。
アリストテレスほどの人でもそうなのだろうか。諾。人間は、時代の子であり、その時代的な制約から抜け出ることはできない。

 「自我」「自己意識」の思想は、ローマ帝国における帝国と市民の成立、キリスト教における神の前の人間の平等によって、その可能性が生まれた。

 もちろん、それは可能性だから、それを表明する思想家の登場を待つしかない。それを行ったのがデカルトだ。ヘーゲルは、デカルトのコギトを、自我、自己意識の存在、意識の内的二分の宣言としてとらえている。

(3)近代のダイナミズム
 しかし、読書会ではここで質問が出た。デカルトのコギトは、東洋の悟り、「仏とは汝だ」と何が違うのか。
 まず、東洋の自己とは、自分についての意識ではあるが、それは意識の内的二分をとらえていない。むしろ分裂を否定し、自分と世界との一体性をとらえようとしている。そのために、そこには分裂を克服するための運動が出てこない。この運動のあるなしが、決定的な違いだと思う。
 デカルトは、自己意識から始め、そこから神の存在証明、世界(対象世界)の存在証明へと進み、その上で安心して世界の研究に打ち込んだ。したがって、デカルトの対象世界の研究は、常に自己意識に支えられている。自己意識とは、対象意識と自己意識の分裂のことであり、これをつなぐために、デカルトは神を持ち出したとも言える。
 こうしたダイナミックな円環運動がデカルトの思想の核心にあり、東洋にはない点だろう。
ヘーゲルは、中世のスコラ哲学による神の存在証明を「主観的」とし、デカルトやスピノザのそれを「客観的」としている。その根拠は、こうした運動にあるのだろう。

 なお、以上のことを考えることができるほどに、各思想家の思想をシンプルにまとめている点が、波多野精一著『西洋哲学史要』のすばらしさである。

12月 28

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

 関口にとって、人間の意識こそが中心であり、世界は意識に反映された限りで問題にするにすぎない。これが現象学の立場だから当然だが、ここで世界が人間の意識を規定するのか、人間の意識が世界を規定するのかが改めて問われるだろう。それには判断中止し、世界は意識に反映された限りで問題にするのが現象学の立場だ。
 ここにこそ、関口と、ヘーゲル、マルクスの対立がある。もちろん、言語表現を直接の対象にしている研究者にとっては、それで十分だということはできる。それどころか、関口は言語に反映された限りで世界に迫り、そこらのヘーゲル、マルクスの研究者以上に、果敢に世界の本質に迫っている。

 しかし、だからといって、両者の違いが大きいことも明らかだ。関口は言語世界の運動と現実世界のそれとの関係を語らない。例えば、名詞論の始まりで、関口はヘラクレイトスの「万物は流転し止まることなし」を受け、「これはまた少し違った意味で『言語』という現象にも通用する」(183ページ)と述べる。しかし「少し違った意味」とは何かが、説明されることはない。

 なぜ名詞に無限のニュアンスが生まれ、無限の「含み」が生まれるかと言えば、根本的には世界そのものが矛盾し、それゆえに運動しているからだろう。その世界の矛盾と運動を、言語では静止したもの「として」もとらえなければならず、その矛盾が言語や名詞の無限のニュアンスや「含み」を生みだしているのだろう。しかし、世界の運動は、他方では人間を生み、人間の意識の世界をも生みだしている。その人間の自己意識の世界もまた、それ自体矛盾し運動している。その世界をも言語表現は静止した形で表現するしかできない。したがって「含み」が生まれるのは二重の意味で必然なのだ。関口の「含み」の理解は、このレベルにまで深めて理解すべきだろう。

 ヘーゲルやマルクスならこう言うだろう。「人間の意識の矛盾や運動は、世界の運動の結果生まれた物であり、それが世界を反映することは最初から決まっており、その反映の仕方も、対象と同じく、矛盾と運動によるしかない」。こうした理解の上で、関口が「含み」を研究したらどうなっていただろうかと、想像しないわけにはいかない。その「含み」は人間を解き明かすだけではなく、この全自然の「含み」をも明らかにしただろう。それはそのままに全自然史の展開になり、ヘーゲル哲学に近い物になっていたのではないか。そうした夢想を引き起こすほどに、それほどに関口のすごさは圧倒的なのだ。しかし、一方で、それはどこまでもハイデガーの立場に身を寄せてもいる。これもまた、この世界の矛盾の一つでしかないのだろう。