6月 02

週刊「教育資料」2010年5月24日号で以下を書きました。

新学習指導要領で国語科が問われる/鶏鳴学園塾長 中井浩一/

問われる国語科の意味
新たな学習指導要領には画期的な点がある。?全教科での言語活動を求め、?その中心に国語科を位置付け、?高校生の体験、現場調査(フィールドワーク)を重視した――ことだ。
これを正面から受け止めるならば、その衝撃力は、前回の「総合的な学習の時間」の導入以上のものになるはずだ。なぜならここで、「国語科とは何か」が初めて真正面から問われたからだ。国語科とは何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。これが今後、具体的に問われることになる。
例えば、理科や社会のリポートと国語科の表現とは、どう関係しているのか、関係すべきなのか。これに明確に答えられる人がいるだろうか。
ある公立高校の国語科の先生は、祖父母の戦争体験の聞き書きを、叙事詩の形式で書かせた。「調査結果のリポートが目的なら、調査の方法や、調査内容の客観性・資料的価値が重要になるが、それでは社会科になってしまう。だが、詩という文学の形式なら、その人がこう語ったということがあればいい。事実でなくとも思いが表現されていればいい。生徒の主観的な思いを書き込むことも許される」。
つまり、事実や客観性を重視するのが社会科で、思いや生徒の主体性を重視するのが国語科、という棲み分けの主張なのだ。読者のみなさんはどう考えるだろうか。
 
国語科の問題点
私は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた身にとって、今回の学習指導要領には深く頷けるものがある。
私の国語教育への疑問とは、それが事実上、文学教育、道徳教育、マニュアル教育になっていて、本来の使命を果たしていないのではないか、ということだ。
内容を教えようとするあまり、「型」を重視した形式の指導が弱すぎるのではないか。答えを重視するあまり、問いを立てることが軽視されていないか。共同体の空気を読むという感性や感情を学習させられ、集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深めるという論理(=思考)が指導されていないのではないか。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係付けられていないのではないだろうか。

論理の能力が国語科の領域である
それにしても、国語科とはそもそも何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。それに対する私の考えは、学習のナカミを内容と形式に大きく分け、国語科以外の教科はすべて「内容」が中心で、国語科だけが「形式」を主に学ぶ教科だととらえることである。  
内容中心ということは、つまり知識の獲得に重点が置かれることだ。国語科だけが形式を学ぶ教科だということは、国語科は思考・論理のトレーニングや表現の型の学習をする場であり、知識と型の運用能力を獲得する場だということである。
 しかし、世間では形式を学ぶことは極めて評判が悪い。それは空虚なもので、内容となんの関係もなく、装飾的なものでしかない――。そうした理解が一般的だ。だからこそ、「無内容」な国語科にも何か内容を求め、他教科にはないものを探した。その結果が、今の「文学」教育ではないだろうか。

 内容=知識 → 国語科以外の全教科
 形式=思考・論理=能力 → 国語科

ところが、真実は世間の理解とはまるで逆なのだ。形式こそが物事の核心であり、形式なしに内容を学習することはできない。例えば、読解では、テキストの内容(イイタイコト)は、その形式をつかむことで、初めて的確に理解することができる。
逆に言えば、深く正確に考えるには、思考・論理のトレーニングが必要なのだ。つまり、形式の学習とは考える力そのものの習得であり、それが全教科の基礎となる。詳しくは拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書を参照にしてほしい。
先に例に挙げた「表現」でも同じである。内容とは一応別に、その表現の形式を徹底的に指導するのが国語科の役割だ。表現の目的別に、それに相応しい文体と構成の選択をする能力の習得である。それが理科や社会科などでの表現の基礎となるはずだ。詳しくは月刊『高校教育』で連載中の拙稿を読まれたし。

PISA型の学力不足
PISA型の学力不足が問題になっている。どうして日本では問題解決型の教育ができないのか。日本では答えを教え込む内容主義がはびこり、問いを出す力を育てる形式の学習が弱いからである。 
今回は国語科におけるその問題を取り上げたが、これは全教科に共通する。どの教科にも、内容と形式の両面があり、いずれも内容に大きく偏っているのではないだろうか。国語科が本来の使命に立ち返ることは、他教科の内部の形式面を重視することにつながるはずだ。今回の新しい学習指導要領が、私と問題意識を共有してくださる先生方を増やすことを期待している。

6月 02

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。
生徒のレポートは紙面をご覧ください。

6月号の第3回 理科系のレポートと「主観的な感想」

1 自分のテーマを持つ
前回は、木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)で説明されている理科系のレポートや論文の書き方を紹介した。そこでは「原則として『感想』を混入させてはいけない」。これは文科系のレポートでも同じだとされている。
しかし、「主観的な感想」を排除して、本当に良いのだろうか。そもそも「主観的な感想」とは、学習に対してどういう意味を持つのだろうか。この問題を高校生段階で、具体的に考えてみたい。

例に取り上げるのは千葉県立小金高校の総合学習「環境学」。「総合的学習の時間」が導入される五年前から実施された。生物の川北裕之氏と彼を支える教師集団が中心になり、三年生の自由選択科目「生物?」の約半分、一単位分を使い、年間を通した取り組みである。事前学習の後、班ごとに研究テーマを設定して、フィールドワークを含む調査研究をしたうえでレポートをまとめ、発表する。

目を引くのは、事前指導の期間が三ヶ月と長く、そこでも体験学習が中心になっていることだ。休日を利用して、三番瀬を観察し(ついでに潮干狩りも)、近くの里山では竹の間伐を体験する。それらの体験をもとにディベートもする。これは探求学習の「方法」を教えると同時に、予行演習にもなっていたのだろう。
これだけ豊かな事前学習を用意したのは、生徒一人一人が自分にとって意味あるテーマを設定するためだ。「探求学習では、一番難しいのは、生徒自身が興味のある課題(テーマ)をきちんとした形で課題化できるかである」。川北氏は、広すぎるテーマ、一般的なテーマではなく、自分にとって本当に知りたいと思うこと、身近なことで興味があるものを選ぶように指導している。

総合学習は、従来の一方的な知識詰め込み型に対する、問題解決型学習であるが、川北氏はその総合学習にも二種類あると言う。ひとつは教科的(模倣的)研究で、初めから正解が用意されている。これは研究の手法を学ぶには良いが、生徒にとってのテーマの切実さに問題がある。もうひとつは、生活的(変容的)研究で、個々の生徒にとって切実で身近なテーマを取り上げるが、すっきりとした解答が出せるとは限らない。

もちろん両者が必要なのだが、川北氏が追求するのは後者だ。総合学習の目的を、各自が自分の問題意識を深め、自分の進路を切り開くことに設定しているからだ。
この二種の総合学習を比較すると、前者が「答え」と「対象理解」を重視するのに対して、後者は「問い」の深まりと「自己理解」を重視すると言える。木下氏の方法論を考えれば、それがそのまま通用するのは前者の場合であることがわかるだろう。
では後者の場合に有効な方法とは何か。そのレポートはどのようなものになるのか。構成と文体での違いはあるのか。

2 くつがえされる予測
 川北氏の生徒たちのレポートも、構成としては木下方式と大きな違いはない。多くのものが、一テーマの設定理由、二研究の方法、三調査の報告、四まとめ(結論)となっている。最後に「感想」の項目を置いている班があることが違うぐらいだ。

「PETボトルは何処へ?リサイクルの現状と対策?」というユニークなレポートを見てみよう。
1の「テーマ設定理由」を読むと、高校生の身近に溢れている五〇〇mlのPETボトルに目をとめ、それがリサイクルされているのだろうか、という素朴な疑問から出発していることがわかる。
最初は文献で調べ、PETボトル推進協議会で説明を聞く。それが3で紹介される。この段階では、リサイクルはうまくいっていると納得した。リサイクルの意識を高めれば問題は解決できる。
しかし、次に訪れたリサイクル工場で彼らは大きなショックを受ける。工場は悪臭と騒音がひどく、そこで働いているのは知的障害者だった。彼らはリサイクルのクリーンなイメージはうそであること、何か根本が違っていることに気づき始める(4の「いざ、工場へ」)。
そして出会った新聞記事が、彼らの考えを大きく飛躍させることになる。その記事には容器包装リサイクル法の矛盾が告発されていた。PETボトルが予想を上回って回収されたために各地の自治体がその保管に苦労していること、つまり企業が作り出したPETボトルを、自治体が税金を使って分別回収し保管しているという事実(5から)。
こうして彼らは、初めの仮説に変えて、よりよい社会にするためには、義務教育に環境学を取り入れること、再生できないものは売ってはいけないこと、消費者はそれを拒否すべきであること、容器包装リサイクル法は見直すべきであること等を考えるに至る(6の「理想社会」)。

3 成功した学習とは何か
もし調査が最初のPETボトル推進協議会で終わっていれば、それは予定調和の世界のママだった。当初のクリーンなイメージのままのリサイクル観が維持できただろう。しかし、彼らは実際のリサイクル工場を見学し、その甘い幻想を打ち砕かれた。この時初めて、彼らの体を通った問題意識が生まれたのではないか。そしてそれゆえに、普段なら見過ごしたかも知れない新聞記事に飛びつくことができ、一応の結論を出す。しかし、それが当座の結論でしかないことも彼らはわかっている。

この調査全体を通して、彼らの心が激しく揺れ動き、それが彼らの認識を深めるための大きな力になっていることがわかる。こうした調査報告は、「主観的な感想」をきちんと反映したものでなければならないだろう。

図はそのレポート4の部分だが、イラストが彼らの思いを生き生きと伝える。また、傍線1や傍線2が、彼らの主観的思いを率直に語っている。

6の「理想社会」では、遠大な理想を言う事への突っ込みも入る。「ちょっとすぐに手を出せる領域ではないから、ずるいと言えばずるいけれど、考えるのは勝手でしょう」。7の小見出し「ひとまず、本当に今できることは」からは、これが当座のものでしかないとの自覚がうかがえる。

8の「まとめ」は以下だ。「私たちはリサイクル=いいことという関係しか見ておらず、PETボトルをリサイクルに出したという満足感だけでその後のことを考えていなかったようです。それではリサイクルしたとはいえないでしょう。つまり、これからの地球環境のためには何かしたいという意識だけではだめです。そのためのちゃんとした知識とその知識や意識を使う行動力、そして使う場、いわゆる法律が必要なのです。そうしなければいつまでたっても何も変わらないでしょう」。

ここには対象理解だけではなく、自己理解(自己反省)の深まりが確かにある。
最後の9の「感想」から、あるメンバーのコメントを紹介する。「ずっとめんどくさかったけど、やっているうちに手放せなくなってしまった。特に、自分の手の届かない領域の話をするのは、無責任な気がしてもどかしかった。でも私もそのうち社会に出るはずなので、そうしたときに、ここで感じた無責任をそのままにしないで行動しよう」。

しかし、これで終わりではない。川北氏は、このレポートとは別に、さらに「学びのストーリー」を書かせている。一年間にわたる学習の中で、どう行動し、何を学んだのかを書かせるもので、対象理解と自己理解を更に深めていく試みだ。

高校生にとって成功した問題解決学習とは、当初の自分の理解の浅さを思い知り、学んでいく強い意欲が持てた場合を言うのではないか。

5月 03

日本民芸館の「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を観、柳宗悦の『民芸四十年』を読んで考えたことをまとめました

1 柳宗悦の朝鮮陶磁器コレクションと「安宅コレクション」

4月1日(2010年)から日本民芸館で「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を開催している。民芸館の創立者柳宗悦自身が収集した朝鮮陶磁器のベスト約270点を展示している。「当館が誇る朝鮮陶磁器コレクションの至宝展とでもいうべきもの」。

最近、李朝の白磁などに異様に惹かれている私は数ヶ月前から楽しみにしており、いよいよ明日という晩は寝付けなかったぐらい興奮していた。豊かなコレクションで圧倒してくれるだろうと期待したのだ。ところが、実際に観て、私は少しばかり失望したのだった。質量共に、それほどではなかった。陶磁器の口部分などの破損や全体的なシミなども目に付いた。

こう思ったのは「安宅コレクション」と比較したからだ。「安宅コレクション」とは安宅英一(安宅産業)の中国、朝鮮の陶磁のコレクションで、現在は大阪市の東洋陶磁美術館で観ることができる。これは専門家から「第2次大戦後も収集された東洋陶磁のコレクションとしては世界的に見てももっとも質の高いもの」「高麗・朝鮮の陶磁は私的コレクションとして世界第1といっても過言ではない」(林屋晴三)と言われる。私はこのコレクションに親しむようになり、その朝鮮の陶磁器に強く惹きつけられていた。今回の民芸館にやや失望したことで、安宅コレクションの質量がいかに高いかを思い知ったように思う。そこでは1つ1つの作品が完璧な保存状態であり、完成度や質が高い。

2 柳宗悦の『民芸四十年』の生き方

4月に柳宗悦の『民芸四十年』、鶴見俊輔の『柳宗悦』を読んだ。柳宗悦には20年以上も前から関心があり、岩波文庫から彼の著作が刊行されるたびに購入していたが、なかなか読む機会がなかった。自分の中に、そのきっかけを作れないでいた、と言った方が良い。
今回、急に矢も楯もたまらず、『民芸四十年』を読みたくなり、一気に読み終えた。それは、柳の民芸という考え方の根っこに、朝鮮の陶磁器への開眼があることがわかったからだ。柳も最初から「民芸」という観点があったわけではない。朝鮮(李朝)の陶磁器のすばらしさに目覚め、その意味を深めた結果、より普遍的な民衆の芸術、民衆の生み出す美に気づき、それを日本に当てはめた時に見えてきたのが日本の「民芸」「工芸」の姿だった。

しかし、改めて思い出すと、このことは私も前から知っていたことに気づく。私の側の問題だったのだ。最近になって、私の中に、朝鮮(李朝)の陶磁器への熱い思いが生まれていた。それが機縁となって、柳宗悦の軌跡が、私の中にストンと腑に落ちたのだ。ずいぶん長い時間がかかったものだと思う。

柳の偉さ、凄みが、まっすぐに、私の中に入ってきた。柳は単なるコレクターや美学者ではない。彼は朝鮮(李朝)陶磁の美にめざめただけではなく、その陶磁器が美しく立派なものならば、その制作者もまた立派に生きていると見極めていた。それは美の基準の変革にとどまらず、人間・民族への評価を変え、社会や歴史の見方をも変えるほどのものだった。それゆえに、柳は日韓併合の状況下で朝鮮側に立って発言することになる。それは社会的な軋轢を生み、柳はさまざまな勢力から批判や攻撃を受けることになる。そうした中で、柳はひるむことなく自分の道を最後まで歩いていった。最期に待っていたのは念仏宗であり他力道である。結果として残された柳の人生の軌跡のみごとさに、うなってしまう。

3 民芸と民衆と

「朝鮮の友に贈る書」「失われんとする一朝鮮建築のために」など、柳は当時の日本の朝鮮への植民地政策、同化・教化政策に反対したが、当時にあってそうした日本人は少数に限られていた。しかし、それは政治的な発言というよりも、朝鮮の美とそれを生みだした朝鮮文化と民族を守るための、美に生きる者としてのやむにやまれぬ行為だった。

その中で柳は2つのことに気づく(「四十年の回想」より)。1つは、朝鮮人自身が柳たちのコレクションに関心を持たなかったことだ。そこで柳は「朝鮮人に代わって美術館を京城に設置」した。これが柳が作った初めての美術館になる。しかし「朝鮮側からの思いもかけぬ反対に出会った。下賤の民が作った品々で朝鮮の美など語られるのは、誠に以て迷惑だというのである」。

一方、日本人には朝鮮の陶磁のコレクターはいるが、柳の観点とはやはり違う。柳のは民間の雑器が多かった。一番違うのは、彼らは「朝鮮の品々は好きではあるのだが、それを通して朝鮮の心を理解しようとするのではなく、まして朝鮮人のために尽くそうとするのでもなく、ただ自分の蒐集欲や知識欲を満足させているのに過ぎない」点だ。「それで私は義憤を感じて、朝鮮人の味方として立とうと意を決した」。それが「朝鮮の品物から受ける恩義に酬いる所以」だ。ここに、安宅コレクションと日本民芸館のコレクションの決定的な違いがある。

この2点の指摘からは、柳が問題にしていることは、日本と朝鮮の間で朝鮮の側に立つ、という単純な図式ではすまないことがわかる。同じ朝鮮内部でも、「下賤の民」が生んだ「美」に盲目な人々がいるのだ。もちろんそれは日本国内でも同じである。

朝鮮の陶磁の美を発見した柳は、それを生みだした朝鮮の文化と民衆を発見し、民芸を発見した柳は、民芸を制作する民衆の価値をも発見したのだ。

それは柳が誰を友とし、師としたかによく現れている。柳自身は上流階層の出身であり、学習院で学び、白樺派の同人として活躍した。しかし、そこから大きく逸脱した付き合いをしている。柳に朝鮮の陶磁・工芸の美を教えた浅川伯教、巧の兄弟との付き合いだ。

4 浅川伯教、巧兄弟

朝鮮を愛して朝鮮に暮らしていた浅川伯教、巧の兄弟。伯教は小学校の教員(後に李朝陶磁の研究者)、巧は林業試験場の下級役人である。柳はそうした二人を尊敬し、深く信頼していた。
浅川巧は朝鮮語を学び、朝鮮服を着、朝鮮人として生きようとし、朝鮮人を愛し、愛された。41歳で急逝するが、その葬儀には多数の朝鮮人が参列し、彼らがその棺を担いだ。巧は朝鮮人の共同墓地に葬られた。

巧の死後の柳の追悼文は以下だ。「私はわけても彼を人間として尊敬した。私は彼ぐらい道徳的誠実さをもった人を他に知らない」「私は彼の行為からどんなに多くを教わったことか、私は私の友だちの一人に彼を持ったことを名誉に感じる」。巧の遺児である園絵は民芸館と柳を終生支え続けた。

私が気になったのは、浅川兄弟がメソジスト派のキリスト教徒だったことだ。その信仰と彼らの生き方の関係だ。江宮隆之著『白磁の人』(浅川巧の生涯の物語)では、それを強調し、巧と朝鮮人をいたぶっていた日本の軍人が回心し、キリスト教に入信するエピソードを入れている。彼ら兄弟の信仰は柳の念仏宗への帰依に近いものだろうか。(2010・5.2)

4月 11

家庭、親子関係を考える その1 2009年秋の読書会

2009年秋の読書会では、以下の3冊を取り上げた。
10月 斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)
 11月 斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書)
 12月 中井久夫『精神科医がものを書くとき』 (ちくま学芸文庫)

 この内、斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』と斎藤環『社会的ひきこもり』は4年前にも取り上げたのだが、新たなメンバーも増え、読んでいないメンバーが増えてきた。
しかし、すべての若い人々は、その青年期には、親子関係について振り返っておくこと、その本質について一度は考えておくことが重要だと気づいた。昨年夏の合宿で親子関係の悩みをうち明ける人がいて、その場で参加者の一人から感情的な発言が飛び出すのを見たからだ。そこでこの2つの本を再度取り上げた。
また、これは鶏鳴学園の塾生(高校生)の保護者にも参加を呼びかけた。親の立場からも考えてほしいと思ったからだ。
ダブル斎藤氏はいずれも精神科の医師である。ところが、二人とも現在の精神医療や精神科の医者に批判的だった。そこで多くの人(斎藤環もその一人)に支持されている中井久夫『精神科医がものを書くとき』で、精神科についても考えてみた。この一連の読書会で考えたことを報告する。
家族や親子関係がテーマになるので、この問題について私見を述べた「堺利彦の『家庭論』」も掲載する。若い方々に、また親の世代の方々に是非考えていただこうと思ってのことだ。

4月 11

家庭、親子関係を考える その2 中井久夫の二面性 12月の読書会から

12月の読書会のテキストは中井久夫『精神科医がものを書くとき』(ちくま学芸文庫)。
 精神科の臨床医である中井久夫については名前を知っているだけだった。『全体主義の時代経験』に収録された書評で、藤田省三が中井を絶賛していた。そこで彼のエッセイ集を読んでみたところ、断然面白かった。続けてエッセイ集を4冊ほど読み、有名な『最終講義 分裂病私見』(みすず)、『精神科治療の覚書』(日本評論社)も読んでみた。
中井久夫は文学にも造詣が深く、人間についての幅広い知識を持ち、深い人間洞察のできる優れた臨床医だと思う。しかし、どうにもしっくりこない点もある。

今回読書会で取り上げてみて、中井久夫の二面性を強く意識した。彼は個別性、特殊性の大家であるが、普遍性、一般化ではぼろぼろだと言うことだ。彼のエッセイが面白いのは、その個別面での能力の高さがよく表れているからだ。彼は実践家として、臨床家として非常に優れている。そして、個々の場面や、個々の事態への対応は見事で、そこから生まれる発見が、きらきら輝くような言葉で描かれる。それがたまらなく見事だし、面白い。
しかし、それらは断片的な知恵のようなものであり、事柄の本質を一般化して語ることはない。精神医療の歴史を長々と語り(「近代精神医療のなりたち」)、サリヴァンの業績と人生を長々と語る(「知られざるサリヴァン」)が、結局、それは何なのか、と振り返ると、ほとんど何も語っていないことに気づく。
結局、精神分裂病とは何なのか。結局、精神病とは何で、精神医療はいかにあるべきなのか。サリヴァンの仕事の精神医療における位置づけとはどのようなものなのか。その答えは、霧の中にただよっている。

読書会参加者から「こういう人はみなから好かれる」という発言があったが、そうだろうと思う。事実、多数のファンがいるようだ。本書には、中井にとっての先輩、同僚、後輩の精神科医が多数登場するし、個々に人物規定があるのだが、それらはするどく核心をついてはいるが、すべて断片的で、その人物の医療の本質や、精神医療全体における位置づけをしない。つまり、ここには根源的な批判がないのだ。これでは嫌われようがない。
そうした中井久夫の生き方がどのように成立したのか、それは「私に影響を与えた人たちのことなど」でわかりやすく示されている。
戦争中でも、彼の周囲には、祖父、大叔父、父など合理的な考えの大人たちが多く、日本の軍隊への批判などをよく聞いていたし、天皇の神格化などになじめなかった。そのために小学校では孤立し、よくいじめられた。周囲が集団ヒステリー状態にある中で、その空虚さを、冷めた目で眺めていたらしい。
戦後もそれは変わらない。アメリカ軍の占領政策による改革や、共産党や社会主義革命への狂騒に対して、中井は距離をとって冷ややかに眺めていた。しかし、中井はそうした運動や組織に距離を取りつつも、関係は持ち続けた。国内の左翼運動は、ソ連や中国の動きによって、しばしば外的な急旋回が行われ、その都度多数の思想難民が出ていた。彼らは精神的に深い傷を負い、中井はそのカウンセラーのような役回りになっていた。
こうして直接には政治や思想運動に関わらないが、悩み相談係として間接的に深く関わる。これが中井の位置である。そして、こうした関わり方を生涯の仕事にしたのが彼の人生だったのだろう。もちろんここには断念があり、自分の役割の自覚、明確な自己限定がある。だからこそ、「私に影響を与えた人たちのことなど」は読みやすく、分かりやすいのだ。

先に、中井久夫の二面性を指摘した。個別性、特殊性ではすぐれているが、普遍性、一般化の能力は低い。中井自身はもちろんこのことに自覚的であり、「エッセイかアフリズムしか書けない」と明言している。
本書の文庫版には斎藤環の解説があり、斎藤も中井の二面性を取り上げている。しかし、彼は「一般化のなさ」を肯定的にのみとらえ、中井への批判がいっさいない。しかし、それでは「ひいきの引き倒し」ではないか。
斎藤は中井久夫を「いっさい『体系化』を志向しなかった」とし、それゆえに精神医療を「カルト化」から守れたと評価する。確かにそうした面があるだろうが、反対に、一般化によって「カルト化」から守れる場合もあるのではないか。斎藤にとって「カルト化」とは、「ある種の思想やイデオロギー、すなわち『体系』が状況を支配する状態」だと言う。そして、「中井久夫のみがカルト化を解毒した」と言い、その理由を「いっさい『体系化』を志向しなかった」からとしている。
しかし「ある種の思想やイデオロギー」とは具体的に誰のどういった思想のことか、それを斎藤は言わない。本当にすべての『体系』が悪いのだろうか。斎藤の言う「状況を支配する」思想と闘えるのはどういう思想なのだろうか。まさか「状況に支配される」思想ではないだろう。「状況を支配しない」思想だろうか。それはどういう思想だろうか。「状況を支配しない」思想で、「状況を支配する」思想と本当に闘えるのだろうか。
中井久夫には二面性がある。中井の良い点は、それを自覚し、自己限定によってマイナス面が大きな欠点とならないようにしていることだ。しかし、それも十分ではなかった。斎藤は、中井が「原則として依頼原稿しか書かない」ことを、中井の自己限定として評価しているようだが、依頼原稿なら書いて良いわけではない。「近代精神医療のなりたち」や「知られざるサリヴァン」のような、彼に向かない仕事をも引き受けてしまい、その馬脚を現すことになっている。それを彼に注意できる人はいないようだ。