9月 25

夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
 8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
 一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
 合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。

 参加した内から3人の感想を掲載します。
 
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◇◆ 報告することの意味 M ◆◇

 今回の合宿は後半の精神現象学の講読から参加した。
自己意識が今回の範囲だったが、内容は正直それほど興奮するものではなかった。
ヘーゲルに関する知識を得て、お勉強をしたと言う感じで、
自分の身につまされて、背筋がピンと張るという瞬間があまりなかった。
それは自己意識が範囲といってもまだ始めの段階で、自己意識のあり方が、
まだどこか受動的な段階についての記述であったからだと思う。
次の範囲を早く読みたいと感じたのが正直な感想だ。

 各自の報告の時間は印象深かった。うまく言えないが、各自が報告をし、
それについてそれぞれが意見を言う。これまで5年間続けてきたことだが、
このことにどんな意味、効果があるのかと深く考えたことはなかった。
今回初めて、一体何が起こっているのだろうかと考えた。

 一番大事なのは、報告するその人が一番自分にとってその時
切実な事について正直に書くこと。この切実な事というのは、
書いた本人にとってこれでいいのだろうか、これは間違ったことを
書いているのではないか、自分の考えはおかしいのでは、と自分でも
自分の書いたことを認められず、消化出来ないことが多い。

 そして、第二にこのように切実な事について書いた文章を
みんなに読んでもらい、一通りの意見を聞く。その意見が
自分の切実な問題についての意見であろうが、全く見当はずれの意見であろうが、
あまり関係ない。自分は言いたいことを書いた、言った。
この人は一応読んでくれた、聞いてくれた。この時点で、ある程度の目的は
達成されるように思う。

 目的というのは自己理解を押し進めるということだが。
自分の感覚では、最初に自分の報告を話すときは何かおかしなことを
書いたのではないか、実はこんなことを全く自分は考えてないのではないかと
ドキドキしながら、みんなの意見を聞いていき、それが一通り終わると、
自分がそのことを考えているということを自他ともに認められるということで、
落ち着く。

 そして、第三に中井さんの意見を中心にその問題について、
どういうことか、どういうことをしていけばいいのかを考えられ、
一歩ずつ進んでいく。

 今回初めて感じたのが、人に聞いてもらうこと、人に自分の問題を
聞いてもらい、認めてもらうことの重要性である。この段階で初めて
自分でもそのことを自分のものとして認められ、位置付けようと
することが出来る。この段階が無いと自分で文章を書いても、
それを自分で消化できない。

 ヘーゲルの講読でも他人の承認というテーマが出ていたが、
このことの重要性を感じ、またどんなテーマでもまず受け入れてくれる
鶏鳴学園という場は貴重だと感じた。まず受け入れてくれないとその時点で
パニックに陥ると思う。そういうきわどさも今回初めて考えた。

 【中井からのコメント】

 M君が提起したのは大切な問題だと思う。
「どんなテーマでもまず受け入れられる」条件が問われているのだと思うが、
それは何か。第1に「先生」の実力であり、第2に師弟関係、
第3に弟子同士の関係における信頼度。別の視点から言えば、
師弟のすべてが、真理の前に謙虚であることが必要だろう。

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9月 20

 今年も夏の合宿を行いました。
 8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
 一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
 合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。

 今回のメニューは、ヘーゲル『大論理学』(寺沢恒信訳、以文社)の
 「判断論」(「必然性の判断」のみ原書)、『精神現象学』
 (牧野紀之訳注、未知谷)の「自己意識論」を読みました。
 晩は「文章ゼミ」と、各自の報告会もおこないました。

 私以外に8人の方が参加しました。大学生4人、社会人4人です。
 「なぜ合宿をするのか」という私の文章と
参加した内から3人の感想を掲載します。
 ヘーゲル哲学について私が学んだことは、別にまとめます。

 ちなみに、来年は8月18日から21日(3泊4日)を予定しています。
 
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◇◆ なぜ合宿をするのか 中井浩一 ◆◇

 参加者から、「なぜ合宿をするのか」という問いが出された。
「参加者ではなく、主催者(中井)にとっての意味は何か」という問いかけだった。

 「私自身がヘーゲル哲学を学ぶため」。それが回答。

 「それなら、一人でやれば良いのではないか」。

 それがダメなんです。どうしても、私の話しを
聞いてくれる人が必要なんですね。それも真剣に全身で
受け止めてくれる人に向かって話すことが必要だ。
それでこそ、私の学習が前進できる。そういう人を確保することが、
5年前から始めた「師弟契約」で可能になった。「先生を選べ」の原則で選び、
選ばれた関係が、これを保障する。こうした条件下では、
「教えること」は「学ぶこと」そのものになる。

 ゼミの参加者の中には、興味本位な人や、一時的な参加者や、
緊急避難的な人もいてよい。しかし、そうした人を受け入れても
「壊れない」ためには、しっかりした基礎が必要で、
それはきちんとした師弟関係だと思う。

 これが、「中井にとって師弟関係の必要な意味とは何か」への回答になる。

 「しかし、それは普段からゼミでやっていることで、
 なぜわざわざ『合宿』をしなければならないのか」。

 「効果」が違うんですね。この3泊4日で朝から晩まで
ヘーゲルを読むことで、自分を追い込む。そのことで、普段より集中し、
一つ上のレベルの気づきや発見をすることができる。

 ヘーゲルの『精神現象学』の「自己意識論」で、人間の相互「承認」の
重要さが言われていたが、私にとっては、このメンバーたちにこそ
「承認」してもらいたいのだ。この人たちにこそ、ヘーゲルの
「凄み」を見せつけたい。見せつけられる自分でありたい。

 そのようにして、3年間自分を追い込んでやってきた。
実際に、この3年間の自分の成長を実感できる。
ヘーゲル哲学の理解は確実に深まっている。
他方、師弟契約をしている人も、ゼミの参加者も、
それぞれのペースで成長してきたと思う。
この5年間は間違いではなかった。

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2月 11

 ヘーゲル哲学学習会では、『精神現象学』の序文に出てきた「存在の運動と認識の運動の一致」を確認するために、「ヘーゲルの弟子」を自称しているマルクスの『経済学批判』『資本論』を読んでいます。

 その中で考えたこと、気づいたことがいくつかあります。その中から、2点をまとめました。
 「人はいかにして自立できるか ーマルクスの「思想的履歴書」ー」は『経済学批判』の「序言」について。
 「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」は、「経済学批判序説」の有名な「経済学の方法」。その中の「自己批判と他者批判の統一」という有名な主張から考えました。

 「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」で今回問題提起したのは、実に大きな問題だと思っています。

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◇◆ ヘーゲル哲学は本当に「観念論」だろうか ◆◇

 マルクス、エンゲルスは自らの立場を唯物弁証法、唯物史観とし、ヘーゲル哲学を「観念論的」弁証法だとして批判した。ヘーゲルの弁証法は哲学史上の最大、最高の遺産だが、それは観念論であり、「逆立ち」しているのでそれを唯物論の立場からひっくり返したのが唯物弁証法だというのだ。
 しかし、このまとめは大きな間違いだったと思う。政治パンフレットのわかりやすさとしては良いが、そのわかりやすさとは、いかにも悟性的であり、他を一面的に切り捨て、発展的な理解、つまり弁証法からかけはなれたものだったからだ。
 本来は、悟性の意義と同時にその限界を指摘し、仲間の人々には悟性を克服する学習運動をうながさなければならないはずが、その逆になってしまった。
 「空想的」社会主義者に「科学的」社会主義を対置し、上部構造に下部構造を対置し、宗教に科学を対置し、両者を単純な対立関係とし、前者を切って捨てた。その結果、仲間や支持者の間に「観念」や「理想」や「夢」への蔑視、軽視の傾向を生んでしまった。

 ヘーゲルはすでに「存在が意識を規定する」ことを明らかにしていた。それは彼の論理学が客観的論理(存在論と本質論)から主体的論理(概念論)がでてくることに端的に示されている。また、彼の哲学史、歴史哲学、法哲学などでも、このことは確認できると思う。ただし、ヘーゲルにあっては、この規定を精神史一般、人類史一般、民族一般の運動として考察していた。
 これは「存在」の意味が抽象的で一般的なままにとどまっていたと言える。これを具体化、現実化したのが、マルクスの唯物史観である。つまり、「社会的存在が社会的意識を規定する」とし、それを経済と政治の関係としてとらえ、下部構造が上部構造を規定するとしたのである。これはヘーゲルの抽象的普遍を、一層発展させ、より具体化、現実化、個別化したのである。(以上は牧野紀之「価値判断は主観的か」による)

 この時、マルクスは、自分が乗り越えたヘーゲルをどう批判し、どう評価するのが正しかっただろうか。
 実際にマルクスが行ったことは、ヘーゲルを「観念論」だとし、「逆立ちしている」と批判することだった。これは、どこまで正しい批判だっただろうか。ただし、ここでの「正しさ」とはマルクスが到達した発展段階、唯物史観の立場からのものを言う。

 ヘーゲルは確かに唯物史観には到達できなかった。そのことを指摘し、それを批判することは正しい。しかし、それをヘーゲルの「観念論」の責任にするのが正しかっただろうか。もちろんヘーゲルの叙述の中に、精神至上主義的な個所は多数指摘できる。しかし、同時に、かれが経済発展とその矛盾故の市場拡大の動き、経済を反映した法関係といった理解を示している個所を挙げることも簡単なことなのだ(『法の哲学』を参照)。
 ヘーゲルにあっては、唯物史観で言うところの上部と下部への分裂が明確に意識されていなかったと言える。しかし、それを持って「観念論」と批判するのは妥当だろうか。ヘーゲルは「精神」という言葉で、市民社会も、その経済活動も含めていた。上部と下部の区別がなく、混在していたのがヘーゲル哲学であり、彼の時代ではなかったか。

 マルクスのヘーゲル批判が、「観念論」という言葉の不適切な拡大だというだけではない。この批判の仕方には、もっとずっと根本的な問題が含まれている。マルクスが、唯物史観の立場から唯物史観で唯物史観をとらえるという「自己批判」をしていることは有名である(『哲学の貧困』第2部第1章第7の考察)。
 また「経済学の方法」(『経済学批判序説』第3)ではそうした「自己批判」なしの「他者批判」では一面的な考察しかできないと述べ、事実上「自己批判と他者批判の統一」を主張している。
 これらは画期的な観点であり、自らが他と群を抜いて高い立場にあることを示すものだった。しかし、マルクスにも、実際にはそれはできていなかったのではないか。それがヘーゲルへの「観念論」だという批判の仕方に現れていないか。

 マルクスは、ヘーゲルを観念論として批判するのではなく、ヘーゲルが唯物史観には到達できず、その思想を具体化できなかったと、批判するのが正しかった。
 マルクスは、ヘーゲルの不十分さの理由を、ヘーゲルの「観念論」のせいにする(それこそが観念論的ではないか)のではなく、社会的、経済的発展段階の問題として考察すべきではなかったか(これが唯物史観だろう)。
 つまり、ヘーゲルがそこに至らなかったのは、当時の発展段階がそこまで到達していなかったからだし、マルクスがそれを把握できたのも、彼の時代が、ドイツで資本主義が大きく発展し、大土地所有者とブルジョワジーの対立が激化した時期だったからに他ならない。こうした理解が、発展的理解(「自己批判と他者批判の統一」)と言うものだろう。

 マルクスは、本来はこう言うべきだった。 

 「ヘーゲルは発展的な理解を明らかにするという巨大な仕事をした。それは近代市民社会の生成という時代を反映している。しかし、当時のドイツは資本主義の未発達な段階だったために、『存在が意識を規定する』というヘーゲルの定式は個人の、または歴史一般のレベルにとどまっていた。
 しかし、ドイツでも近年急速に土地所有階級が没落し、資本家が成長し、資本主義を論理的に考察できる段階になった。それゆえに、ヘーゲルの限界を超えて、『存在が意識を規定する』という定式を、個人から社会全体に押し広げ、または歴史一般、民族史一般から具体化し、『社会的存在が社会的意識を規定する』と定式化できた。それが、私(マルクス)の唯物史観である。
 しかし、ヘーゲルがそうであったように、私の考え『唯物史観』も時代の制約下にあり、その不十分な点は、次の時代の後継者に乗り超えてもらうことを期待する。そのためには、ヘーゲル哲学を徹底的に学び、その発展として私の唯物史観を理解し、その上で唯物史観をさらに発展させてほしい」。

 ところが、マルクスはこう言うことができず、ヘーゲルを「観念論」だと切り捨ててしまった。それはマルクス自身の思想を「一面的」なものにした。これは大きな間違いだっただろう。これによって、彼の支持者たちが、ヘーゲルの弁証法、発展の考え方を継承することを難しくしてしまったからだ。
 マルクスとエンゲルスは、「科学的」「唯物史観」「唯物弁証法」の立場を口にはしたが、実際にはそれを貫けず、他を「空想的」「観念論」などと切り捨てる一面性に陥った。そのために、彼らは、理想、夢、空想などを一般的にいけないもの、否定すべきものとし、その結果、夢や理想主義を馬鹿にする傾向、語れない傾向を生み、それらを語る他派や宗教者を理解する力を失った。マルクス自身、結局、夢の世界像を示せなくなった。
 こうした批判の一面性、傲慢さが、宗教批判、国家批判にも出ているのではないか。

 ところで、私が以上のことを言えるのは、今現在が高度経済成長が終わり、社会主義が破綻し東西冷戦が終わったという、かつてない未知の段階に到達しているからなのである。
(2010・1・26)

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2月 11

◇◆ 人はいかにして自立できるか ーマルクスの「思想的履歴書」ー ◆◇

 『経済学批判』の「序言」を読み、これはマルクスの「思想的履歴書」だと思った。
 人間はいかにして自立できるのか、つまりいかにして自分の思想を作り、それを生きることができるのか。その「問い」への見事な回答になっている。

 回答はこうだ。まずは、1自分の生活から問題意識(テーマ)を持ち、2その問題を解決する観点から先生を選び、先生から徹底的に学び、3最初の問いへの答え(自分の思想、自分の立場)を出す。
 これが思想の生成過程。しかし、この段階では、まだそれは芽でしかない。その後、その答え(自分の思想、自分の立場)を様々な課題に応用して具体化していく。これが展開過程。このようにして人は自分を作ることができる。これはヘーゲルの発展の論理を、個人の成長過程に具体化したものだ。

 「序言」は以下の構成になっている。
1) 導入部
2)問いが明確になるまで
3)先生を選び学んだこと
4)問いの答え(唯物史観)を出したこと
5)答え(唯物史観)の詳しい説明
6)一応の答えを出してから、さらに研究を進めて『経済学批判』を出すまで

 2)が1問題意識(テーマ)を持つ過程。問題とは、法律の問題と経済の関係はいかなるものか。当時の社会主義、共産主義をどう理解したらよいか。
 3)が2その問題を解決する観点から先生を選び、先生から徹底的に学んだ過程。
 4)が3最初の問いへの答え(自分の思想、自分の立場)を出したこと。
 5)で、定式化された唯物史観、完成された唯物史観の説明をしている。しかし、時間的には、完成は後のことであろう。最初に生まれたのは、唯物史観の芽でしかない。それをその後、さまざまなライバルたち、論敵に適応して論争し論破する6)の過程で具体化していったものだろう。
 2)から4)が思想の生成過程であり、6)が展開過程に当たる。

 こう見てくると、この序言は、思想を持って生きる上での模範的な過程ではないだろうか。ただ、マルクス自身はそれを自覚していなかったようだ。
 3)では、ヘーゲルを先生にして学んでいるが、この意味をマルクスは語らない。なぜヘーゲルだったのか。それが過去の最高のレベルのものだからだろう。ここで先生を選ぶことの意味、この過程こそが「発展の論理」の具体化だということを指摘できなかったのは、残念なことだ。
 マルクスにそれができなかった理由の一端は「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」に述べたことにあると思う。
 マルクスは、人が自立するための問題と回答を、自らの経験から語りながら、その意味を十分に自覚できず、それを一般化して定式化し、人々に示すことができなかった。本当は「自分を見習って、みなさんも学び、生きるように」提案するべきだった。特に共産党員には、その幹部には、それを強く求めるべきだったし、直接の指導をすべきだっただろう。

 マルクスに代わり、この意味を明らかにしたのが牧野紀之の「先生を選べ」である。
(2010・2・2)

8月 27

8月6日から9日まで、3泊4日のヘーゲル学習会の合宿が行われた。参加者は私以外に6人(4日間を通しては3人)。男4人、女2人。学生4人、社会人2人だった。昨年と同じ人数だが、今どき、ヘーゲルを読むために、これだけの人間が集まってくれることは、ありがたいことだ。

昨年についで今年が2回目。4日間、とにかくヘーゲルを読み続ける。これだけ集中して朝から晩までヘーゲルを読んでいると、ヘーゲルが乗り移ったような状態になる瞬間がある。その時には、ヘーゲルが憑依して、ヘーゲルが語っているような気になる。
それは、私が私自身を追い込んだ結果でもある。私にとっては、この参加メンバーたちが本当に大切であり、彼らにヘーゲルの凄みを見せつけたいと切に願っている。

最初の2日間は『精神現象学』の原書講読で、「序言」から中ほどの10ぺージほどを読んだ。存在と思考の一致、存在の運動と認識の運動の統一について述べている範囲で、当然それを考えるのが目的だった。
この問題については、牧野紀之氏が「悟性的認識論と理性的認識論」で、わかりやすく説明している。だが、ヘーゲル自身がどう説明しているのか、それを直接読んで、そこから考えてみたかった。そして、その点で大きな収穫があった。

つまり、存在は、自から運動し、「存在」「質」といった規定を生む。それは、自分の持つ多様な性質から、こうした規定を抽象することを意味し、それは存在が認識をしていることに他ならない。(これらの例はすべて存在論のもの。牧野氏の例は、主に本質論からと言える)
つまり、ここでは抽象化、比較による規定の抽出をものが行っており、それは存在が認識をしていることに他ならない。つまり認識、思考とは、人間だけがするものではなく、最初から存在するすべてのものが、行っている。ただし、自己意識がないので、その意味が自覚できないが、人間はそれが自覚できることだけが他との違いなのだ。これには驚き、深く感動した。
(以上は、ズールカンプ社版全集第3巻の53ページ)

しかし、ヘーゲルの執拗なシェリング批判。罵詈雑言のオンパレードが続く箇所には辟易した。執念深い粘着質の在り方は、大物に不可欠の要素だが、ヘーゲルのそれは、ここでも群を抜いている。

後半2日は『精神現象学』の翻訳(牧野紀之訳、未知谷)で、第1部「意識」論(第1章から第3章)を読んだ。
4章の「自己意識」をどう導出するか。それを対象意識である「意識」論から、出している。そこが一番の関心だった。その意味は何か。そこから何を学べるのか。

3章は面白かったが、1章、特に2章の意味がよく理解できなかった。1章は存在論、2章と3章が本質論だと思うのだが、またその哲学史上の意味は一応わかるのだが、その個人の成長上の意味がよくわからなかったのだ。
3章では、現象と本質、現象と法則、説明で、対象・現象の外化と内化の無限の運動を出し、それを認識できるのは、認識する意識もまた、同じ無限の運動をしているからだと持ってくる。すると対象世界の無限は、無限であることで、意識にとっての自己に他ならず、それを認識する意識とは、自己を意識することに他ならない。そこで成立している存在と認識の一致、それが「自己意識」だ。

だから、それは、単に自己についての意識なのではない。無限として捉えられた対象世界を自己としてとらえた意識が「自己意識」で、対象意識を止揚して自己内に持っている。それが「自我」だ、ということになる。
ただし、ここに成立した自己意識自身には、まだその意味が自覚されていない。それが自覚される過程を通して、次の理性が成立する。

以上は、自我の中に、なぜ全世界が含まれているのかを考える際に、大きな意味を持つと思う。ただし、わからなかったのは、自己意識が含む「全世界」に、他者、他の意識のすべても含まれることが明示されていない点だ。「意識」論での対象に、他者の意識も含まれているのだろうか(自分の意識は常に問われている)。これは、2章の物と性質で、対象に人(他者)が含まれているのかどうか、それが不明なことと結びつく。

3日目の晩には参加者の近況報告、提出した文章の検討も行った。近況報告では、各自の今の課題、今後の取り組みなどを話し合った。
ゼミ参加から1年余りの大学生は、家族問題に悩んでいることがわかった。今、若者が自立するには、家族について、親子関係の在り方について、きちんと考えることが不可欠であることがよくわかる。秋から、この問題を考える機会を与える予定だ。

この合宿でヘーゲル哲学について考えたことは、秋以降に再検討の上、詳しく報告する。