12月 16

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
以下の順で、掲載します。

1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
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◇◆ 言語学の連続学習会 ◆◇

今年の4月から、関口存男ドイツ語学に挑戦することにした。約1カ月の助走期間をおいてから、関口存男著『冠詞論』全3巻の通読を開始したのだ。
 きっかけの一つは、鶏鳴学園の同僚である松永奏吾さんの博士論文にある。彼は東大の大学院で日本語学(「国語学)という用語は使用しない)を学び、助詞ハの用法などを研究している。大学院に在籍してすでに10年近くがすぎ、現在博士論文に取り組んでいる。しかし、どうも壁にぶつかっていて、先の見えない濃霧の中で立ちすくんでいるように見える。それを側面から支援したいと考えた。関口ドイツ語学は、ドイツ語学だが、実はその裏側では、最高の日本語学である。
 そして、もう一つ、こちらの方が本筋だが、私自身が長いことヘーゲルをドイツ語で読んできて、そろそろ関口ドイツ語学にアタックするべきだと思うようになったのだ。
これまで関口さんの本は機会がある度に読んできたが、本格的に取り組むことをしないできた。その自信がなかったからだと言える。ヘーゲルもそうだが、関口さんのような屹立した高峰は、よくよくの装備を持っていどまなければ、弾き飛ばされ遭難する憂き目にあう。それは、ヘーゲルを読んで痛感しており、関口に挑みかかる覚悟を持てずにいた。
それが変わったのは、この数年で、少しヘーゲルが読めるようになってきたからだ。ヘーゲルの読み方が深まってきたと感じる今こそ、関口に挑戦するべき時なのではないか。
もう一つ理由がある。25年以上、現代国語の読解と作文の指導をしてきて、ここでも深まりを感じている。作文に関しては研究会を組織し、すでに10年以上も学んできたが、ここにきて、問題点がはっきり見えてきた。文とは何か、文体とは何か。文の種類は、大きく分ければ、描写と説明の2つではないか。その発展過程はどうなっているのか。これらの根源的な問いを問いとして自覚できるようになり、その問いへの一応の私案が用意できた。その当否を確かめたいし、より深めたい。しかし、こうした問いに挑戦している専門研究者はほとんどいない。
ここは、ヘーゲルと関口に頭を垂れて学ぶべきだろう。そこでヘーゲルの「判断論」と関口の『冠詞論』を読むことにして、今年の4月からその連続学習会を始めた。
これが松永さんのハの研究とどう関係するか。日本語の助詞ハとガの違いは、判断や命題の本質、主語と述語の関係と深く結び付いている。そして、西洋語での「冠詞」の機能は、日本語の「助詞」の役割にほぼ一致する。
そこで、一方ではヘーゲルの「判断論」を読みながら、他方で言語学の連続学習会を組織してきた。それは以下のように進められてきた。

1.大野晋『日本語の文法を考える』岩波新書
 2.尾上圭介「主語と述語をめぐる文法」(『朝倉日本語講座 第6巻 文法II』に収録) 
 3.牧野紀之『関口ドイツ語学の研究』
 4.関口存男『冠詞論』全3巻

この内の1は一般書で、平易に日本語の本質的な諸問題をまとめている。そこで連続学習会の入り口として最適と判断した。
大野は70年代、80年代の日本語ブームの火付け人。『日本語の文法を考える』は大いに売れ、編者の一人だった岩波の『古語辞典』も大きな反響をよんだ。『日本語の世界』シリーズも売れた。最近でも『日本語練習帳』は200万部近い大ベストセラーになった。『係り結びの研究』で読売文学賞受賞。『光る源氏の物語』など作家の丸谷才一との共著は多い。大岡信や井上ひさしら文学者との親交も多い。これほど、啓蒙活動に貢献した学者はいないだろう。
しかしアカデミズムからの激しい批判にもさらされた。タミル語が日本語の起源だとする日本語起源論はほぼ黙殺。倒置説である『係り結びの研究』では読売文学賞を受賞したが、これもアカデミズムからは強く批判されている。

2は現在の日本語学のトップレベルの研究を知るために取り上げた。「主語と述語をめぐる文法」は、日本語の主語と述語論、そこから助詞ハとガの違いにもまとめている。
尾上は現在の日本語学におけるアカデミズムを代表する一人。東大の教授で、専門は日本語文法論。文の成立に関わる原理的な問題を扱い、主語と述語などの、日本語の根本問題を考えられる少数の一人らしい。また、関西出身で、大阪ことばと文化、落語や笑いなどに関する著作もある(『大阪ことば学』 創元社 1999) 

3は関口ドイツ語学について書かれた、ほとんど唯一の本。これを、総論に当たる1章は丁寧に、他はざっと通読し、全体像を押さえてみた。それにしても、関口ドイツ語学について正面から論じた本が他にないのは酷いことだ。「敬して遠ざける」という極めて日本的なやり方だが、ここまで徹底した例は少ない。牧野紀之以外、誰一人としてこのエベレストに挑む人はいないのだ。よく似た例としては、ヘーゲル哲学研究の分野における、牧野への徹底的無視が思い浮かぶ。これが日本の研究者のレベルである。
関口 存男(せきぐち つぎお)は、このメルマガの読者のみなさんには縁遠いだろう。亡くなってすでに半世紀にもなる。しかし、すごい人だ。すさまじい人だ。ほぼ独学でドイツ語をものにし、全く独自の「意味形態論」という観点で、ドイツ語をはじめとする西欧諸言語の諸問題に解決案を出した。そしてその最高峰が『冠詞論』だ。彼はエベレストのように屹立する巨人だが、その巨人性は、他と比較して初めてハッキリ見えてくる。

上記の1?3を読むことを、関口ドイツ語学に入るための準備作業として、6月からいよいよ『冠詞論』を読み始めた。全体は『定冠詞』『不定冠詞』『無冠詞』の3巻から成るが、『不定冠詞』から読み始めて、いま、『不定冠詞』全体の半分ほどを読み終えたところだ。「述語論」が入っていたのが『不定冠詞』だったので、これから読み始めたのだが、不定冠詞には語学上の問題が集中しているようで、抜群に面白い。これほどの興奮、感動は、久しぶりだ。11月に読み終えたが、来年には『定冠詞』『無冠詞』を読み終えたいと思っている。
まだ、関口ドイツ語学のナカミそのものに言及する段階ではないが、日本語学の現状については思うことがあるので、それをまとめておきたい。そして、それに関連する限りで関口についても述べたい。
 
なお、ヘーゲル論理学の方は、判断論を小論理学と大論理学で8月に読み終え、10月から始めた推理論も12月に読み終えた。こちらについては、別にまとめる予定だ。

12月 11

独断論

ヘーゲルは小論理学の32節で「独断論」について述べている。

 「独断論」とは「有限な規定の本性によって、2つの対立する主張の内の一方が真で他方は偽でなければならないとする」考えと、本文にある。

 また、付録には、「一般には『あれかこれか』を厳しく考えるもの」「悟性の一面的な規定に固執し、それと対立するもう一方の規定を排除するような考え」「真理は全体的なものであり、独断論が切り離して真理だとし確固たるものだとした諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」とある。(以上、牧野紀之訳、鶏鳴出版から)

 さらに、牧野紀之は注釈で、次のように述べている。

 ヘーゲルの弁証法は「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」という考え。したがって、対立物の一方をすてて他方だけをとるやり方は、どんな根拠に基づいていても、真の根拠を示さないことであり、根拠を示さない主張、つまり独断論と言える。

 ヘーゲルの説明よりも、牧野の方がさらに一歩踏み込んでいると思う。さて、では、「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」とは、具体的にはどういうことか。

 親子や夫婦の関係で、その共依存関係を説明しているような本では、両者の共依存の関係がいかに大きな問題で、自分と相手の自立を妨げるか、といった説明が一般的だ。ここではすべての関係を自立と依存を2つにわけ、「自立か、依存か」の2者択一を迫っていると言える。これが「『あれかこれか』を厳しく考えるもの」「悟性の一面的な規定に固執し、それと対立するもう一方の規定を排除するような考え」である。

 拙著『大学法人化』でも、文科省と国立大学の関係を甘ったれ坊やと過保護ママとして批判したが、これも共依存の側面を強調したもので、悟性的な批判と言えよう。

 こうした説明はわかりやすく、ある側面をくっきりと浮き上がらせる効果がある。しかし、それだけでは一面的であり、大きな方向性を考えるには良いが、実践的にはあまり役に立たない。実践は、個々の具体的状況を踏まえなければならないからだ。

 では、「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」とか、「独断論が切り離して真理だとし確固たるものだとした諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」というのはどういうことだろうか。

 例えば、上の共依存を例にすれば、「自立(区別、バラバラの側面)」の根拠に「依存(支え合い、分かち合いの関係)」を求め、「依存」の根拠に「自立」を求めることだ。それはどういうことか。「良い自立」は「良い依存」に支えられ、「悪い依存」は「悪い自立」と一体のものであるということだ。人間関係は、すべてに依存と自立の両側面があり、それらは相互関係であって、切り離せない。したがって、問いは「自立か、依存か」ではない。問題を正確に現せば、「どのような自立が、どのような依存とつながっているか」なのだ。こうした相互関係を見抜き、どのような関係が、二人の成長発展を促進するか、妨げるかを問題にしなければならない。個々の具体的状況のもとで、こうした関係性を具体的に捉えない限り、実際の問題解決には役立たないだろう。

 そしてこれが「(「自立」と「依存」という)諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」ということだと思う。つまり、自立と依存の奥に、人間の成長や発展の運動を見抜き、そのための契機として両者の関係を見ていかなければならないのだ。
                              (2010年12月6日)

11月 22

12月18日の読書会(午後5時から7時まで)は
『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)で
今年、ゼミの学習で出てきた思想の概略を確認します。

古代
アリストテレス 第1編 第6章(74から87ページ)
ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90から102ページ)

中世
アンセルムス 第2編 第1章(133から136ページ)

近世
デカルト 第1編 第3章(165から174ページ)
スピノザ 第1編 第4章(175から184ページ)

以上を取り上げます。

全体で50ページ弱です

本は購入することを奨めます。
今後、哲学史は私たちの前提になります。

なお
初めての参加者には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。

 1. 簡単な履歴(年齢、大学・学部、仕事など)
 2. 何を学びたいのか
 3. どのようにこの学習会を知ったのか、なぜこの学習会で学びたいのか
 
などを書いて、以下にお送り下さい。

E-mail:
  sogo-m@mx5.nisiq.net

10月 01

夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
 参加した内から3人の感想を掲載します。

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◇◆ 必然的な展開を示すことの凄さ E ◆◇

 今回のヘーゲルの合宿では、前半に『大論理学』の判断論を読み、
後半は『精神現象学』の自己意識の部分を読んだが、
どちらかというと印象に残ったのは前半の判断論の方だった。

 例えば、質の判断で「このバラは赤い」、「このバラは赤くない」、
(赤ではなく)「このバラは青い」という肯定判断と否定判断を
無限に繰り返すうちに、「バラは色をもつ」という普遍にたどり着く。
そこから次の反省の判断、「この植物は?である」、「いくつかの植物は?である」、
「すべての金属は?である」へと移るのだが、質の判断の肯定と否定の繰り返しが、
実は既に反省の判断にもなっていた。つまり、反省の判断の主語、
「この?」、「いくつかの?」、「すべての?」は、前の質の判断で
個別のバラを比較した時に、事実上出ていたものだった。
ただ、質の判断では述語(「赤い」、「赤くない」など)に注目し
主語はいったん脇に置いていたので、反省の判断では主語に注目して
「この?」、「いくつかの?」、「すべての?」ともってきた。

 こういう展開を読んで、それが普段の生活の場面とどう関わるのかと
聞かれると即答できないが、しかし何かを「考える」ということは
こういうことではないかと思った。「こういうこと」というのは、
普段人々が無意識に使っている無数の言葉や考え方、言い方を
目の前にした時、一見それらは無秩序にただ並んで存在するようだが、
自分の力で相互の関係の必然性を見つけて段階的につなげていく、
ということである。しかもその時に、「このバラは赤い」などという
一番平凡で低い段階から始めながら、その中に、次のより高いレベルの
判断が内在しているように並べている。

 こういう展開を、カントをはじめとする先行研究から学びながらとはいえ、
ヘーゲルが自分の力で考えて示していることに、途方もない凄さを感じてしまう。
自分が読む側にあり、しかも自分ではわからない多くの部分を中井さんの解説を
聞きながら読んでいると、まるで最初からこの展開が出来上がったものとして
あるように錯覚してしまうが、これを自説として作り出していることの凄さを
改めて感じた。

 合宿の全体については、今年3回目を迎えて、年々良くなってきていると思う。
施設などの生活面以外に、特に報告の時間が前回より充実していて、
各自にとって今一番重要な問題を、当事者に限らず全体で丁寧に
考えられるような時間になっていた。そうなったのは、合宿ということで
ゆとりを持って報告の時間をとれたこともあるだろうし、今まで5年間
報告の時間をやり続けてきた成果が、合宿の場で表れたということもあると思う。

 【中井からのコメント】

 Eさんが触れていないことで、私が面白いと思う点がある。
ヘーゲルは「判断」を、認識の運動の前に、まずは対象の運動として
とらえている。バラが赤かったり、青かったり、白かったりするのは、
バラ自身が判断をしているのだ。すべての事物はそのように自己を判断し、
自らを現している。それゆえに、私たちがそれを認識できる。
ヘーゲルは、この原則をすべての場面で、すべての対象に適応していく。

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9月 26

夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
 参加した内から3人の感想を掲載します。
 
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◇◆ 長い長い思春期 K ◆◇

 精神現象学は、人間の成長段階に合わせて、時間的順序に則って
叙述したものであるという。そして、今回の合宿では自己意識、
すなわち自我の目覚めと思春期が範囲であった。だとするならば、
現代においては、思春期とは十代のごく一時期を意味するものではなく、
十代から二十代にかけての二十年間、まさに一世代にも及ぶものではないだろうか。

 自己意識は、人類や絶対的存在を意識し、絶対的否定を経ることで
芽生えるというが、自分の経験を振り返ってみるに、それは、二十歳を過ぎて、
鶏鳴学園に通うようになってからのことであった。夏目漱石を通じて
人間のエゴイズムに圧倒され、途端に、それまでの自分の人生が、
どうしようもなくみすぼらしいものであるように思うこととなった。

 そうして、初めて、人間(自分)が生きることとは何かを問い、
人間(自分)とは何かを問うようになった。無論、それまでも問いかけてはいた。
だが、まともに考えていたとは言えないし、問いかけ方も個々別々の
経験の範疇を出るものではなく、拒絶感もその場限りであったし、
何より普遍性がなかった。やはり、ヘーゲルの言うとおり、
圧倒的存在に触れることは不可欠なのだと思う。しかし、一足飛びに
そこまで到達するものではなく、一定以上の経験を積んだ上でなければ、
何も反応できないのではないかとも思う。

 なお、こうした問いに対し、本腰を入れて考えるようになってから
五年が経過したが、未だにその答えは出ていない。あと二年で
華ある二十代も終わり、三十路を迎えてしまう。だが、その答えの芽は
出ているように感じているし、その手応えもある。行き詰るたびに
圧倒的存在に当たり、都度、打ちのめされ、しかしそこに希望を感じながら
成長していく。これしかないし、それがすべてだと思う。そして、鶏鳴学園という
目的を同じくする仲間たちとの研鑽の場があることを、幸せなことだと思う。

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