4月 11

家庭、親子関係を考える その3 「依存」と「自立」と 10月の読書会から

斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)をこの秋にも読書会で取り上げた。この本は親子関係が子供の人生に決定的な影響を与えることを示した点で、またアダルト・チルドレンという命名で、この問題にわかりやすいイメージを与えた点で、社会的に大きな影響力を持った。悪い親子関係は、その子供が親になることで拡大再生産されること、アルコール依存症や暴力に関して、夫婦間での依存関係を明らかにしたことなど、本書の功績は大きいと思う。
もちろん、そこには大きな限界もある。アルコール依存症や家庭内暴力などの「悪い」特殊な親や家庭だけが問題になっていて、一般化ができていないことだ。しかし、一部の「悪い」親や「悪い」家族関係だけが問題なのではなく、「良い」ケースも含めて、すべての親子関係で、親の子供への影響力が圧倒的に大きい(9割は親の影響ではないでしょうか)ことが核心的な問題ではないか。そこでは、良くも悪くも、親子の一体化が起きている。子供は親からの影響をどう相対化し、自分の生き方を選択できるのか。それが真の「問い」であり、真の課題だ。本書の例はその特殊例でしかない。
しかし、今回言いたいのは、そのことではない。「依存」「共依存」の用語法についてだ。これが一見わかりやすいようだが、誤解を与える表現ではないかと思うようになった。
これは、「アルコール依存症」という用語から来ているとおもうが、この本では「依存」即「悪」、「共依存」即「悪」、であるかのような使用法が行われている。

「依存」と「自立」は確かに正反対の言葉だが、実際の関係性においては、両者は対立するだけではなく、深く結びついてもいる。「アルコール依存症」からして、「依存」即「悪」なのではなく、「自立」の面が大きく損なわれた特殊な「依存」症状を問題にしているだけなのだ。
人間はそもそも「社会的な動物」なのだから、すべての人間は社会に、つまり他者に依存して生きている。また、「恋人」「夫婦」などの社会から一応は「閉じた」二人の関係でも、「依存」と「自立」はもちろん切り離せない。「依存」即「悪」といった用語法やイメージは、この面を見られなくするのではないか。
自立した関係とは、依存していない関係ではない。むしろ相互に正しく依存していることが、相互に自立できていることに他ならない。自立と依存は切り離せないのだ。
「依存」か「自立」か。この問題設定は間違っている。「どのような依存が真の自立につながり、どのような依存が自立につながらないのか」。これが正しい問題の立て方だ。
甘え合い、依存しあうことが問題なのではない。その関係が、病をますます悪化させていること、例えれば、デフレスパイラルに陥って抜け出せないような状態になっていることが問題なのだ。それは「間違った」依存関係だから「間違い」なのだ。
この2人の「自立」と「依存」の関係が、家族としては社会に対して「開かれた」家族か、「閉じた」家族かの問題に重なる。ここでも、家庭や夫婦関係が社会から「閉じる」ことが問題なのではない。その「閉じ方」が、正しく社会に「開かれる」ことにならないような関係が問題なだけなのだ。
こうした間違いは、ソ連の社会主義革命の初期にかなり広がったし(ライヒの『性と文化の革命』参照)、1970年代の共同体運動にもかなりあった。
斎藤環が『社会的ひきこもり』で、家族内の個人、家族、外の社会の3者を3つの円でとらえたシステム理解図は大いに有効だと思うが、それはこの3者の他の2者への「開かれ方」=「閉じ方」の全体を見渡す視点を提供したからだ。閉じていることは大前提で、その上に「開かれ方」=「閉じ方」を問うている。
私は、しばしば母子一体化の問題を取り上げ、そこでの共依存関係の問題を指摘する。親には「子離れ」を求め、子どもには「親からの自立」を求める。しかし、母親が子供を生きがいにすることが即悪いのではない。子どもが親に依存していることが即悪いのでもない。その反対の悲惨な例が「児童虐待」である。大切なのは、今の視点と共に、子育ての全体の過程を通して、子どもの自立のあり方を考えることなのだ。そこで問われるのは、そもそも「子どもとは何か」「家族とは何か」「夫婦とは何か」「その目的は何か」である。こうした本質論抜きに、状況や方法だけを論じていてもダメなのだ。

問題を、「依存」か「自立」かといったスローガン形式で示すのはわかりやすく、問題をはっきりと自覚するために有意義に見える。しかし、その結果全体を見失い、両者の根底的な関係とその本質を見失えば、かえって混乱が大きくなるだろう。問題を的確な表現で捉えなければならない理由がわかっていただけるだろうか。善意か否かには関係なく、低い論理能力は低い結果しかもたらさないだろう。

4月 11

家庭、親子関係を考える その4 堺利彦の「家庭論」 

(1)堺利彦の「家庭論」

 鶏鳴学園で大学生たちと行っている読書会で、堺利彦『新家庭論』(原題『家庭の新風味』講談社学術文庫)を読んでみた。
 堺 利彦(さかい としひこ、1871年(明治3年) – 1933年(昭和8年))は、明治から大正、昭和初期にかけて活躍した社会主義者・思想家・小説家である。
 『家庭の新風味』は明治34年から35年に書かれている。つまり日露戦争の2年前であり、日本が富国強兵を押し進め、上昇機運に乗っていた時だ。多くの人々は日本がなんとか西欧の諸国と肩を並べられるようになってきて、慢心するようになっていた。工業力や軍事力は大きく伸びたが、一方で貧富の格差が広がり、労働者は苦しんでいた。その時に、社会主義者が家庭の実用書を書いたのだ。もちろんそれは、原理原則の書でもあった。

(2)進む親子の一体化への歯止めを

 本書を読む気になったのは、最近の家庭における親子の一体化、子どもを親の所有物化している風潮への、私の強い危機感があるからだ。
 昨年秋に教育専門誌からモンスターペアレンツ(学校への理不尽なクレームや要求をする保護者)についての寄稿を求められ、本書を思い出した。
 モンスターペアレンツが急増している背景には、明らかに家庭の変質、親子の一体化の問題があるように思う。盛んに報道されている「子どもの親殺し」「親の子ども殺し(児童虐待や育児放棄)」にも、この問題が横たわっているだろう。
 昔から「わが子」という言い方があった。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようだ。そこに他者が入ることのない一体の関係。これは無償の愛ともなるのだが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなる。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっているのではないか。
 他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになった。経済紙誌の「お受験キッズ誌」だ。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供する。
 これは児童虐待とは反対のあり方に思われる。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのだ。母子一体化を壊す役割は、他者(社会)を代表する父親が担っていた。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには他者がいなくなってしまう。親離れ、子離れが極めて困難になっているのだ。
 こうした一体化への歯止め、抑制を可能にする論理は何だろうか。それを考えるとき、堺利彦の「家庭論」が思い出されるのだ。初めて読んだのは25年以上前になるのだが、それ以来、私の中に「子どもとは次の時代の働き手」という定義がしっかりと根を下ろしている。私自身が二人の子育てをしながら、「子どもは親の所有物ではない。子どもは次の時代の働き手であり、社会(人類)からの預かりものである。したがって、別人格として尊重し、大切にしなければならない」との堺のテーゼを時々思い出しては、拠り所にしてきた。愛情に溢れた温もりのある家庭、しかしそれは私的で閉じている。それに対して対抗できるのは、社会や人類の立場からの論理しかない。
 今は親子の一体化が強まっている。その時に、堺のテーゼはますます有効性を増していると思われる。確固たる原則がなければ、子どもかわいさという感情に流されるだけだろう。
 「子どもとは次の時代の働き手」ということは、私たちは現在の時代の働き手であり、人類とはそのように前の時代の遺産を継承し、より発展させて次につないで生きてきたことを意味する。それは人類史上に自分を位置づけ、労働を自分の使命と自覚することと結びつく。
 若者のフリーター、ニートが急増していることが話題になって久しいが、それももちろんこの問題と関係するだろう。若者の間に、仕事における自己実現を求め、「自分探し」をしているような風潮が流行っているようだ。しかし「自分探し」とは自己理解を内化によって成し遂げようとする低い考えだ。本来は、「自分作り」という外化によってこそ内化も可能になると思う。そして「自分作り」は自己理解の範疇内に限定されてはならない。そもそも、自己理解は、他者や社会全体の理解と一体になって可能になるものだ。つまり、自己理解とは、自分が社会でどのような役割をはたせるか、自分の労働の意味を考えることと切り離せず、それは自分を「次の時代の社会の働き手」「労働力」として「作る」ことを意識しない限り不可能だろう。
 社会や人類史を視野に入れず、「自分探し」しかできないでいることと、子どもの自立を促せないでいる親子関係は一対のものなのだ。
 

(3)家庭と社会との矛盾

 堺の『家庭の新風味』は夫婦論・家庭論から家庭の家事や育児や娯楽までを述べた「実用書」だ。しかし、「子どもとは次の時代の働き手」という「人類発展の立場」からすべてを論じ尽くしている理論書でもある。その意義についてはすでに述べたが、当時も家庭のあり方が大きな問題になっていたのだろうか。
 今回全体を通読してみて、すべてに貫かれる論理の力強さ、自立と人間平等の思想、世間をよく知った大人の知恵に心打たれた。しかし、道徳的な平板さも強く感じた。悪や対立、矛盾が、発展に必要な媒介、過程としてとらえられていないということだ。
 例えば、夫婦間の親愛を「相見る」「相思う」から「相化する」「相合す」までの発展の10段階で示している(第4冊の第2章)。しかし、その段階の高まりは平坦に進むものではないだろう。夫婦間には様々な対立、葛藤がおこり、それを克服することで次への高まりが可能になるのではないか。それが明示されない。また、最終ゴールが一体化だというのは適切だろうか。夫婦には理解が進み一体化する一方で、互いの孤独がかえって深まる面もあると思う。そうした距離感も大切にしたい。それと関係するが、「夫婦間には秘密があってはならない」との指摘にも疑問がある。戦友としての夫婦の戦場に関することは別だが、二人が適切な距離を保つためには、秘密はあった方が良いと思う。その方が人生は面白くないだろうか。
 こうした平板さは、家庭を「理想社会のひな形」として、その理想のあり方を次第に発育成長させ、ついには全社会に及ぼす、といった堺の言説(282ページ)に最もよく現れている。『君たちはどう生きるか』の吉野源三郎も同じ様な主張をするが、それはあまりにも単純化しすぎた表現ではないか。家庭と社会との間には、一般化したり、広げたりするには、あまりにも大きな隔絶、矛盾があるのではないだろうか。
 国家間にも、国家内部の社会にも争いがあり、強盗、殺人、詐欺、脅迫、賄賂など、無数の悪徳が行われている。「その中にただ一つきれいな清潔な平和な愉快な、安気な、小さな組合がある。それが家庭である」。「夫はわが身を思うがごとく妻を思い、妻はわが身を思うがごとく夫を思い、親はわが身を忘れて子を思い、家族はたがいにわがままを控えて人の便利を計る」。「将来の社会は、一国家にせよ、全世界にせよ、すべてこの家庭のごとき組合にならねばならないと思う」(以上281,282ページ)。
 確かに、家庭では相互の親愛や理解が簡単で、社会ではそれが難しい。家庭は血縁で成り立っており、親子の愛情は血縁という自然性の上に成り立っているからだろう。それに対して赤の他人同士には自然性に基づく親愛の根拠はない。そこには混乱、悪、犯罪が横行する。
 そこで、血縁や地縁関係で結ばれた関係を全社会に、全世界に及ぼすことで、諸々の問題が解決できると夢想したい。その気持ちは理解できる。人類を一家に例えたり、「人類皆兄弟」と唱えたりするのもわからないわけではない。
 しかし、それは根本的には間違いではないか。その間違いは、親子や地域の自然な感情を全肯定するように見えるところにある。否、本当は全肯定しているわけではないのだろうが、そのようなイメージに乗っかっている。そこには問題があるのではないか。
 そもそも血縁関係は、ただ肯定されるだけで良いものだろうか。それは自然性に基づくだけに、無私の愛情を可能にするが、他者に対しては閉じた関係なのだ。地域の自然な仲間意識も、他者を排除した関係である。また閉じた関係であるがゆえに、核家族化と少子化が進むと、親子の一体化や親の子どもの所有物化を妨げるものがなくなる。
 その閉じた家庭や地域共同体に対して抵抗できるのは、他者に開かれた自由な関係、一般社会(近代以降の市民社会)だけなのではないか。社会には確かに、他者同士の金や権力をめぐる争いがあり、無数の悪が行われているが、家庭や地域の閉鎖性を超えているという側面がある。閉鎖した関係より、市民社会の方が高い段階にあることを見逃してはならないだろう。
 もちろん、社会的な混乱、不正は確かにある。そしてその克服のために、社会主義的な思想が生まれている。しかし、その解決を家族主義的、地域主義的に理解することは後ろ向きであり、本来の方向ではないだろう。むしろ、家庭という直接性を否定し、そこで生まれた市民社会の矛盾をさらに克服することで生まれる社会、それが本来の理想社会だったのではないか。
 確かに否定の否定は最初のものへの環帰になるのだが、家庭と社会との関係は一直線に結ばれるものではなく、二回の否定で媒介されていることを弁えなければならないだろう。
 もちろん、堺も吉野源三郎も、そんなことはわかっている。わかった上で、人々にわかりやすいイメージを与えようとしているのだろう。しかし、家庭という愛に溢れた平和な共同体を社会全体に拡大しようというイメージは、その家庭の自然性が否定され、克服されなければならないという厳しさを、忘れさせてしまうのではないか。むしろ、血縁関係の否定面を強調する必要もあるのではないか。

(4)子どもとは家庭と社会の矛盾を克服するシンボルだ

 もちろん堺がこうした矛盾に触れていないわけではない。例えば、親の子どもへの愛情でも、父親と母親の違いを堺は述べている。
 「母親の子への愛は本然の愛(自然の愛)」で「父親の子への愛は自覚の愛」だと言う。母親も「本然の愛」の他に「自覚の愛」を持っている。そして、動物と人間の違いは「自覚の愛」にこそあると言う(208ページ)。母親の直接的な愛情は、一旦は否定されなければならないということだ。しかし、その否定はどこから生まれるのか。自覚からだ。何の自覚か。夫婦間の親愛が「相化する」「相合す」にまで高まって具現化したのが子どもだという理解だ、と堺は言う。さらに言えば、「子どもとは次の時代の働き手」だという認識だろう。
 この自覚は、親自身が社会で働くことで、自らを「現在の時代の働き手」であることを自覚し、人類史の中に自分を位置づけることから生まれるだろう。
 この父親と母親の愛情の違い、立場の対立を考えると、家庭とは実は大きな矛盾であることが分かる。そこには血縁関係だけではなく、他者同士の関係が含まれるからだ。そもそも夫婦からしてもともとは他人同士なのだ。それが夫婦になり、子どもという血縁関係を生む。しかし離婚すれば、夫婦は他人同士にもどる。しかしその時でも親子の血縁関係はそのまま続く。
 実は、この矛盾が「嫁姑問題」をも引き起こしている。母親と息子という血縁関係に他者(嫁)が侵入したために生まれているのが、この問題なのだ。
 そして、堺はこの「嫁姑問題」に有効な解決案を出せないでいる。せいぜい、別居を勧めるだけだ。ここにも原理的な解決策を打ち出すべきだったろう。
 また、堺は夫婦それぞれの出身階層の違いの問題に触れない。「上流家庭の家風」を批判するだけだ。これは堺が「健全なる中等社会」だけを相手にしているせいかもしれない。しかし、「中等社会」内にも階級の区別はあるし、他者である二人にとっての強固な「他者性」とは互いの階級固有の価値観、感性の違いだろう。それはどうやって克服できるのか。
 こうした矛盾は、実は「子ども」という存在に集約されている。他者同士である夫婦を親子の血縁関係で強固なものにするのも子どもである(子はかすがい)。しかし、家庭の中で親の愛情を一身に受けて育ちながら、両親から自立し、社会に出ていってしまうのも子どもなのだ。それによって「次の時代の働き手」となる使命を果たすために。
 子どもには、こうした矛盾が集約されている。それは何と不思議な存在であることか。私達大人が、両親が、子どもたちを尊重し、大切にしなければならないのは、彼らが「次の時代の働き手」であるからだが、それだけではあるまい。子どもたちはこの人類社会発展のための矛盾の体現者であり、その克服のシンボルなのだ。私達は子どもの使命の厳粛さに頭を垂れるのだが、それは私達自身の使命の厳しさを噛みしめることになるはずだ。
                          2008年4月2日

3月 15

3月6日の週刊『東洋経済』誌で塾、予備校の特集があり、鶏鳴学園も紹介されました。

2月 24

 今、表現指導の研究会では、聞き書きをテーマとして研究している。特に、文体の使い分けについて考えている。その過程で、茨木のり子の叙事詩「りゅうりぇんれんの物語」に出会った。すっかり感動して、その感動の意味、理由を考えながら、叙事詩の文体や構造を考えてみた。

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◇◆ 事実か想像か 茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」から考える ◆◇
 
? 聞き書きと文体の問題  
? 茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」  
? 想像のシーンとラストのエピローグ  
? 詩が詩であるために  
? 人称の問題  
? 事実と真実  
? 詩における事実と想像  
? 聞き書きの文体をどう指導すべきか
 
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? 聞き書きと文体の問題

09年10月11日(日)、高校作文教育研究会の10月例会(「聞き書き」を学び合うシリーズの第6回)で、「祖父母の叙事詩 ?祖父母の人生を作品として残す?」という報告が長野県立諏訪清陵高等学校の石城 正志さんによって行われた。

石城さんによれば、「この実践を一言でいえば、生まれてから今日までの人生を祖父母から聞き出し、それを詩にするということだ。話を聞く相手は祖父母であって、父母でもそれ以外の誰かでもない。聞き取った内容は叙事詩(人生の物語詩)として作品化するのであり、散文の記録として残すのではない。これがこの実践の肝であり全てである」。

この?相手は祖父母、?叙事詩(人生の物語詩)として作品化、の2点をめぐって討議が行われたが、後者が特に問題になった。なぜ、ルポやインタビューのように書かせず、文学的に創作的な表現で、詩(叙事詩)で書かせるのか。その意味、その教育効果は何か。

石城さんは、社会科と国語科の違いを考えて、叙事詩のスタイルを取ったと言う。これは一般的な前提だが、そもそもその前提が間違いだと思う。(これについては、「『聞き書き』における文体の選択について」を参照されたい)

 研究会では、2つの点で議論があった。

?相手の意見と、自分の意見の区別が曖昧になるのではないか
  相手との一体化は、自他の区別を曖昧にし、相違や対立を曖昧にしないか。
  書き手の自分自身の思いや考えをどう表現するか。

?生徒に求めるべきは、事実か想像か
文学的に創作的な表現には、対象との一体化、相手への感情移入による理解が進む面があるが、事実の押さえが弱くなり、勝手な思いこみがはびこることはないか。

つまり、この?と?のような疑問は、「詩という形式は、自分の考えを作っていくには不適切ではないか」という疑問を表明していることになる。これは詩に限らず、1人称の「一人語り」、3人称で「小説」のように書かせる方法への疑問にもなる。これは聞き書きの目的、特にその教育目的をどう考えるかにも関係するだろう。

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? 茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」

茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」を読んで考えた。
 石城さんが生徒への事前指導で取り上げた参考作品の中にこの詩があり、そもそもこの実践は、この詩の学習の一環としてやってみた側面もある。それは「りゅうりぇんれんの物語」がまさに聞き書きから作られた詩であり、それもできるだけ事実に即して書かれた物語詩だからである。

 そして何よりも、この詩を読んで私自身が深い感動を覚え、その意味を考えたくなったからだ。

 私は、茨木のり子についてはほとんど知らない。いくつかの有名な詩(「私が一番きれいだったとき」「自分の感受性ぐらい」)を知っていたぐらいで、「りゅうりぇんれんの物語」も初めて読んだ。今回、彼女の詩や評論、エッセイを少しまとめて読んでみて、良い詩人だと思った。

 「美しい言葉とは」というエッセイに「体験の組織化」という言葉があり、程塚さんが「小論文」の理想として語り、引用していたのが、この文章からだったことを確認した。

茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」は、中国人の「劉連仁(りゅうりぇんれん)」が、戦争中に日本軍によって中国から強制連行され、日本で強制労働を課されながら脱走し、なんと14年間も潜伏し続けた後に発見され、故郷に帰るまでの記録をもとに作れれた物語詩であり、全体は約500行にもなる大長編詩である。

昭和17年、日本国家は「華人労務者移入方針」を閣議決定し、日本軍の占領下にあった中国の華北、華中から捕虜や民衆約4万人を強制連行し、日本国内の北海道から九州にいたる135か所の事業所で強制労働に従事させた。

劉連仁はその一人で、北海道の炭鉱で働かされていたが脱出し、その後、約14年もの間、北海道内で逃亡生活を送った。戦後12年目の昭和33年2月に北海道の札幌に近い当別の山で、猟師が凍傷にまみれた一人の中国人を見つけた。それがこの朗読詩の主人公・劉連仁である。

茨木はこの間の経緯を劉自身が語った記録をもとにこの詩を書いた。作者附討には「資料は欧陽文杉著・三好一訳『穴にかくれて十四年』(新読書社刊)によっています」とある。この翻訳は『穴にかくれて十四年 ?中国人捕虜劉連仁の記録? 』というタイトルで1959年に刊行された。

 訳者の「まえがき」には「1、これは、昭和二十年の七月、北海道のある炭坑から脱走して以来、まる十三年間も山中に逃亡し、穴居生活を続けて、昨年(昭和33年)二月九日、ついに発見され、その春に本国に奇蹟の生還をした中国人、劉連仁さんの体験記録である。二、劉達仁さんは文字を知らないので、上海の『新民晩報』の記者・欧陽文杉さんが、劉さんの話をくわしく開き、資料を細かく調べてまとめたものが本書である」と書かれている。

 つまり、この本は、劉の凄惨な経験の聞き書きであり、その記録の刊行の数年後にこの物語詩が書かれたことになる。満田郁夫の解説(「茨木のり子詩集について」。現代詩文庫20『茨木のり子詩集』〈思潮社〉の解説)でも、同様の説明がある。「『りゅうりぇんれんの物語』はこの劉連仁体験記に忠実に拠っていると言うことは出来る。(中略)この中国の農民の記録に感動した作者は、それをそのまま『朗読のための詩』(「あとがき」)にまとめて行ったにはたがわぬだろう」。

 なおこの満田の解説では、この詩について重要な2点を指摘している。?この詩の中に、幻想のシーンがあること、?そのシーンがラストにつながる伏線であること。

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? 想像のシーンとラストのエピローグ

満田は、?についてはこう述べている。「ところで、体験記と詩との関係について一つだけ気づいたことがある。「『りゅうりぇんれんの物語』の主人公が小川で沐浴をしていて開拓民の子供と出会うところがあるが、この部分は原記録にないところである。『穴にかくれて十四年』には、劉達仁が開拓小屋にあった子供の布団だけは取らなかったことが書かれている。又、『たとえ山中で野たれ死に、野獣に食われようとも二度と日本軍国主義者の手に落ちるのはいやだった。だからどうしても人から身をかくさなければならなかった。小さな子供にも見つからないようにした。子供がこわいからではなくて、子供が喋ったためにつかまるという事態になることを恐れたのだ。かれにはけものよりも人間の方がずっとこわかった』と記されている。これだけの記述を手がかりにして、作者はあの場面を創造したのであった」。

 この引用箇所に続けて、満田は?について以下のように述べている。「五百行あまりのこの物語詩のあとに作者は三十五行のエピローグをつけている。それはあの小川のほとりでの『交されざる対話』に接続するものである。あの時の少年はやがて成長し、あの出会いの意味を考える。

 つまり、あの場面はこのエピローグの伏線なのであるが、主人公の十四年間の孤独を描く中で、作者はどうしてもたった一度の心暖まる出会いを書かずにはいられなかったのでもあろう。開拓村の少年は作者である。そして、この長篇物語詩も又、前に述べて来たような意味での鎮魂歌である」。

この?で論じている想像のシーンは以下であり、長い逃亡生活の中ほどに出てくる。

風がアカシヤの匂いを運んでくる
或る夏のこと
林を縫う小さなせせらぎに とっぷり躰を浸し
ああ謝々(シェシェ) おてんとさまよ
日本の山野を逃げて逃げて逃げ廻っている俺にも
こんな蓮の花のような美しい一日を
ぽっかり恵んで下されたんだね
木洩れ陽を仰ぎながら 
水浴の飛沫をはねとばしているとき
不意に一人の子供が樹々のあいだから
ちょろりと零れた 栗鼠のように
「男のくせに なんしてお下げの髪?」
「ホ  お前 いくつだ」
日本語と中国語は交叉せず いたずらに飛び交うばかり
えらくケロッとした餓鬼だな
開拓村の子供だろうか
俺の子供も生れていればこれ位のかわいい小孫(しょうはい)
開拓村の小屋からいろんなものを盗んだが
俺は子供のものだけは取らなかった
やわらかい布団は目が眩むほど欲しかったが
赤ん坊の夜具だったからそいつばかりは
手をつけなかったぜ
言葉は通じないまま
幾つかの問いと答えは受けとられぬまま
古く親しい伯父 甥のように
二人は水をはねちらした
りゅうりぇんれんはやっと気づく
いけねえ 子供は禁物 子供のロからすべてはひろがる
俺としたことがなんたる不覚
それにしても不思議な子供だ
すっぱだかのまま アッという間に木立に消えた

(下線部は中井によるが、体験記録に基づく部分である)

?で論じているエピローグは、以下である

一ツの運命と一ツの運命とが
ぱったり出会う
その意味も知らず
その深さをも知らずに
逃亡中の大男と 開拓村のちび

風が花の種子を遠くに飛ばすように
虫が花粉にまみれた足で飛びまわるように
一ツの運命と一ツの運命とが交錯する
本人さえもそれと気づかずに

ひとつの村と もうひとつの遠くの村とが
ぱったり出会う
その意味も知らずに
その探さをも知らずに
満足な会話すら交せずに
もどかしさをただ酸漿(ほおずき)のように鳴らして
一ツの村の魂と もう一ツの村の魂とが
ぱったり出会う
名もない川べりで

時がたち
月日が流れ
一人の男はふるさとの村へ
遂に帰ることができた
十三回の春と
十三回の夏と
十四回の秋と
十四回の冬に耐えて
青春を穴にもぐつて すっかり使い果したのちに

時がたち
月日が流れ
一人のちびは大きくなった
楡の木よりも逞しい若者に
若者はふと思う
幼い日の あの交されざりし対話
あの隙間
いましっかりと 自分の言葉で埋めてみたいと

(下線部は中井によるが、その意味は後述する)

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? 詩が詩であるために

満田郁夫が指摘した2点は、そのまま我々の論点に関係するだろう。

第1に、この詩には事実を離れた想像のシーンがあることだ。この詩は、個々の表現に詩的なものはあっても、基本的には事実に即したもので、たんたんと事実を積み重ねている。しかし1個所だけ、事実ではなく詩人の空想のシーンがあるのだ。主人公りゅうりぇんれんが小川で沐浴をしていて開拓民の子供と出会うところだ。それをどう考えるか。

第2に、このシーンがラストのエピローグにつながる。ラストに再度、開拓民の子供が青年となって登場する。それまでは基本的にりゅうりぇんれんの視点から書かれているが、ラストだけは、りゅうりぇんれんにとっての他者、日本人の視点から書かれている。この視点を設定するために、青年となった開拓民の子供を出しているとも言えよう。

これは実は詩人自身の視点、立場からの叙述であり、ラストだけには詩人が直接に姿を現している。もちろん、くだくだしい政治的演説やお説教をするわけではない。ただ、「幼い日の あの交されざりし対話/あの隙間/いましっかりと 自分の言葉で埋めてみたい」と語るだけだ。しかし、直接に、書き手がわが身を表すことをどう考えるか。

第1の問題から考えよう。
実は、私がこの詩で一番激しく心を動かされ、魂に染みてきたのが、まさにこのシーンだった。これがなければ、この詩の魅力は半減するだろう。いやこの詩を詩として成立させているのは、このシーンではないのか。

その意味を考えてみよう。

?  りゅうりぇんれんにとって、日本人のすべては敵で、心許せない相手だった。そうした場面しかこの物語詩には出てこない。事実はまさにそうだったのだ。しかし作者としては、1つだけでもりゅうりぇんれんと日本人との魂の交流を入れたかった。それは詩人自身のりゅうりぇんれんへの激しい交感がもとにあるだろう。それに表現を与えたかった。
?  このシーンは確かに事実ではないが、しかし、それはただのウソではない。事実を無視した、勝手な空想ではない。あくまでも本人の語った記録に即している(下線部分)。そこに寄り添いながら、その延長に、その行間に自然に浮かびあがってくる一つの幻想なのだ。事実に徹底的に即し、その末に生まれる想像だ。それが創造だろう。
?  もし、事実だけにしたら、この想像のシーンがなかったら、それは詩と言えないだろう。少なくとも、すぐれた詩ではない。詩が詩になるためには、事実のレベルを超える地点が必要なのではないか(これは評論、論文でも全く同じである)。
詩人は事実をたんたんと描き、自分の想いが先走ることをずっと抑制していた。その想いが、ついにこらえきれずに噴出する箇所。それがここだ。そして、それがあるがゆえに、この詩が詩になっているのではないか。そうした形で、詩人の共感、想いが直接にほとばしることはアリではないか。
私が一番心を動かせれたのは、まさにこのシーンだった。そして、ここで初めてほっとし、硬くなった心を緩ませ、柔らかい心で、その後も長く続くりゅうりぇんれんの辛い物語に向き合うことができる。

次に、第2の問題に行こう。
本来は叙事詩には、物語には、著者が、書き手が直接現れることはない、登場することはない。もちろん、著者がいないのではない。選ばれた事実、その並べ方、全体の構成、個々の表現、その中に著者は現われている。注意深く読めば、そこに著者の思いや立場は現れている。しかし、どうしてもより直接に、生の形で現れずにはいられない場合があるのではないか。

ラストのエピローグの青年はもちろん作者である。ということは、「開拓民の子供」も作者だということだ。ここで作者は、りゅうりぇんれんたちを強制連行した側の責任を、自分もその一人である日本人としての責任を、問おうとしている。それはこの聴衆や読者である日本人一人一人にそれを考えてもらいたいからだろう。詩人が直接の形で姿をあらわさないのは、その方が目的にかなっているからだろう。

実は、詩人が直接あらわれている箇所が、このエピローグの少し前にある。それは、この詩のラスト近く、りゅうりぇんれんが発見される箇所だ。そこでは、詩人は2人称「あなた」でりゅうりぇんれんに直接呼びかけている。そして、最後には、りゅうりぇんれんを苦しめてきた日本人側に、つまりは詩人自身に語りかけずにはいられなかったのだ。この人称の問題は、文体を考える際にははずせない。文体とは人称の問題なのだ。人称には著者と対象の関係・距離が現れるからだ。

なお、このエピローグには、りゅうりぇんれんと開拓民の子供との出会いの場面が、詩人の視点から作られた幻想であることを示してもいる。読者が、想像と事実の部分を区別できるように、種明かしをしているのだとも考えられる。

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? 人称の問題

この詩では、りゅうりぇんれんについて、どのような人称で書かれているろうか。分析してみると、それが実は変化していくことがわかる。基本的には3人称で書かれるのだが、すぐに1人称「俺」の箇所が出てくる。逃亡生活の途中では内言で語る場面(当然1人称)も多用される。そして、ラストに近く、りゅうりぇんれんが発見される所では2人称「あなた」で呼びかけているのだ。この人称の変化の意味は何か。

冒頭は次のように始まる。3人称で、他者の視点から客観的に描かれるのだ(以下のすべての下線は中井による)。

劉連仁 中国のひと
くやみごとがあって
知りあいの家に赴くところを
日本軍に攫(さら)われた
山東省の草泊という村で
昭和十九年 九月 或る朝のこと

りゅうりぇんれんが攫われた
六尺もある偉丈夫が
鍬を持たせたらこのあたり一番の百姓が
為すすべもなく攫われた
山東省の男どもは苛酷に使っても持ちがいい
このあたり一帯が
「華人労務者移入方針」のための
日本軍の狩場であることなどはつゆ知らずに

すぐに1人称になる箇所が出てくる。これはもちろん、りゅうりぇんれん本人の視点から書いているが、本人の思いや感情、考えを描いている。その「内言」「つぶやき」「思い」が書かれる。

あの朝…
さつまいもをひょいとつまんで
道々喰いながら歩いて行ったが
もしもゆっくり家で朝めしを喰ってから
出かけたならば 悪魔をやりすごすことができたろうか
いや 妻が縫ってくれた黒の綿入れ
それにはまだ衿がついていなかった
俺はいやだと言ったんだ
あいつは寒いから着ていけと言う
あの他愛ない争いがもう少し長びいていたら
掴らないで済んだろうか  めいふぁ?ず
運の悪い男だ俺も…

内言は、ずいぶん描かれている。

山の上から見下した畑は一面の白い花
じゃがいもの白い花
りゅうりぇんれんは知らなかった じゃがいものこと
茎をたべた 葉をたべた
喰えたもんじゃない だが待てよ
こんなまずいものを営々とこんなに沢山作るわけがない
そろそろと土を探ると
幾つもの瘤がつらなっている
土を払って囓る うまさが口一杯にひろがった
じゃがいもは彼らの主食になった

内言は他にも沢山ある。例えば以下ではりゅうりぇんれんは自分を「俺」と言い、妻に「おまえ」と呼びかける。

三人の男たちはふるさとを語る
不幸なふるさとを語ってやまない
石臼の高梁の粉は誰が挽いたろう
あの朝の庭にあった石臼の粉は
母はこしらえたろうか ことしも粟餅を
俺は目に浮ぶ なつめの林
まぼろしの棗林
或る日 日本軍が姪をたててやってきて
伐り倒してしまった二千五百本
いまは切株だけさ 季家荘の部落
じいさんたちが手塩にかけて三十年
毎年街に売りに出た一二〇トンの棗の実
俺は見た
理由もなく押切器で殺された男の胴体
生き埋めにされる前 一本の煙草をうまそうに吸った
一人の男の横顔 まだ若く蒼かった……
俺は見た 女の首
犯されるのを拒んだ女の首は
切落されて臀部から生えていた
ひきずり出された胎児もいた
趙玉蘭(チャオユイラン)おまえにもしものことがあったなら
いやな予感 重なりあう映象をふり払い ふり払い
りゅうりぇんれんは膝をかかえた
長い膝をかかえてうつらうつら
三人の男は冬を耐えた 半年あまりの冬を

次も内言だ。

りゅうりぇんれんは烈しく泣いた
二人は殺されたに違いない すべての道は閉された
「待ってくれ おれも行く!」
腰の荒縄を木にかけて 全身の重みを輪にかけた
痛かったのは腰だ!
六尺の鉢を支えきれず ひよわな縄は脆くも切れた
ぶったまげて きょとんとして
それからめちゃくちゃに下痢をして
数の子が形のまんま現れた
「はかやろう!」そのつもりなら生きてやる
生きて 生きて 生きのびてみせらあな!
その時だ しっかり肝っ玉ァ坐ったのは

そしてラストに近く、長い逃亡生活が終わったところで、2人称が突如現れる。詩人が直接にりゅうりぇんれんに呼びかけるのだ。エピローグの少し前に、すでに詩人はその姿を現しているのだ。

獣のように生き
記憶と思考の世界からは絶縁された
獣のように生き
日本が海のなかの島であることも知らなかった
だが りゅうりぇんれん
あなたにはみずからを生かしめる智慧があった

惨憺たる月日を縫い
あなたの国の河のように悠々と流れた
一つの生命
その智慧もからだも
しかし限度にきたようにみえた
厳しい或る冬の朝のこと
あなたはとうとう発見された
札幌に近い当別の山で
日本人の猟師によって
凍傷にまみれた六尺ゆたかな見事な男
一尺半のお下げ髪の 言葉の通じない変な男

3人称は客観的に対象を突き放す記述であるが、1人称になると書き手は相手の内面に入り込むことになる。対象との一体化は進む。内言はこの人称でしか語れない。しかし、もちろん、書き手は対象と違う人格であり、一体化をしながらも、相手を対象化してもいる。

そして、一体化しながらも、その相手を対象化することで、相手に直接語りかけるような2人称が現れている。これが意味するのは自他の一体化の完成である。一体化は完成すると自分を失うのではなく、他者が他者として明示されるのだ。そして他方では、呼びかける主体として書き手が直接に現れている。それまでは常に、りゅうりぇんれんに語らせていたのだが、ここでは直接に書き手が顔を出しているのだ。こうした人称の変化、一体化の深化の構造の中に、幻想のシーンやエピローグがあることを忘れてはならない。

対象との真の一体化は、対象と自己との区別がなくなることではない。むしろ逆で、自己が自己になり、他者が他者になることなのだ。

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? 事実と真実

次に、事実と表現の関係を考えたい。この詩では、詩人は、「事実に語らす」方法を基本的には採用している。それは読者や聴き手が単なる感傷に流れることなく、事実の重さを受け止めさせることをねらいとしているからだろう。しかし、それだけではない。

以下は、事実の提示が効果をあげている箇所だ。逃亡生活が終わり、その対応が問題となり、調査がなされた結果はこう描かれる。

「行方不明」
「内地残留」
「事故死亡」
たった一言でかたづけられている
中国名の列 列 列
不屈な生命力をもって生き抜いた
りゅうりぇんれんの名が或る日
くっきりと炙出しのように浮んできた
「劉連仁 山東省 諸城 県第七区柴溝の人」
昭和十九年九月 北海道明治鉱業会社
昭和鉱業所で労働に従事
昭和二十年無断退去 現在なお内地残留」

昭和三十三年三月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた
罪もない 兵士でもない 百姓を
こんなひどい目にあわせた
「華人労務者移入方針」
かつてこの案を練った商工大臣が
今は総理大臣となっている不思議な首都へ

 このように、事実の選択、その示し方によって、書き手は強いインパクトで、自分の主張をできる。現象の中に、その本質が剥きだしの形で露わにされている。

しかし、感心できない箇所もある。中国共産党のプロパガンダをそのまま受け入れてしまっているように思われる部分がある。りゅうりぇんれんが発見され、中国に帰国するまでに日本について述懐する場面だ。それは1人称で彼の内言として書かれる

おいらが何の役にもたたないうちに
中国はすばらしい変貌を遂げていた
おいらが今 日本で見聞きし怒るものは.
かつての祖国にも在ったもの
おいらの国では歴史のなかに畳みこまれてしまったものが
この国じゃ
これから闘われるものとして
渦まいているんだな

これは、記録には書かれていたのかもしれないが、本当にりゅうりぇんれんが語ったのだろうか。文字を知らない劉連仁に代わって、話を聞き書きしたのは上海の『新民晩報』の記者・欧陽文杉であった。欧陽は、当然ながら、その記録を中国共産党の公式見解の立場から書いただろう。それ以外に、当時の中国で出版は不可能だった。聞き書き自体の中に、すでに事実か否かの問題がはらんでいる。

茨木は、こうした問題を十分には自覚できていなかったようだ。もちろん、この詩の書かれた1960年代の前半いあって、多くの日本の知識人にとって、中国共産党を疑うことは難しかったろう。しかし、それは茨木の弱さだし、この詩の弱さでもあるだろう。

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? 詩における事実と想像

以上の考察を踏まえて、詩(叙事詩)における事実と想像の関係を考えよう。

?  文学表現は対象と著者が一体になることを求めるが、その「一体」とは溶け合って両者の区別がなくなってしまうことではない。それが深まると、対象が対象としてしっかり立ち現れ、他方で自己が自己としてそれに向き合うことになる。「一体」になることを媒介として、対象理解と自己理解が深まっていくのだ。
?  文学では想像や幻視が大きな役割を果たすが、それがすぐれた表現であるならば、それは、事実にあくまでも即したものであり、事実に即しながら、その人物になりきった時に、あくまでも著者の立場から、自らの想いがほとばしったものなのだ。それが生まれた時に、それは成功と言えるのだろう。事実にとどまっているだけでは不十分で、どうしても飛躍が必要だ。
これは、実は論文でも同じである。事実や経験を重視する人々の中には、そのレベルに固執する傾向があるが、それは間違いである。そうした経験至上主義からは、人々の相互理解が進まないだろう。事実レベルを超えることには問題はない。それを的確に意味づける表現になっているかどうか、それだけが問題なのだ。茨木はそれを「体験の組織化」と呼んでいる。
?  茨木もそうしているが、こうした大きな社会問題をテーマとしている場合、また日本人が日本の戦時中の政策の批判を行っているような場合、第3者に語らせるだけでは弱いし、どうしても語れない部分が残るだろう。そうした場合は、書き手の思いを直接に出せる場が必要だ。普通はそれはラストに書かれるだろう。それが詩の内部か、外部かはどちらでも良いだろう。茨木もラストに青年の形を借りて、それを行っている。

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? 聞き書きの文体をどう指導すべきか

では、聞き書きの文体の問題にもどる。そもそもの問題は以下の2つだった。

?相手の意見と、自分の意見の区別が曖昧になるのではないか
  相手との一体化は、自他の区別を曖昧にし、相違や対立を曖昧にしないか。
  書き手の自分自身の思いや考えをどう表現するか。

?生徒に求めるべきは、事実か想像か
文学的に創作的な表現には、対象との一体化、相手への感情移入による理解が進む面があるが、事実の押さえが弱くなり、勝手な思いこみがはびこることはないか。

先に、詩、文学一般について考えたが、ここでは、中学生や高校生の聞き書きを指導する場合を考えよう。

第1の問いにはすでに答えている。文学表現のめざす「一体」とは溶け合って両者の区別がなくなってしまうことではない。それが深まると対象が対象としてしっかり立ち現れ、自己が自己としてそれに向き合うことになる。しかし、それが十分に達成できない場合は、この懸念は当たってしまうだろう。高校生にとっては、最初から自他を区別して書く方がはるかに簡単だろう。

第2の問いでは、「事実か空想か」という問題のたて方がすでに間違いである。「事実から一般的意見に」と「事実から小説や詩に」の両方向が存在し、それは役割が違うだけなのだ。

しかし、いずれにしても、事実をそのまま事実として示す段階が先行、または並行し、それが重要であることは変わらない。その事実が知られていない場合、また聞き手がその事実を知らなかった場合、それは決定的に重要である。インタビューそのもの、報告文や記録文、観察文などは、それに当たるだろう。

「事実(経験)のままに留まれ」は間違いだ。事実をただ羅列しても、その意味が見えるわけではない。その事実を自分のものにするには、そこから自分の思想を作るには、それを自分の言葉で表現しなければならない。事実を並べることでも表面に現れてはいるが、その意味を本当に自分のものにするには、その事実の自分にとっての意味を、ルポや評論で一般的に表現するか、文学的表現で具体的象徴として表現するしかない。いずれも、茨木の言う「体験の組織化」である。

文体の違いでは、?個別的で具体的な事実をそのままに語る段階か、?個別的な具体的な事実を、抽象的で一般的で普遍的なものに変換するか、?個別的で具体的な事実を、これも一般的で象徴的な言葉で変換するかの違いだけなのだ。?と?では、それが成功しているかどうかだけが問題で、どちらかがすぐれているのかを比較することには意味がない。また、1つの文章は1つの文体だけから書かれるわけではない。この3種の内の2つ、または3つが組み合わされることもある。

またいずれの文体で書くにしても、ラストには、自分の考え、学んだことを自分の言葉で直接的に書かせるべきだ。詩形式の場合もそうすべきだ。詩の内部か、外部かはどちらでも良いだろう。茨木もそうしている。

                 ┏?事実を、抽象的で一般的で普遍的な形で書く
                         (ルポ、レポート)
 ?個別的で具体的な事実を書く →┫        
 (事実そのままを書く)     ┗?事実を具体的で象徴的な形で書く(文学的表現)

 以上を踏まえて、では聞き書きではどういう文体で書かせるかという問いに答えよう。中学生や高校生の聞き書きの文体としては、やはり先ずは?に取り組ませるべきだろう。そして、私のように、高校生(大学生も)に自分の問題意識を作る、問いをはっきりさせることを目的とするなら、次いで?が中心になるだろう。?は、題材や聞き手と話し手との関係の中で、創作的な手法が大きな役割を果たす場合に、またはその場面で使用されるのが妥当だろう。しかし、そうした区別と選択が可能になるためには、それらを一応全て学んでおく必要がある。そのために、?で書く練習が必要だし、有効だろう。

 この文体の使い分けを、より具体的に考えるためには、構成の問題も合わせて考えねばならない。

「聞き書き」の構成は、(1)当初の問題、(2)取材・調査そのもの、(3)問題への一応の答え。この3つの構成がモデルとなろう。
そして、肝心の(2)だが、その内部ではa)背景となる社会問題やその取材相手の経歴など、b)インタビューの中身、c)インタビューで、自分が思ったことや考えたことがあるだろう。

こう整理すれば、それに対応する文体のモデルも想定しやすい。(1)と(3)は?と?の文体、(2)のa)は?となる。b) c)は普通は?と?になるだろう。ここで、b)に?の文体を使用する場合は、c)をどこで保証するのか、構成の問題として考えるべきだろう。(2)の終わりか、(3)の中にc)を独立してもうけるべきだが、そこはまた?と?になるだろう。

(茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」は、現代詩文庫20『茨木のり子詩集』思潮社に収録されていて、今も簡単に入手できる。)

1月 19

『学校マネジメント』(明治図書)2月号に寄稿した。
2月号では特集「政権交代で、教育政策は何が変わるか」が掲載されている。
私は「教育委員会制度」について執筆した。
タイトルは「国民的な大議論を」で、以下である。

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政権交代の時代
 政権交代が実現した。民主党を中心とする連立政権は、官僚に依存しない政治主導を掲げ、マニフェスト(政権公約)の実現に全力であたっている。来年度から高校の授業料を無償化し、教員免許更新制を来年度限りで廃止する予定だ。また、教育委員会制度や学校運営のあり方も検討対象に挙がっている。もちろん、教育行政の改革は最後に回るので、この政権が最初の二年を持ちこたえられなければ実現することはないだろう。今の民主党政権もいつ倒れるかは不明だ。元に戻ることを願い、様子見に徹している人も多い。しかし、自民党政権時代に戻ることはない。これからは、政権交代が前提で、すべてが動いていくことになるのだ。こうした大きな転換期には、従来のあり方に囚われず、問題を直視し、本質的に議論して克服する方向をさぐるべきだろう。

マニフェストの問題
 これまでの日本社会は、基本的には上下下達の一律で単一な「ムラ」社会だった。それが有効に機能して高度経済成長が可能だった。確かに東西冷戦下では、その言論は二分されたが、それぞれの陣営内部では、画一化のタコツボ化は進んでいた。では、冷戦体制が崩壊後、マスコミや思想界、私たちの社会は多様な豊かさを持つに到っただろうか。否、むしろ、マスコミや世間の動向は、いつも一色に染め上げられるようになっている。小泉政権への対応もそうだった。今の民主党政権に対しても、同様だ。

 総選挙での報道では、マニフェストのあり方を根本から問題にするような意見はほとんど見られなかった。その意義は、それまでの一般的抽象的で無内容な標語を排し、現実の具体的な政策を、具体的なスケジュールと共に語るようになり、その達成度がチェックできるようになったことだ。しかし、それゆえの大きな課題もあるのだ。それは、根本理念が見えにくく、本来「手段」でしかないものが「目的」化しやすいことだ。「戦術論」ばかりになり、「本質論」が軽視されやすいことだ。今回の場合は「高校の授業料無償化」がそうで、一般的に格差是正の目的からこうした政策が出てくるのはわかるが、「高校教育」には日本の教育全体の矛盾が集約されていることへの洞察がない。教育行政全般の改革でもそうだ。

教育行政の改革
 民主党のマニフェストでは、地方分権の考え方のもと、特に文科省→教育委員会→学校という上意下達の仕組みを改め、それぞれの自律性を拡大しようとするねらいがある。「中央教育委員会」をつくって文科省を廃止する。教育委員会の教育行政機能は首長部局に移し、「教育行政全体を厳格に監視する『教育監査委員会』を設置する」。さらに「公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する『学校理事会』が運営することにより、保護者と学枚と地域の信頼開係を深める」。「教育監査委員会」は、教育が首長や政治からの距離を取れるようにとの意図から構想されている。

 私は、改革の大きな方向性はこれで正しいし、現状の課題に対応した物だと評価する。しかし、これは大きな方向でしかなく、細部を詰めていく中で、沢山の複雑な問題が浮き彫りにされるだろう。例えば、歴史教科書の採択などで首長がどこまで関わることが正しいのか。

 実は、地域の教育委員会や学校が自律できないでいるのは、制度の問題ではない。例えば、全国学力テストは強制ではないのに、参加しないのが犬山市だけなのはなぜか。犬山市のように自主的なカリキュラムや自主教材を作成している市町村が少ないのはなぜか。実は、こうした地域の教委の改革を阻害しているのは、文科省ではなく県レベルの教育委員会であることが多い。

 こうした問題は、やはり歴史を遡らないと見えてこない。戦後の「第二の教育改革」では、そもそも文科省を廃止し、それぞれの地域に自律した教育委員会と学校を作ろうとした。また、政治から距離を置けるように、公選制の教育委員による合議的な委員会を想定したのだ。この上下関係からの自律性、政治からの独立性は、今こそ実現しなければならない目標だろう。

 それがつぶされたのは、東西冷戦下での、国内の保守と革新の政治対立だった。それゆえに、上意下達のシステムが強化され、各教育委員会と学校の自律性は失われた。地域の教育委員会や学校は上ばかりを見るようになり、県の教育委員会は「平等」の名の下に、県下の教委を一律に統制することを目標にしている。

国民的な大議論を
 それは教育委員会や学校だけの問題ではない。最大の課題は、国民一人一人の意識の問題だ。「お上だのみ」の体質であり、権利に対応する責任を引き受けないあり方だ。文科省の権限を縮小することを求める一方で、「いじめ自殺」などが起こると、マスコミやそれに煽られた世論は一斉に文科省を攻撃する。しかし、その責任は、第一に関係する児童とその保護者に、第二にその学校に、第三に地域の教育委員会にあるのではないのか。

 文科省に依存し、上から一律の指導を求めているのは、マスコミや国民自身ではないか。そうしたあり方を根本から変えなければならないだろう。今後は、改革も一律ではなく、各自治体や各学校が、それぞれの多様な制度で創意工夫することを認めていけないだろうか。「教育監査委員会」や「学校理事会」も、手を挙げたところで、まずやってみるような方式は取れないだろうか。

 いずれにしても、事は、半世紀に一度の大改革である。国民一人一人の意識の変化を促す必要がある。一九八〇年代に、中曽根政権が行った臨時教育審議会(臨教審)は、国民的な大論争を呼び起こした。それに匹敵するほどの国民的な議論が起こらなければならないだろう。来年度から、そうした場を設置して、国民的な議論を喚起していくような仕掛けが必要ではないか。