7月 09

7月3日に、静岡県富士市の唯一の市立高校である、富士市立高校で講演をしま
した。

志望理由書、小論文を書く前の、生徒の課題意識を引き出す指導についての講演
でした。

ただし、国語科の先生方が対象ではなく、全教員が対象だったのが、この学校の
特色と関係します。

この高校は以前は商業高校だったのですが、生徒募集も難しくなり、学校改革に
着手し、平成23年度入学生より学科改編を行いました。2013年度で3年
目、初めての卒業生を送り出します。

 地域に結び付いた学校、生徒の進路・進学の夢実現に、全教員が一丸となって
取り組む学校が、その理念です。

前身が商業科の高校で、就職する生徒が大勢を占めていたため、富士市立高校と
して初めての卒業生を送り出す山場の3年目を迎え、進学を目指す3年生へのサ
ポート体制が十分でないことが、課題だったようです。

推薦入試、AO入試などを活用して進学を考える生徒の割合が高いようですが、学
校の組織として、小論文、志望理由書、面接などへの対応の積み重ねがないこと
が、先生方にとっての不安になっていたようです。

また、これまで実施してきた小論文等の文章指導を通して、小論文の型にはめる
ような指導では、生徒の課題意識を引き出すことが難しいことも、指導への不安
を大きくしていたとうかがいました。

そこで、私の登場になるのですが、
生徒の問題意識を育てるための現場取材から聞き書き、それから意見文
や小論文、志望理由書や面接に備える方法をお話しました。

「生徒の進路・進学の夢実現に、全教員が一丸となって取り組む」ことは理想で
すが、なかなか難しいのが現状です。理想を実現する方法と力を、先生たち自身
が生徒たちに見せつけてほしいと思います。先生方のご健闘を祈り、富士市立高
校の1期生たちの成果を期待しています。

7月 04

私は、高校作文教育研究会という高校段階の表現指導の研究会を組織しています。
 その夏の全国大会のご案内です。

日本作文の会の全国大会3日間の内の2日間を
高校分科会として
わが高校作文教育研究会が企画運営します。

今回はいつもと少し違います。

私は鶏鳴学園の表現指導の考え方をお話ししますが、
実際に鶏鳴学園で学んだ大学生が、鶏鳴学園の指導方法で自分に何が起こったの
かを語ります。

2つの報告がジャズのセッションのように響きあうとよいと思います。

会場が東京ですので、参加しやすい方が多いと思います。
是非、おいでください。

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第62回全国作文教育研究大会
(2013年埼玉・関東大会)

今夏の全国大会は8/3?5、さいたま市と板橋区で開催。

高校分科会は、8/4?5、東京都板橋区大東文化大学板橋校舎で開催。

 8/4の夜の懇親会では、国分一太郎研究家の田中定幸さんに、綴方教育の先駆者であり理論的指導者であった国分一太郎について語ってもらいます。
 
■期日・会場 
8月3日(土)      埼玉県さいたま市 埼玉会館
  8月4日(日)?5日(月)東京都板橋区 大東文化大学板橋校舎

■高校分科会 発表者名と報告の概要
※ 高校分科会は、8/4?8/5正午まで、2日間実施されます。
?僕を変えた「聞き書き」?鶏鳴で学んでみて?  東京 掛 泰輔(大学2年)
不登校だった僕の、約1年にわたる、鶏鳴で指導を受けた聞き書きの報告。僕の聞き書きの体験は、まず、高校を辞めたことを家族と話し合うことから始まった。次に、大学で何を学ぶのかが僕のテーマとなった。僕 は3.11の前から原子力発電 に関心があったので、原発関係の聞き書きを行った、その報告。

?高校生の成長と作文教育          東京 中井浩一(鶏鳴学園)
高校生の成長と作文教育の関係を考えてみたい。今の高校生の課題は何か。作文指導において、どこに、どういった高校生たちの成長への契機があるのだろうか。教師はそれをどうとらえ、どう理解していけばよいのだろうか。鶏鳴学園は私塾だが、そこでの経験から考えてきたことを、実際の生徒作品を交えながら報告したい。

?現代文における作文指導?聞き書きを中心にして? 
神奈川 冨田 明(有馬高校)
現代文は文章読解が中心になりますが、教材読解後に、可能な限り何らかの形で書かせるようにしています。また、長期休みには聞き書きや読書レポート等の課題を出しています。今回は1年または2年間の現代文(1年次は国語総合の現代文分野)の授業で取り組んだ作文の指導過程を整理して、各課題で生徒が書いた作品を紹介します。

?情動と綴ること              鹿児島 中俣勝義(専修学校)
 専門学生の文学や教育学の講義を通してのレポートや講義感想のなかで、たびたび感情ということばとぶつかることが多かった。今回の報告は学生たちが使う感情を情動の視点から整理し直し、改めて綴る意味を問うたものである。綴るとは情動を感情化して行く作業ではないか。かなり刺激的で意欲に富んだ提起である。参加して目が覚めます!

■大会の主な日程
8月3日(土)
10:00 開会
10:10 参加者のみなさんへ 常任委員長 松下義一
10:30 映画「かすかな光へ」(大田尭先生 あいさつ)
12:00 昼食 休憩
13:00 みんなに届け!東北・福島の声
太鼓集団「響」―魂の音探し― 秩父屋台囃子
13:30 共同討論
「子どもたちの表現は何をひらくのか?さまざまな困難の中で?」
15:00 記念講演 
      「子どものこころを育むこと?精神科医の視点から?」
                    精神科医 香山 リカ
16:45 閉会・連絡
17:00 世話人・発表者打ち合わせ
17:45 終了
 (18:30?20:00  会員総会)

8月4日(日)
9:00 分科会開始
16:30 終了

8月5日(月)
 9:00 分科会開始 ※高校分科会は1日半、行われます。
12:00 昼食・休憩
13:00 全体会
      特別講演
      「差別と戦争をなくすために?おしばいとおはなし?
       ―ふるえるような怒りの奥底に
               すがるような生命の願いがあった―
                     俳優 有馬 理恵
14:30 閉会集会
15:00 散会

■参加費 前売り5,000円(当日5,500円) 

4月 14

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。

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「ミクロの政治」と「マクロの政治」
(橋爪大三郎の『政治の教室』から)

多くの「政治学者」は、政治の現象面や制度を説明するだけだ。
橋爪大三郎の本テキストでは、そうした現象面からいったん離れて、
「政治」の本質を原理的に、しかも身近な日常生活と関連付けて説明している。
政治というムズカシく複雑な対象を、これだけわかりやすく原理的に説明できる人は少ないだろう。
さすがだと思う。

特に、人数の場合分けをして、「1人」では政治はなく、「2人」以上の集団にのみ政治が存在すること、
「2人」以上の集団でも「ミクロの政治」(誰もが日々おこなっている)と
「マクロの政治」(いわゆる狭義の「政治」)にわけ、
両者を関係づけて説明している。
こうした考察方法は、人数においてすべての場合を尽くしたもので、原理的・論理的である。

普通の人は「政治」を身近な日常生活からかけ離れたものとして理解しているから、
誰もが家庭や職場などで日々おこなっていることを「ミクロの政治」ととらえ、
それがいわゆる「政治」(マクロの政治)と地続きであることを示したことは重要だ。
こうした考察法と提示の仕方が、橋爪のすぐれた点だろう。

1つ疑問点をあげておく。「ミクロの政治」と「マクロの政治」の両者が関係づけて示されたことは重要なのだが、
その両者の関係は十分には示されていないと思う。
どちらの方が根源的なのか。両者はどのように相互に規定し合うのか。それぞれの特殊性と共通点は何か。

また橋爪は、1人の個人が「選択・決断」をするように、政治もある集団における選択・決断のことだと言う。
そして、政治にとって一番重要なことは「どんな現実をつくり出すのか」という意思と決断だとする。
その決断のために、誰かが選択肢を示す。それが政策だと言うのだ。

これはもっともだが、その「政策」とは現実社会の「問題」に対する「答え」(解決策)のことであり、
政策の是非を問うには、その解決策の当否の前に、それがそもそも現実のどこにどういう問題をとらえているのか、
その洞察の深さの吟味が必要なのではないか。

モーゼを評価する際も、「カナンへの脱出」という政策内容とともに、
彼が「ユダヤ人たちが奴隷として辛い目に遭っていた」ことをどのように問題としたのかを考えるべきだと思う。

それにしても、橋爪の出している例は、古かったり(モーゼは古代だ)、瑣末過ぎる(何を食うかなど)例ばかりだ。
もっと身近で切実な問題(「ミクロの政治」では子供の進路をめぐる親子の対立や学校の「いじめ」問題など)を例示できないでいることには、
大きな問題が隠されているように思う。

4月 13

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。

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「自立」と「依存」の関係は?
(姜尚中の『悩む力』から)

本テキストは、姜尚中のベストセラー『悩む力』の第6章「何のために『働く』のか」
からとられている。
『悩む力』には、6章の前提として1章「『私』とは何者か」、
2章「世の中すべて金なのか」が置かれており、これらを踏まえて6章は書かれている。

「何のために『働く』のか」。
姜尚中は、「働く」目的は「他者から承認される」ことにあると答える。

現代は大量のフリーターやニートが存在する時代である。
「自己実現」や「自分探し」を言い訳に、自己決定を先送りにし、社会に出ていくことを躊躇している若者が多い。
姜尚中が「他者から承認される」ことを強調するのは、こうした傾向に警告するためだろう。

しかし、私はこの答えには強い違和感を持つ。
もし「他者から承認される」ことが一番大切ならば、「いじめ」の問題を解決できなくなるだろう。
なぜなら、いじめは「他者からの承認」を求める心理、
つまり他者への依存の心理が根底にある問題だと思うからだ。
そこに「自立」は存在しない。

私たちが「働く」のは、
第1に「自己実現」「自己自身による自己承認」「自立」のためだ。
「他者からの承認」は働いた結果であり、それが働く目的なのではない。
もちろん社会(他者との関係)の中でしか自己実現はできない。
だからこそ、自己本位と他者本位の関係、つまり自立と依存の関係が問われるのだ。
それは本来はいかなる関係なのだろうか。

本テキストにはその答えは無い。
では『悩む力』の1章ではどうか。
ここでは「自我というものは他者との関係の中でしか成立しない」
「人とのつながりの中でしか、『私』というものはありえない」と言う。
これは他者から隔絶したところに自分があるとする考え(これがフリーターやニートを代表するだろう)に
反対しているのだろう。
そして「自我というものは他者との『相互承認』の産物だ」という。
しかし、「他者との『相互承認』」はどうしたら達成できるのかは語られない。
「『まじめ』たれ」というだけだ。

本来は、「仕事」の選択、「仕事」への取り組み方、フリーターやニートというあり方を具体的に語る中で、
「相互承認」、自己本位と他者本位の関係、自立と依存の関係について解明すべきだろう。

4月 12

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。

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鷲田清一の「目をそむけるな! 逃げるな!」
(鷲田清一の「他者を理解するということ」)

 文章展開では、具体例を出しては考察(一般化)し、また具体例を出しては考察をする、
という進め方なので、わかりやすい。
さらに、その具体例が身近な日常生活からとってこられているので、親しみやすい。
つまり、ムズカシイ倫理的な問題、哲学的な問題が、わかりやすく書かれている。
これが、鷲田清一の本が多くの読者に読まれている理由だろう。

しかし、今回のこのテキストで、何かが本当に明らかになっているのだろうか。
ここでは結局、「自分と他者との違いに、とことん向き合え! 違いから目をそむけるな! 逃げるな!」
と言っているだけではないか。
これでは女子レスリングの浜口京子選手の父親の「気合いだ?!」と、同じではないか。
もちろん、そうした注魂を、叱咤激励を求める人々がいるのも事実だ。
しかし、それは、問題の科学的、論理的な解明とは言えない。
肝心な結論部分(8段落)で、対が明確に示されないところにも、それが出ている。

このテキストで鷲田が明らかにしたこと、明らかにできていないことは何か。
明らかにしたのは、人間の相互理解で重要なのは、「同じ」ことではなく、相互の「違い」を理解し合うことだ、ということ。
これはもちろん、正しい。
明らかにできていないことは、相互の「違い」から目をそむけたくなるのはなぜか。
なぜ「違い」から逃げたくなるのか、だ。
それがきちんと示されないために、人間の相互理解で「違い」を理解し合うことの重要性が理解できない。
相互の「違い」にどう向き合い、その「違い」をどう受け止めたらよいのか。
「違い」から争いが始まり、離婚調停などの「対立」にもなるが、そうした「対立」には、どう対応したらいいのか。
こうした諸問題は放置されたままだ。
そして「逃げるな!」で終わる。
これでは現実の場で、どう対応したら良いかわからないだろう。

私は「自己理解」と「他者理解」の相互関係として、この問題をとらえたらいいと思う。
他者を自分と同じだと思っている段階では、他者について理解できないだけではなく、自分についても理解できない。
他者との「違い」に気づくことから、すべてが始まる。

「違い」に気づくことによって、「相手」が初めて、未知なる「他者」として現れる。
それまでは相手は実際には存在していなかったのだ。
「違い」を通して、初めて他者を自分とは違う「他者」として意識し、理解していく。
しかし、それだけではない。他者を理解する作業は、
そのまま、実は、自分に対する理解を深めることになるのだ。

他者との「違い」が見えない段階では、従来のままの「自分」で対応できる。
しかし「違い」に気付き、それを受け入れることは、
従来の「自分」の限界に気付き、それを克服することに他ならない。
「違い」を知って動揺するのは、そこで従来の自己像そのものが壊れそうになり、
それが怖いからなのだ。

そして、それを克服した者だけが自己を成長させ、それを通じて他者理解を深め、
結局は「人間」一般の本質理解を深めていけるのではないか。
「違い」や「対立」の根底には、もう一段深い「同一性」、
つまり「人間であること」が隠されているからだ。

「人間であること」には、人間の弱さ、憎しみ、嫉妬、
「悪」などの負の側面もたくさん、含まれている。
それは他者の内にもあるし、もちろん自分の内にもある。
だからこそ、相互理解の過程で「同じ時間を共有してくれた」ことへの感謝や、
いたわり、共感が生まれてくるのではないか。
「コイツはしょうがない奴だな、でもオレだって同じようなものだな」。

こうして、人間一般への理解を深めていく中で、自分も他者も相対化され、
「人間」全体の中に位置付け、理解されていくのではないか。

争いや裁判でも同じで、「正義」や「真理」の全体の中に、
自分の意見と他者の意見を位置づけていくことを学ぶのではないか。