4月 11

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。

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香山リカは空気を読む
(香山リカの「空気を読む」)

一見、論理的で筋が通っているように見える。
まず「準パブリックな場で、人は空気を読む」ことを事実として示す。
次に、その理由を「人が自らは安全な多数派であると疑わず、自らが少数派となることを恐れるから」とし、
それでは「いつからか空虚さに気づき、破綻をきたす」と問題提起している。
展開はとてもわかりやすいし、結論もとても常識的であり、納得できる。

香山が受けているのは、
第1に、この「わかりやすさ」ゆえであろう。
そして第2にその斬新な切り口が面白いからだろう。
普通には気づけない視点を提供する。
今回では「準パブリック」という中間領域を示し、テレビ番組制作現場を「空気を読む」場として例示する。
テレビ番組という本来は公的であるべき場が「空気を読む」ことで成立していると、香山は見抜いている。
視聴者と製作者の共依存関係がそこにあるのだ。

しかし、この「分かりやすく」「面白い」文章を読みながら、
少し考えていくと、わからないこと、疑問がたくさん出てくる。

「メランコリー親和型」と「かのような人格」は同じ類型なのか。
以前、中根千枝の「縦社会」や河合隼雄の「母性倫理」が日本社会の特殊性として盛んに議論されたが、
それとはどう関係するのか。
問題はそうした性格類型ではなく、場にあると言うのだろうか。
現在「空気を読む」関係がとくに目立つのは、
「職場ほど公的でもないが、恋人や夫婦ほど私的でもない、準パブリックな関係」だと、香山は主張する。
そして、その原因は「少数派」になることを恐れる心理にあると指摘する。

しかし本当にそうだろうか。
仮に、「少数派」になりたくない人が「空気を読む」として、それは「準パブリック」な場に限られるだろうか。
そういう人は、私的場でも、公的場でも、いつでもどこでも「空気を読む」のではないだろうか。

もし、現在「空気を読む」関係がとくに目立つのが「準パブリックな関係」だと仮定したら、
次に問われるべきは、それがなぜかだろう。
香山は「少数派になることを恐れるから」と答えるのだが、それよりも重要なのは、
なぜ「準パブリック」な場が、それほどの比重を占めるようになってしまったのか、という問題だろう。
答えを「公的な場が消えてしまったから」とするなら、その対策は「公的な場の回復」になる。
そして保守派はそこに「愛国心」を持ち出すだろう。これに香山はどう反論するのだろうか。

最後に、高校生からでるだろう、素朴ながらも核心的な問題提起に備えておきたい。
「香山自身の生き方を、香山自身はどう考えているのだろうか」。
テレビ出演している香山は、この「準パブリック」な場で「空気を読」んで自分の役割を演じていると言う。
それは「少数派」になり、テレビ出演ができなくなることを恐れているからではないのか。
そこでは香山は「かのような人格」を演じることになり、そうした生き方は「いつからか空虚さに気づき、破綻をきたす」のではないか。

香山はこの問いにどう答えるのだろうか。おそらく平然と、以下のように回答するだろう。
それは、まったく問題ない。
香山の公的仕事は大学の教員、研究者としての仕事であり、
大学の授業や学会では、きちんと自説を主張しており、「空気を読む」ことをしていない。
また、私的場で恋人や家族との関係でも同じだ。
その上で、テレビでタレントとしての仕事もしているだけであり、
その時だけ「かのような人格」をあえて仮面のように演じているのだ。
したがって問題はない、と。

しかし、本当にそうなのだろうか。

4月 10

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
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そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
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全肯定からルールは始まる
(竹田青嗣の「いたずら 大人たちへの挑戦」)

竹田は人気がある。
その理由は、「いたずら」といった身近な話から始めて、それが人間の成長、人類の発展のような大きな話につながり、
「いたずら」の「秘密」がわかったような気にさせられるところだろう。
面白い!。

本来は、哲学的な一般的命題は、身近で誰もが経験する事柄と結び付けて、語られなければならないだろう。
ところが、そうしことができる人は少ない。
それができるのが、竹田のすぐれた点だ。

しかし、これを読んでも、「人間」「自我」「ルール」の本質についての理解は深まらないのではないか。

それは、「人間」「自我」「ルール」などの言葉の曖昧さ。
定義における根拠なしの断定(キルケゴールが言っていた、ヒュームが示した、は根拠にならない)。
過程なしの結論、結果(「ルールは禁止から始まる)など。
こうした手続きのいいかげんさが1つの原因だ。

もちろん、竹田は正しいことも言っているから、説得力があるのだ。
「ルールには無自覚だから支配される。それを相対化し、自覚する必要がある」はあくまでも正しい。
しかし、その理由として挙げていることが一面的だから、対策も表面的である。

竹田はルールは「禁止」から始まると言うが、本当だろうか。
逆に「許し」から始まるのではないか。

竹田の論理はこうである。
禁止からルールは始まる→ルールを意識し、自覚する→それを「身につけ」「忘れる」(ここが竹田の強調したい点)
→その結果、それに支配される→「いたずら」によって、その忘れたルールを思いだし、それを相対化する
→それによって、新たな自分たちのルールを作ることができる。

私見を対置する
私たちが存在することの全肯定(つまり「許されていること」)からルールは始まる
→それゆえにルールを無意識に、無自覚に学ぶ→その結果、それに支配される
→それを自覚化し相対化する必要がある
→それによって、新たな自分たちのルールを作ることができる。

人間は生まれてから、周囲の絶対的な保護下に育つ。そうでなければすぐに死ぬ。
そして、親(世間)の生き方や価値観、感受性(これがルールだ)を無自覚のうちに埋め込まれて育つ。
それは「禁止」によるのではなく、逆に「愛される」「受容される」「褒められ」ことによってだ。
ルールの中には「禁止」ももちろん含まれるのだが、基本的にはその背後にはいつも「愛される」「肯定」がある。
もし「禁止」されたことなら、「忘れる」ことはないだろう。
逆に「愛され」ながら埋め込まれたことだからこそ、その自覚が難しいのだ。

私は、子どもが無意識に親や世間の価値観や感受性に支配されていることが、本当の問題だと思う。
そうした価値観を相対化することがいかに難しいかを、考えてみてほしい。

4月 09

「オタク」の勝利宣言 (四方田犬彦の『「かわいい」論』から)

国語教育, 書評  「オタク」の勝利宣言 (四方田犬彦の『「かわいい」論』から) はコメントを受け付けていません

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
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「オタク」の勝利宣言
(四方田犬彦の『「かわいい」論』から)

日本発のサブカルチャーが世界を席巻し、巨大なマーケットを形成している。
本テキストは、その状況を「かわいい」をキーワードに読み解こうという試みだ。
それも、「共時的」かつ「通時的」な両面から迫ろうとする。

四方田は、日本文化の歴史の中に「かわいい」を正当に位置づけるべきだ、と主張している。
これは、昔は日陰者だったサブカルチャーが、今や日本文化の正統となったとの宣言だろう。
つまり「オタク」の勝利宣言。
そうした時代背景の中で元祖「オタク」だった四方田は、いまやもっとも脚光を浴びることになった。

四方田は、「かわいい」は「脱政治」だという。
しかし実際にはフェミニズムの側からの強烈な反論がある。
テキストではその反論を紹介する(それへは不満がありそうだが)が、
四方田は、この対立、この矛盾をどうとらえるのかを明らかにしない。
その問題はわきに置いて、文化論を続けるだけだ。

もちろん、東西冷戦下にあった狭い意味の「政治性」(体制か反体制か。右か左か)はもはや無意味になっている。
しかし、いつの時代にも政治と経済は、あらゆる文化現象に対してその威力を発揮しているはずだ。
「かわいい」もその例外ではない。

また四方田は「かわいい」の本質を「無時間的な幸福」「無罪性と安逸さに守られたユートピア」だという。
しかし、この規定は「かわいい」に限られたものだろうか。
今や全世界で読まれている村上春樹や吉本ばなななどは、この規定にみごとに当てはまるのではないか。
つまり、ここで四方田が主張していることは、サブカルチャーとカルチャーの区別を超えて、
現在の全世界に同時進行している普遍的な現象なのだろう。
そして、そうであれば、それが政治や経済に無関係なわけはなく、逆に、深くそれに関わっているはずだ。

四方田は、「かわいい」に「共時的」かつ「通時的」な両面から迫ると言うが、
それは「通時的」側面に大きく偏り、
また「政治や経済」の側面を捨象し「文化的」側面に大きく偏っている。
それこそが「オタク」の勝利宣言の姿であろう。

4月 08

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
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「確認」と「発見」は違う(福岡伸一の「生きることと食べることの意味」)

福岡伸一は『生物と無生物のあいだ』で、一大ブレークした分子生物学者だ。
「動的な平衡状態」は彼のキーワードらしい。

しかし、彼のすごさは、分子生物学者としての優秀さにあるのではなく、
ムズカシイ分子生物学を一般読者にわかりやすく、興味深く語れるその語り口にあるようだ。
テレビの教養番組で、生物の世界から、現代社会の問題まで、幅広く論ずる彼の姿をよく見る。
本テキストには、そうした福岡の本質がよくあらわれている。

分子生物学の凄さを語るには、分子レベルの観察によって、
従来の生物学、従来の世界観にどのような大きな変化が生まれたのかを説明する必要がある。
しかし、このテキストでそれが実行されたのだろうか。

著者が力を入れているのは、「生命の実態」「食べた物と体の分子がたえず分解と合成を繰り返す」という認識だが、
それは以前から「生物の新陳代謝」として「細胞レベル」では解明されていたことではないか。
人間は「堅牢不変の構造ではなく」、細胞レベルでは絶えず新陳代謝を繰り返し、古い細胞は死に、新たな細胞に入れ替わっている。
私は高校生の頃、生物学でこの不思議な事実を知って、心打たれた覚えがある。
今回の福岡の説明は、それを分子レベルで「確認」したにすぎないのではないか。
「確認」も大切だが、新たな事実、新たな世界を切り開いたのとは違う。
ましてや「コペルニクス的転回」と評価するに至っては、大袈裟すぎて笑ってしまう。

テキストの最後の方で「食い」「食われる」ことの説明がある。
ここから「地球上の生命すべて」「環境全体」に一気に拡大するのは、あまりに大きな飛躍だと思う。
しかし、それを認めたとしても、これも「食物連鎖」として有名な考えであり、周知のものではないか。
それが分子レベルで「確認」されたからといって、それが何なのだろうか。

私は、分子レベルの観察によって、従来の世界観が根底から覆されるような発見を知りたい。
もしそうしたことがあれば、それを「コペルニクス的転回」として認め、分子生物学に対して深く頭を下げよう。

4月 07

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

指導者が指導する上でのヒントになるように、テキストへの1つの視点、1つのとらえ方を示したものだ。
これは、広く、世間への問題提起のつもりでもある。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
本日から毎日コラムを1つ転載します。

■ 目次 ■

ネット社会での「白」の行方(原研哉の『白』から)
「確認」と「発見」は違う(福岡伸一の「生きることと食べることの意味」)
「オタク」の勝利宣言(四方田犬彦の『「かわいい」論』から)
全肯定からルールは始まる(竹田青嗣の「いたずら ?大人たちへの挑戦」)
香山リカは空気を読む(香山リカの「空気を読む」)
鷲田清一の「目をそむけるな! 逃げるな!」(鷲田清一の「他者を理解するということ」)
「自立」と「依存」の関係は?(姜尚中の『悩む力』から)
「ミクロの政治」と「マクロの政治」(橋爪大三郎の『政治の教室』から)

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ネット社会での「白」の行方
(原研哉の『白』から)

原研哉が本テキストで語っている「不可逆性」や「完全性の美意識」などの問題そのものは、すでに語りつくされたことだと思う。
この著者のオリジナリティは、それを「白」と表現したことだろう。それは本来、色とは別の問題だから。
それは文字や印などのシンボルと、それを書きとめる物質との関係の話だ。書き留めるのは主に「紙」だが、
昔は紙は貴重だから竹や布に書いていた時代もあった。
紙に限定しても、それが「白」であるのは例外で、薄汚れた色だったことだろう。
そこに生ずる問題を、著者は精神や意識として、文化としてとらえ、さらにはそれを「白」としてとらえる。
日本では「白」には白無垢、武士の切腹の際の白装束というような、鮮烈さがある。
そうした文化的な意味合いを込めて「白」を考える時に、どういった世界が見えてくるのか。
本書『白』はサントリー文化賞を受賞している。

本テキストで気になるのは、ネット社会を、「白」の文化の対極の世界として提示しながら、
その対比の意味が展開されないままに、放置されていることだ。
この著者のオリジナルの1つは、従来の議論に、現代のネット社会を対置したことにあるだろう。
だからこそ、次に問われるべきなのは、「不完全」を前提にしたネット社会にあって、
これまでの「白」の文化、「白」の美意識はどういう影響を受けるのかだ。
「白」の文化は消滅する運命なのだろうか。
それとも、ネット社会の中で、次の展開が待っているような強靭な文化だろうか。