12月 27

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)

 さて、こうして生まれた関口のドイツ語学は、どのようなものになっただろうか。
 まずそれは、人間の本質を明らかにする「人間学」となった。
 関口のように語感と「含み」を中心にすることは、それを生み出した人間の意識そのものを問うことになり、それは「人間そのもの」を問うことにほかならない。

 そして、それは同時に、ヘーゲル張りの「発展」的な把握、概念的な把握になっている。なぜなら、「含み」を明らかにすることは、潜在的な思いを顕在化することに他ならず、それ自体が発展の論理に他ならないからなのだ。それは冠詞論全体の構成、展開法から、個々の用語の細部の説明にいたるまで、貫徹されている。

 感動的なのは彼の名詞論だ。『不定冠詞論』182?186ページにある「名詞論」は圧巻だった。

 関口は言語表現の流動性に着目する。すると、およそすべての品詞が流動し、流動の達意を表現する。その中に「ただ一つ流動しないものが言語の中にある。流れに押されて動きはするが、それ自体は流動せず、万象流転の言語現象に抗するかのごとく、固く結んで解けず、凝として凍って流れず」。それが名詞だという。「本来は流動的であり融通的であるはずの達意をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。
 では、なぜに名詞が必要なのか。「全体の円滑なる流動は、部分の非円滑なる凍結のおかげ」だからだ。「人間社会とその生存の努力は、滔々と流れ流れて停止するところを知らざる万象流転と新陳代謝そのものであるとはいえ、その流転、その代謝は、局部的停止、部分的凝固、一時的凍結なしには円滑に代謝流転できないのである」。これが言語の世界に名詞という反流動的な意味形態が必要になった理由として、関口が挙げる理由なのである。もちろんここには自家撞着(矛盾)がある。その結果、「名詞性に多少の段階」があるのだ。
 関口は名詞と他の品詞を比較し、名詞こそが優勢であり、「名詞が本当にことばであって、名詞以外は何だかことばらしくない」というのが「感触の実状」であることを示す。
 しかし、真実はその反対であり、「ことばというものは流動と融通と融解と無常とを以て根底とする」ものだと、言う。では、どうしてこうした逆転が起こるのか。
 「流動そのものである言語は、しきりに何かはっきりとした姿を取った拠点、しがみつくことのできるような不動の何物かを求めてやまないからこそ名詞を重要視する」のだ。
 ここには「無理」があり、矛盾がある。そのために「名詞の名詞性に無限の段階が生じ、無限のニュアンスが生ずる」。そして、その名詞性を示す「目印」こそが、「冠詞」なのだ。そこには定冠詞、不定冠詞、無冠詞の3種があるが、最も注目すべきなのが不定冠詞だという。
 つまり、名詞は、運動するものを固定化するという矛盾そのものだ。そこで、名詞は実際にはさまざまなニュアンス(「含み」)を持つ。そのニュアンスを直接表に現すのが冠詞なのだ。これが関口の冠詞(特に不定冠詞)の説明なのである。

 だから、関口は『不定冠詞論』で不定冠詞の含みを4段階に示し、その第2の「不定性」では「或る」の5種類として、その微妙な含み(ニュアンス)の違いを展開している。
 このように関口は言語世界に矛盾とそれゆえの運動を見ており、それをとらえるために、全力を傾注している。それがヘーゲルやマルクスの弁証法のようなダイナミックな思考を生みだしている。

 また名詞論で、関口は名詞が世界を「つかむ」(ここからbegreifen「概念的把握」をヘーゲルは引き出す)ために生まれたことに着目するが、この「つかむ」の説明のために、彼は労働論を展開する。そして労働(つかむ)から思考への発展を展開してみせる(327ページ)。これは労働から思考が生まれたという、ヘーゲルやマルクスの思想と同じ内容であり、関口がそれらを読んでいないだろうことを思うと、そのすごさに圧倒される。

 言語世界が矛盾であり、絶え間ない運動であることを関口はよく理解しており、その矛盾が運動を生み出すこともよく理解している。だから、彼の言語学は、この矛盾を矛盾のままにとらえることになるのだ。
 矛盾と運動が関口の対象なのだから、彼自身もまた誰よりも激しく運動する。彼はつねに内部に矛盾を抱え、自分と他者との間で激しく往還運動をする。それは日本語と西欧語の間でもそうだし、意味形態論と形式文法の間でもそうだ。

 以上からわかるように、関口はヘーゲルの「発展の立場」に極めて近いところにある。しかし、そこにある大きな違いに目をつぶることはできない。

12月 26

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。

1.言語学の連続学習会 
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3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(2)関口の自己本位の由来

 関口に西欧コンプレックスがないのは、西欧の一般的な学問の中に自分のような「問い」が存在しないことを明確に知っていたからだし、西欧の内部には、低レベルの一般の言語学と、それと対峙するハイデガー哲学との激しい対立があることを知っていたからだ。
 つまり、西欧といっても一括りにはできず、内部に対立があり、一般的レベルはくだらない物でしかないことを知っていた。西欧にはすぐれた物もあるが、酷い物もある。それは日本の一般の学者と関口との対立と何ら変わらない。そして関口のようにハイデガー哲学に連なる人間が、なぜ西欧一般にコンプレックスを持つ必要があるのだろうか。

 関口にないのは西欧コンプレックスだけではない。当時の多くのインテリが抱えていた「大衆へのコンプレックス」もまるでない。それどころか、彼は言語学者などをはなからバカにし、ひたすら大衆に向けて語っていたことを忘れてはならない。関口は三修社という出版社を起こし、ドイツ語の雑誌の編集と執筆をほぼひとりで行っていた。彼の論考は学会ではなくそこで発表されている。これも、彼の「語感」主義、「含み」第1主義からの必然的な結果だろう。
 語感とは決して関口個人のものであるはずはなく(そうならそれは客観的に取り扱えない)、日本語を使用しているすべての人々の中に無意識ではあるが確かに存在し、それは連綿と続く歴史の中で日本民族の中に蓄積されてきたものだ。その語感を第1にする関口は、民衆と直接につながっている。そのことを関口はもちろんよくわかっており、そのために、関口には根底に日本民族への深い信頼がある。
 もちろん同じ事がドイツ語にも言えるから、彼にはドイツ民族への深い信頼がある。こうした前提があるために、関口はドイツ語を日本語で相対化し、日本語をドイツ語で相対化する。両者の関係が全く対等であるのは当たり前なのだ。

 関口にとって、直接の「先生」はハイデガーだが、より深く捉えれば、先生とは日本とドイツの民衆であり、それは人間そのものである。しかし、「語感」「含み」に現れているその民族の真実は、民衆には自覚はできない。それを意識的にとらえ言語化するのは知識人のしごとである。そこでドイツ語にあっては、人類の哲学史上のトップ(と関口は考えていた)ハイデガーが、直接には彼の「先生」となったのだ。彼にはもう一人の「先生」がいる。詩人ゲーテだが、それは西欧語では詩こそがその言語の精華であり、ドイツ詩人の最高峰であるゲーテが、彼にとって生涯の師になったのは当然だ。以上が関口の「自己本位」と「自立」の秘密である。

12月 19

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

 関口存男にあっては、先に挙げた日本語研究の3つの問題が見事にクリアーされている。第1に、関口ほど、自らの生活実感とその学問が一体になった人はいないだろう。また、その視野は身近な日常生活から森羅万象にまで届いているように見える。そして彼は一般大衆に直接語りかける「べらんめえ」の文体で自らの言語学を述べる。
 第2に、彼ほど西欧への「奴隷根性」から自由な人を知らない。彼ほどに「自己本位」な人を知らない。
 第3に、彼は、ハイデガー哲学を自分の物にし、西欧の認識論や哲学に精通している。彼はドイツ語や西欧語を学びながら、人間一般の本質に迫っている。その中に自ら自身の母語である日本語とは何か、日本人とは何かは、その背景として含まれている。

(1)関口の問題意識と「先生」

 こうしたことが、なぜ関口には可能だったのか。まだ『冠詞論』全3巻中の『不定冠詞論』しかを読み終えていない段階ながら、一応の仮説を出しておきたい。

 第1に、関口のテーマ、問題意識の独自性のゆえであり、第2に、テーマを深めていく上で「先生を選べ」を実行したことがあげられる。この2つは切り離せない。

 関口の言語学上のテーマとは、自分の「語感」が感じた物の正体を明らかにすることだった。それは言語の「含み」の存在とその含みの意味を明らかにすることに他ならない。
この「語感」や「含み」とは、自分が感じる物であり、形式文法のように外形上では根拠を出すのがムズカシイ。そもそもそれが「含み」だからだ。この「含み」や「語感」とは、自分の中に食い入っているもののことで、それは自分の存在そのものと言って良い。それをテーマにするということは、最初から、自分の実感を信じて、それを根拠に考えると言うことだ。それには自己理解の深さが必要であり、強い主体性が求められる。こうしたテーマを持ったことが関口の関口たるところだ。
 こうしたテーマを持って、西欧文法や西欧の言語学を読めば、そこにあるのが「形式文法」でしかなく、関口のテーマに答えてくれないことはすぐにわかる。その答えの是非をどうこう言う以前に、問題にしていることがまるで違う。関口が求める回答はどこにもない。それどころか、参考にできるものすら存在しない。(もちろん、西欧だけではなく、当時の日本にも存在しない)。

 その時に、関口はハイデガー哲学に出会ったのだと思う。その哲学だけが、関口の関心の方向に根拠を与える物だった。関口の意味形態論は、ハイデガー哲学なしにはありえない。ハイデガー哲学によって、確立されたのだと思う。これを説明しよう。
 関口は、言語活動を3要素、つまり「意味(事実)」と、話し手・書き手が「意味(事実)をどう考えたか」と、その「言語表現」とに分けた上で、「意味」と「意味をどう考えたか」には直接の関係はなく、「意味(事実)どう考えたか」と「言語表現」こそが関係し、一体であることを示した。これが彼の意味形態論の大前提だ。(この3者の関係が「媒介関係」であることは、明らかですね)
「意味」と「意味をどう考えたか」に直接の関係がない以上、「意味」は「意識に反映された限りで」問題にすれば良いことになる。これがハイデガー哲学の立場であり、この立場の上に、関口は含みの研究に安心して没頭することができたのである。
 関口にとっての生来のテーマである「語感」や「含み」とは、「言語表現」の中に現れた(または潜在的で隠されたままの)「意味をどう考えたか」のことなのだ。そして、関口は「言語表現」の中の「含み」を明らかにすることに全力を注ぐ。こうして「含み」の研究を中心とする意味形態論、つまり関口ドイツ語学が成立した。

 そして、関口は彼のドイツ語学の中で、自らの前提としたハイデガー哲学をさらに具体化し、発展させているのではないか。
 関口の仕事のすべてがその具体例になると思うが、例えば『不定冠詞』の第10章「不定冠詞の仮構性の含み」で「未来に関する仮構」を取り上げている。そこでは「人間は未来一辺倒の存在物」という人間の本質を明らかにし、ハイデガーが問題提起した「企画」の含みを徹底的に展開して見せている。この「企画」とは関口の訳語だが、一般には「投企」として知られた用語であり、サルトルの『実存主義とは何か』で一躍有名になった。

12月 14

週刊「教育資料」2010年12月13日号で以下を書きました。

仕事の聞き書き/鶏鳴学園代表 中井浩一/

「僕は父のその決断力、行動力に圧倒された。今の経済の主流はひたすらコストカット、収益重視だ。経営面では今の銀行の建て直しが急務の中ではそれも仕方ないのかもしれない。しかしそういう点で僕は経済について冷たい印象があった。しかし、父が色々な人と出会って生み出した自分なりの信念と、それを貫き通す姿勢は何においても中心になるものだと思う」。
これは、高校生が、銀行マンの父親に仕事の話しを聞いてまとめた、「聞き書き」からの引用である。

仕事の聞き書き
 現代の若者たちの問題として、フリーター、ニートの急増、人生の目標の喪失、進路・進学意識の弱さなどが言われるようになって久しい。この大きな原因は、高校生に、仕事の意味や社会の現実が知らされていないことがあげられよう。父親の働く姿を見ていないし、社会のリアルな諸問題にも触れることが少ない。
 さてその対策として、私が有効だと思っているのが、親の仕事の聞き書きなのだ。弊塾ではこれを高校生全員に課題とし、保護者にも協力を呼びかけている。そして、塾生みなで互いの文章を読み合って、意見交換をする。
 取材する項目としては、仕事のナカミ、仕事の喜怒哀楽。サラリーマンであれば、組織で生きることの意味、同僚や上司や部下との関わり、女性の地位など。多様な視点を生かしたい。大切なことは、「建て前」や「きれいごと」を排除し、できるだけリアルに具体的に語ってもらうことだ。問題や悩みを聞きたい。「自分の子供だ」と思えばこそ、外部に出しにくいことも語れるはずだ。

時代の激変
 仕事の聞き書きからは、当然ながら、今の社会の厳しさ、大きな時代の変化も見えてくる。冒頭の聞き書きの父親は、勤め先が三和銀行から、UFJさらに三菱東京UFJへと銀行の再編統合で変わっていく。金融自由化で、初めての「投資部門」に異動がある。そうした中で懸命に仕事をする父親の姿は、息子の心を打つ。
 他のケースでは、リーマン・ショック時にリーマンブラザーズに勤めていて職を失った金融アナリストの父親が、当時の内部の様子を生々しく語る場面も出てくる。彼はそれまでに転職を5回重ねていた。90年代の不況下で会社が倒産し、その整理を担当した父親の話も出てくる。起業の話も、リストラの話もある。
 単に仕事やこの現実社会について学ぶだけではない。高校生の進路・進学を考えるための事例研究になるように、父親の大学や学部選び、就職先の選択、転職や結婚、単身赴任などについても聞いてもらう。「今の一瞬ではなく、30年後につぶれていない業界を選んだ」「魅力的な上司がいないような会社に、いつまでいてもしかたがない」「80年代のプラザ合意以降、将来の中心はメーカーではなく、金融になると思って、メーカーを辞め、金融アナリストになった」「就職難なら、なぜ中国語を学んで中国で就職しようとしないのか」「転職で自分が外ではどう評価されるか確かめたかった」といった刺激的な発言が出てくる。

親子の対話の復活
 大きな副産物もある。親子の対話の復活だ。今の家庭では父親は「粗大ごみ」扱いされている。しかし、父親を尊敬できず、誇りに思えない中では、自分の仕事や人生への敬意や意欲をもてないだろう。
 冒頭の聞き書きでも高校生はこう語っている。「自分の仕事に誇りをもち生きている父は、本物の企業戦士だ。父親として見たら子育てもろくすっぽしなかったし、お世辞にも良い父親とは言えない。そう思っていた。しかし、その人生を通して一つのことを貫き通している生き方は、子供の時に一緒にキャッチボールをしたり遊園地に行ったりすることよりも多くのことを僕に教えてくれた」。
 インタビューを受けた側の父親たちの感想を2つ紹介しよう。
「日本の父親は一般に自分の仕事の話をあまり子供にしません。でもすべての父親は現代社会の修羅場をくぐっています。自分の父親から改めて仕事の話を聞く(「授業」の一環だということが双方に好影響を与えます)ことで、父親に対する信頼、尊敬などにもつながると思います」。
「自営業ならともかく、サラリーマンの場合には、家庭で自らの仕事の内容を詳しく説明する機会を持っている人はほとんどいないと思います。インタビューを機会として、娘との距離が若干縮まったような気がしました」。

仕事の話を授業で
 弊塾では、今年から、一斉授業の中でも仕事の話を取り上げている。前年に出された聞き書きの中から、特に高校生に参考になると思われるものを選び、その保護者たちに来てもらう。生徒たちとはその文章を事前に読みあって、内容について話し合い、質問項目を考えあう。クラス毎にインタビューの担当を決め、当日は「講演」ではなく、生徒自身によるインタビューの形式で行った。幸い、生徒からも、協力してくれた保護者からも好評だった。今後も継続していきたいと思っている。

 こうした授業や、聞き書きの実践が、全国の学校、大学、塾などで、数多く試みられることを期待したい。

10月 17

週刊「教育資料」2010年10月11日号で以下を書きました。

羅針盤を作る教育を/鶏鳴学園代表 中井浩一/

 この夏に、ビジネスマン対象の雑誌で「哲学」が特集された。週刊『東洋経済』(8月14日、21日合併号)の「実践的『哲学』入門」だ。特集の中に、各地の「大学生・社会人」の学びの場を紹介するコーナーがあり、わが鶏鳴学園の「哲学ゼミ」も取り上げられた。

 取材にみえた編集者によると、マイケル・サンデル教授(ハーバード大学)の「正義」に関する授業がテレビ放映され大きな反響があり、その講義録も刊行されベストセラーになった。そこから、なぜ現代日本で「哲学」がブームになっているのかを考えようとの企画のようだった。

時代が「哲学」を求めている
 今の時代が「哲学」を求めているのは本当だと思う。私のゼミの参加者が増えていることからも、そう言えるだろう。今時、「哲学」といった硬いナカミで、しかも大学外で、何の資格も取れない場だ。しかし、そこに通う人が一〇数人いることを、どう思われるだろうか。この数年で、二〇代の若者が増えてきた。他方で、三〇代から五〇代まで年齢の幅も広がっている。大学生(フリーターやニートも)、役人、主婦、ジャーナリスト、教師、政治家などとその職業も多様だ。彼らは何を求め、何に駆り立てられているのだろうか。
 今の時代には、人生の羅針盤がないのではないか。物を考え、評価し、選択する際の、基準が見えないのではないか。ほとんどの人は、途方に暮れている。それは、若者にとっては人生の方針を立てられず自立できないという深刻な問題になる。それがフリーター、ニートの急増にも現れているだろう。
 それは特殊な人々の問題ではない。若者たち全般の「自立」の遅れは深刻だし、すべての大人にとって「成熟」がムズカシくなっている。明治時代にあっては、夏目漱石のように三〇代の前半まで自己確立できずに悩み抜いた人は少なかった。しかし、今は多くの人が同じ悩みを抱え込むようになっているのではないか。
 一方、「格差社会」「階層格差」の問題が深刻化しているが、この問題も「成熟」の遅れと関係するのではないか。

目標を見失った社会
 社会から絶対的な目標と基準が失われ、「価値の多様化」(実は表層的なタコツボ化)が進んだのは、「豊かな」社会になったからだ。以前は、国民全体が貧しく、「豊かになりたい」という夢をみなで共有できた。そして高度経済成長に邁進し、豊かさを実現してきた。その裏では地域や大家族制が崩壊していったが、国民は「豊かさ」の代償として諦め、淋しさは「中流」としての一体感で補ってきた。
 他方で、世界は東西冷戦下で資本主義と社会主義との対立があり、それは全体的な世界観の対立でもあった。すべての人々が立場の選択を強制されたが、ひとたび態度決定さえすれば、後は自動的にすべての問題の回答を一挙に手に入れることができた。こうした政治対立はもちろん国民の対立を引き起こしたが、両者は「豊かさ」を追求する点では共通だったから、共依存の関係でしかなかった。その時代には、社会にも個人にも、明確な目標と基準があった。
 今はそれが失われた。そして、むき出しの競争社会と格差の拡大が広がっている。そこでは地域や大家族制は崩壊し、バラバラの個人と核家族が広がっているだけだ。社会に強い共通目標があるときは家庭の影響は小さい。しかし、それが失われたときは、家庭の影響力が決定的になる。それが今の格差社会ではないか。親の階層、価値観、社会的地位、能力が、そのまま子どもに受け継がれ、貧富の差が拡大し、階層が固定化していく。それは個人が自立できないでいることと裏腹の関係だ。さて、ではどうするか。

「哲学」とは何か
 私の「哲学ゼミ」には二つの柱がある。一つは哲学上の古典を読むことで、ヘーゲルを中心に、カントやアリストテレス、マルクスやハイデガーなどを読む。もう一つが、各参加者の活動報告や問題意識を出し合って話し合うことだ。こちらが重要だ。そこでは自分の直面している問題を考えながら、これまでの人生を振り返る。それを報告し文章にし、相互批評をする。それによって人生の目標、テーマを作ることが目標だ。これは、実は親からの自分への影響の総チェックであり、親からの自立をうながすことでもある。

今求められる教育
 自分の個人的で特殊な問題を、一般的に論理的に考える。そのための媒介として、本や哲学書を読む。それが私のゼミで行っていることだが、これが本当の「哲学」だと思う。これを学校や大学など、あらゆる教育の場で行っていくべきだろう。わが鶏鳴学園は「国語の専門塾」を標榜しているが、実はそれは「哲学の専門塾」という意味なのだ。
 今の時代には、既成の答えは有効ではない。教師は、答えを押しつけるのではなく、生徒とともに、生徒が抱える問題を、真摯に考えていくことしかできない。そのためには、教師自身の価値観や経験の意味づけを見直し、壊し、作り替える作業をすることになるだろう。
だから今、「正義」のそうした作り直しの作業を協同で行ったマイケル・サンデルの授業が大きな反響をよんだのではないか。 (2010年9月29日)