12月 14

週刊「教育資料」2010年12月13日号で以下を書きました。

仕事の聞き書き/鶏鳴学園代表 中井浩一/

「僕は父のその決断力、行動力に圧倒された。今の経済の主流はひたすらコストカット、収益重視だ。経営面では今の銀行の建て直しが急務の中ではそれも仕方ないのかもしれない。しかしそういう点で僕は経済について冷たい印象があった。しかし、父が色々な人と出会って生み出した自分なりの信念と、それを貫き通す姿勢は何においても中心になるものだと思う」。
これは、高校生が、銀行マンの父親に仕事の話しを聞いてまとめた、「聞き書き」からの引用である。

仕事の聞き書き
 現代の若者たちの問題として、フリーター、ニートの急増、人生の目標の喪失、進路・進学意識の弱さなどが言われるようになって久しい。この大きな原因は、高校生に、仕事の意味や社会の現実が知らされていないことがあげられよう。父親の働く姿を見ていないし、社会のリアルな諸問題にも触れることが少ない。
 さてその対策として、私が有効だと思っているのが、親の仕事の聞き書きなのだ。弊塾ではこれを高校生全員に課題とし、保護者にも協力を呼びかけている。そして、塾生みなで互いの文章を読み合って、意見交換をする。
 取材する項目としては、仕事のナカミ、仕事の喜怒哀楽。サラリーマンであれば、組織で生きることの意味、同僚や上司や部下との関わり、女性の地位など。多様な視点を生かしたい。大切なことは、「建て前」や「きれいごと」を排除し、できるだけリアルに具体的に語ってもらうことだ。問題や悩みを聞きたい。「自分の子供だ」と思えばこそ、外部に出しにくいことも語れるはずだ。

時代の激変
 仕事の聞き書きからは、当然ながら、今の社会の厳しさ、大きな時代の変化も見えてくる。冒頭の聞き書きの父親は、勤め先が三和銀行から、UFJさらに三菱東京UFJへと銀行の再編統合で変わっていく。金融自由化で、初めての「投資部門」に異動がある。そうした中で懸命に仕事をする父親の姿は、息子の心を打つ。
 他のケースでは、リーマン・ショック時にリーマンブラザーズに勤めていて職を失った金融アナリストの父親が、当時の内部の様子を生々しく語る場面も出てくる。彼はそれまでに転職を5回重ねていた。90年代の不況下で会社が倒産し、その整理を担当した父親の話も出てくる。起業の話も、リストラの話もある。
 単に仕事やこの現実社会について学ぶだけではない。高校生の進路・進学を考えるための事例研究になるように、父親の大学や学部選び、就職先の選択、転職や結婚、単身赴任などについても聞いてもらう。「今の一瞬ではなく、30年後につぶれていない業界を選んだ」「魅力的な上司がいないような会社に、いつまでいてもしかたがない」「80年代のプラザ合意以降、将来の中心はメーカーではなく、金融になると思って、メーカーを辞め、金融アナリストになった」「就職難なら、なぜ中国語を学んで中国で就職しようとしないのか」「転職で自分が外ではどう評価されるか確かめたかった」といった刺激的な発言が出てくる。

親子の対話の復活
 大きな副産物もある。親子の対話の復活だ。今の家庭では父親は「粗大ごみ」扱いされている。しかし、父親を尊敬できず、誇りに思えない中では、自分の仕事や人生への敬意や意欲をもてないだろう。
 冒頭の聞き書きでも高校生はこう語っている。「自分の仕事に誇りをもち生きている父は、本物の企業戦士だ。父親として見たら子育てもろくすっぽしなかったし、お世辞にも良い父親とは言えない。そう思っていた。しかし、その人生を通して一つのことを貫き通している生き方は、子供の時に一緒にキャッチボールをしたり遊園地に行ったりすることよりも多くのことを僕に教えてくれた」。
 インタビューを受けた側の父親たちの感想を2つ紹介しよう。
「日本の父親は一般に自分の仕事の話をあまり子供にしません。でもすべての父親は現代社会の修羅場をくぐっています。自分の父親から改めて仕事の話を聞く(「授業」の一環だということが双方に好影響を与えます)ことで、父親に対する信頼、尊敬などにもつながると思います」。
「自営業ならともかく、サラリーマンの場合には、家庭で自らの仕事の内容を詳しく説明する機会を持っている人はほとんどいないと思います。インタビューを機会として、娘との距離が若干縮まったような気がしました」。

仕事の話を授業で
 弊塾では、今年から、一斉授業の中でも仕事の話を取り上げている。前年に出された聞き書きの中から、特に高校生に参考になると思われるものを選び、その保護者たちに来てもらう。生徒たちとはその文章を事前に読みあって、内容について話し合い、質問項目を考えあう。クラス毎にインタビューの担当を決め、当日は「講演」ではなく、生徒自身によるインタビューの形式で行った。幸い、生徒からも、協力してくれた保護者からも好評だった。今後も継続していきたいと思っている。

 こうした授業や、聞き書きの実践が、全国の学校、大学、塾などで、数多く試みられることを期待したい。

10月 17

週刊「教育資料」2010年10月11日号で以下を書きました。

羅針盤を作る教育を/鶏鳴学園代表 中井浩一/

 この夏に、ビジネスマン対象の雑誌で「哲学」が特集された。週刊『東洋経済』(8月14日、21日合併号)の「実践的『哲学』入門」だ。特集の中に、各地の「大学生・社会人」の学びの場を紹介するコーナーがあり、わが鶏鳴学園の「哲学ゼミ」も取り上げられた。

 取材にみえた編集者によると、マイケル・サンデル教授(ハーバード大学)の「正義」に関する授業がテレビ放映され大きな反響があり、その講義録も刊行されベストセラーになった。そこから、なぜ現代日本で「哲学」がブームになっているのかを考えようとの企画のようだった。

時代が「哲学」を求めている
 今の時代が「哲学」を求めているのは本当だと思う。私のゼミの参加者が増えていることからも、そう言えるだろう。今時、「哲学」といった硬いナカミで、しかも大学外で、何の資格も取れない場だ。しかし、そこに通う人が一〇数人いることを、どう思われるだろうか。この数年で、二〇代の若者が増えてきた。他方で、三〇代から五〇代まで年齢の幅も広がっている。大学生(フリーターやニートも)、役人、主婦、ジャーナリスト、教師、政治家などとその職業も多様だ。彼らは何を求め、何に駆り立てられているのだろうか。
 今の時代には、人生の羅針盤がないのではないか。物を考え、評価し、選択する際の、基準が見えないのではないか。ほとんどの人は、途方に暮れている。それは、若者にとっては人生の方針を立てられず自立できないという深刻な問題になる。それがフリーター、ニートの急増にも現れているだろう。
 それは特殊な人々の問題ではない。若者たち全般の「自立」の遅れは深刻だし、すべての大人にとって「成熟」がムズカシくなっている。明治時代にあっては、夏目漱石のように三〇代の前半まで自己確立できずに悩み抜いた人は少なかった。しかし、今は多くの人が同じ悩みを抱え込むようになっているのではないか。
 一方、「格差社会」「階層格差」の問題が深刻化しているが、この問題も「成熟」の遅れと関係するのではないか。

目標を見失った社会
 社会から絶対的な目標と基準が失われ、「価値の多様化」(実は表層的なタコツボ化)が進んだのは、「豊かな」社会になったからだ。以前は、国民全体が貧しく、「豊かになりたい」という夢をみなで共有できた。そして高度経済成長に邁進し、豊かさを実現してきた。その裏では地域や大家族制が崩壊していったが、国民は「豊かさ」の代償として諦め、淋しさは「中流」としての一体感で補ってきた。
 他方で、世界は東西冷戦下で資本主義と社会主義との対立があり、それは全体的な世界観の対立でもあった。すべての人々が立場の選択を強制されたが、ひとたび態度決定さえすれば、後は自動的にすべての問題の回答を一挙に手に入れることができた。こうした政治対立はもちろん国民の対立を引き起こしたが、両者は「豊かさ」を追求する点では共通だったから、共依存の関係でしかなかった。その時代には、社会にも個人にも、明確な目標と基準があった。
 今はそれが失われた。そして、むき出しの競争社会と格差の拡大が広がっている。そこでは地域や大家族制は崩壊し、バラバラの個人と核家族が広がっているだけだ。社会に強い共通目標があるときは家庭の影響は小さい。しかし、それが失われたときは、家庭の影響力が決定的になる。それが今の格差社会ではないか。親の階層、価値観、社会的地位、能力が、そのまま子どもに受け継がれ、貧富の差が拡大し、階層が固定化していく。それは個人が自立できないでいることと裏腹の関係だ。さて、ではどうするか。

「哲学」とは何か
 私の「哲学ゼミ」には二つの柱がある。一つは哲学上の古典を読むことで、ヘーゲルを中心に、カントやアリストテレス、マルクスやハイデガーなどを読む。もう一つが、各参加者の活動報告や問題意識を出し合って話し合うことだ。こちらが重要だ。そこでは自分の直面している問題を考えながら、これまでの人生を振り返る。それを報告し文章にし、相互批評をする。それによって人生の目標、テーマを作ることが目標だ。これは、実は親からの自分への影響の総チェックであり、親からの自立をうながすことでもある。

今求められる教育
 自分の個人的で特殊な問題を、一般的に論理的に考える。そのための媒介として、本や哲学書を読む。それが私のゼミで行っていることだが、これが本当の「哲学」だと思う。これを学校や大学など、あらゆる教育の場で行っていくべきだろう。わが鶏鳴学園は「国語の専門塾」を標榜しているが、実はそれは「哲学の専門塾」という意味なのだ。
 今の時代には、既成の答えは有効ではない。教師は、答えを押しつけるのではなく、生徒とともに、生徒が抱える問題を、真摯に考えていくことしかできない。そのためには、教師自身の価値観や経験の意味づけを見直し、壊し、作り替える作業をすることになるだろう。
だから今、「正義」のそうした作り直しの作業を協同で行ったマイケル・サンデルの授業が大きな反響をよんだのではないか。 (2010年9月29日)

8月 28

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』の4月号から連載して、今回がラスト。

9月号の 第6回(最終回) ディベート学習の課題
          教育の「内容主義」と「形式主義」をめぐって

1.90年代のディベート・ブーム
言語活動の充実のために、いくつかの問題提起と具体的提案をしてきたが、最後にディベート学習を取り上げたい。「全教科での言語活動の充実」「スピーチ、発表、討論」と言われたときに、真っ先に思い出されるのがディベート学習であろう。しかしディベート学習については、それを支持する声がある一方で、強い批判や疑問の声もある。この混乱と対立の中に、言語技術の教育のための核心的問題があると思うからだ。
ディベート学習は80年代後半から中高の教育現場で始まった。前号で紹介した「学習院言語技術の会」の高校版教科書でも、その中の1項目として取り上げられている。しかし当時は英語科(ESS)を中心とする、少数の先端的な取り組みでしかなかった。その後社会科や国語科にも広がり、90年代にはブームになるほどだった。ディベート甲子園も始まり、多数のディベート関連の本が出版された。
最近では一時のブームは去ったようだが、社会科や国語科の教科書ではディベートが紹介され、学校の正規のカリキュラムに入っているところも増えた。熱狂の時期は去ったが、定着し落ち着いたとも言えるようだ。

2.ディベート学習の是非をめぐる対立
ディベート学習とは、「ある特定のテーマの是非について、2グループの話し手が、賛成・反対の立場に別れて、第三者を説得する形で議論を行うこと」(全国教室ディベート連盟)だが、この学習を効果的にするために、勝敗を争う競技形式で行われる。つまり、第三者(専門の審査員など)によって勝敗を決定し、賛成・反対の役割は、参加者の本来の主張とは無関係に決められる。
ディベート学習そのものは、ある主張をする際に、説得力のあるような論証をする練習、つまり、事実をよく調べて、十分な根拠に基づき、それを論理的に組み合わせて主張につなげる練習だろう。
賛成派は、ディベート学習によって、次のような能力が獲得できると主張する。論理的に物事を考え、他人の意見を聴き、自分の意見を効果的に伝え、相手(他人)の立場に立ち、情報処理や整理をし、多面的な視点を獲得するなど。また、それによって、問題意識や自分の意見を持つようになるとも主張する。
しかし一方で、それに対する強い批判や疑問もある。そうした反対派は、その目的に反対しているのではなく、その目的が達成できない、否、かえって逆効果だと言うのだ。その疑念や批判は、主にその競技的形式面に向けられているようだ。
勝敗を争うために、ディベートが単なる「口論の技術」「相手をやりこめる技術」になり、「詭弁家」を作ることになるのではないか。
参加者の意向とは無関係に、役割(肯定側・否定側)やテーマが与えられ、本来の主体性が損なわれるのではないか。本来は切り離せない人格と思想を、無理に分離させることは間違いではないか。学習効果はかえって小さくなるのではないか。
そうした問題点があるので、ディベートでは盛り上がっているように見えても、学習効果は小さいのではないか。

3.「生徒の主体性による共同的な探求学習」
 こうした批判に対して、「競技ディベート」支持派からは、「そうした懸念は当たらない。競技形式こそが学習効果を高める」との反論がある。しかし、ディベート支持派からも、「競技ディベート」への批判の声はあるのだ。「競技ディベート」と本来のディベート学習を区別しようとの意見だ。
それは主に社会科の先生方が中心だが、そうした立場を代表するのが『授業が変わるディベート術!―生徒が探究する授業をこうつくる』(国土社1998)だ。二人の編著者の一人は、もう20年近く、実践を積み重ねてきた杉浦正和氏(芝浦工業大学附属柏高校の社会科担当)。もう一人が、県立小金高校などで教え、現在は大学の教職課程を指導している和井田清司氏(武蔵大学人文学部)。
この本では、勝負の側面が前面に出てくる「競技ディベート」(「ディベート甲子園」がその典型)には批判的で、それに対して「生徒の主体性による共同的な探求学習」を対置する。それは勝負にこだわらず、あくまでも認識の深化を目的とする。
この違いは、審査の違いになる。前者は先生などの専門家が行うが、後者はクラスの仲間が行う。
そもそも、杉浦氏たちがディベート学習を始めたのは、教師からの一方的な講義形式の授業に対する不満からだった。生徒が主体的に学習することをなんとか実現するための方法がディベートだったのだ。
実は連載の第3回で紹介した川北裕之氏の総合学習「環境学」では、最初の3カ月の「触発学習」で2回にわたるディベート学習を行っており、その指導者は和井田氏(当時の川北氏の同僚)だった。川北氏は、それがその後の現地調査の触発学習として極めて有効だったと述べている。
「ディベートで、ある一方の側から立論をつくることは、仮説を立てて調べることにつながり、これは研究の基本です。自分と異なる立場で戦うのはつらいし、負けたときはくやしいので、『環境学』のようにこのエネルギーを探究活動にむかわせるようにします。後日、自分の意見を表明する小論文を書かせると良いでしょう」。
 私は、昨年秋に杉浦氏のディベートの授業見学をさせていただいた。笑いが起こる和気あいあいとしたものだった。ディベート学習は、やはり指導者の力量が大きくかかわると思った。杉浦氏は、高校生段階のディベート学習の成否は、そのテーマ設定にあると考えている。
テーマは、善か悪かと言う単純な価値判断では決められない問題がふさわしい。問題がさまざまな側面を持ち、その側面の事実を丁寧に分析する必要がある問題だ。現実に社会的論争になっている問題(政策課題)が良い。肯定側も否定側も、それぞれ有力な根拠を持っていて、簡単には判断が出せない。そうした問題からこそ対立説の双方を知り、複眼的思考を学ぶことができる。
 例えば、「熱帯木材輸入禁止」をテーマにすると、環境保護と開発(貧困からの脱出)の対立・矛盾が問題になるが、単純な白黒図式にはならない。肯定側は両者の矛盾を言えばいいだけだが、否定の輸入側は、開発が重要だと言うだけではなく、開発と環境保護が両立するとか、開発で豊かになってこそ環境保護も可能になると主張する。否定側も環境破壊を公然と認めるわけにはいかないからだ。
こうした議論の「正解」は容易には出ない。そこで、正解よりも、認識の深まりが問題になる。それが評価のポイントでもある。そして杉浦氏は、この「正解がない」ことを、ディベート批判派は認められないのではないかと、推測している。これは核心的な問題だ。
また杉浦氏のディベートでは、審査するのは生徒だ。「学習はあくまでも生徒のレベルに応じておこります。ですから生徒が審査するのが一番良いのです。不十分でたどたどしい論争であっても生徒にとってはわかりやすいこともあるのです」。これが、生徒の「共同的な」探求学習、という意味だ。クラスの仲間とともに探求を深めることを追求するのだ。
 審査とは、真実を決めたり、意志決定をすることではない。あくまでも、いずれが説得力があったかを判断するだけだ。論争の評価が生徒の学習になる。そして、審査を下すことで、困難な真理認識は保留にし、それに向けた探求の欲求を引き出すのだ。
こうした杉浦氏のディベートに「詭弁家を育てる」との批判は当たらないだろう。しかし、それもやはり競技ディベートであることには違いはない。したがって、人格と思想の分裂との批判には答えなければならないだろう。

4.ディベートの意義
私はディベート、特に「探求学習」型のディベートの大きな意義を認める。その理由は、この過程は思考の過程そのものであり、思考学習そのものだからだ。
それは、事実と意見を区別することから始まる。これは木下是雄氏の方法論と同じだ。もちろん区別するのは、より深く、より全体的な視点から両者をつなぐためだ。これは意見文が、根拠(事実)とその根拠に基づく意見の2つの部分からなることを明確に意識させる。
次に、ある立場(主張)を支えるための根拠(事実)を構成するのだが、事実を深く丁寧に考えねばならない。あるテーマに関する賛成と反対の両方の立場から考えることで、対象の全体をながめることになり、それぞれの立場が対象のどの面を、どの立場から考えているかを、冷静に検討することになる。これは確かに、多面的に物事を考えることであり、これによって「複眼的思考」ができるようになる。考えるということは、このように対立や矛盾を手がかりに進んでいくのだ。ここまでは誰も反対はないだろう。
さて、では、自分の本当の考えと違う役割を与えられた場合はどうなるのだろうか。ここでは、事実と主張の分断とともに、自分と自分の意見をも、一旦は切り離すことが求められる。それは相手の意見とその人格を区別する態度を学ぶことにもなる。
さてここで、当然ながら、「人格と思想を切り離す」との批判が待っている。しかし、つねに人格と思想が一体であるならば、論争の際に自分と相手の意見対立は、即互いの人格を否定しあうことになる。本当にそれで良いのだろうか。また、それでは「相手の立場に立つ」ことは不可能になるのではないか。

5.2つの態度
こうした批判の前提には、人格と思想はつねに一体のものであり、切り離すことはよくない、という考えがあるのだろう。それは思想の内部に対立や矛盾を認めないことになる。しかし私たちの考えの内部には、つねに懐疑や動揺がある。これが実際の姿ではないか。社会内部の賛成・反対の対立は、それぞれの陣営の個々人の内部にも、矛盾や対立を引き起こすはずだ。逆も真だ。そして、対立・矛盾によってのみ個人の認識は深化し、相互理解も拡大する。だから、われわれは矛盾や対立を歓迎すべきなのだ。
また、ここには「正解主義」が隠されていると思う。つねに、論争には正解があり、正解はわかっている。そうした思い上がりがないだろうか。つねに「答え」があり、それは教師が知っており、それを教師は生徒に教えることができる。「答え」があるのなら、手っ取り早くそれを教えればよいだけで、途中の困難な過程は省略できる。これが従来の教育で、これが「内容主義」なのだ。
一方、この反対の「形式主義」的な考え方がある。教師や大人もつねに「正解」を知っているわけではない。しかし自発的な「問い」を引き出し、それを深める方法は教えなければならない。その過程では繰り返し、疑惑や反問、立場の転換が起こるが、それで良いのだということも教える必要がある。
そして、教室内部の議論や、資料統計だけでは解決できないのだから、現実社会の現場に出ていく必要を強く感じるようになるはずだ。
こうした二つの立場と態度が、現在の教育現場にはあるだろう。言語活動や論理を教育するには、教師自身はどちらの立場に立つ必要があるのか。それを、各自が自分に問うべきだろう。それが一番肝心なことではないか。

7月 15

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

8月号の 第5回 言語教育を育成する教育
         木下是雄氏と「学習院言語技術の会」から学ぶ 

1.温故知新 過去から学べ
新しい学習指導要領では、全教科での「言語活動」の充実がうたわれた。これによって、「言語活動」が教育の中心に取り上げられ、あわせて国語科の意味が正面から問われることになった。これは画期的なことである。
「言語活動」に関しては、さまざまな実践が行われてきたが、従来の国語科への批判から生まれたものとしては、木下是雄氏の『理科系の作文技術』と彼を中心とする「学習院言語技術の会」の活動が挙げられよう。
教育の歴史をながめると、過去の歴史が生かされていないことを痛感する。詰め込み教育から「ゆとり教育」への転換と「総合的な学習の時間」の導入、学力低下論争以降の揺れ戻し。一体この騒ぎは何だったのだろうか。同じような事は戦後すぐに導入された「新教育」をめぐる対応でも起こり、その後も何回か同じ事が繰り返されてきた。しかし、いっこうにそうしたことから学習していないように思われる。
今回も、「言語活動」の充実を言うのなら、まずは、木下是雄氏と「学習院言語技術の会」(「言語技術の会」の表記する)が残した仕事を学ぶことから始めたい。

2.木下是雄氏と「学習院言語技術の会」
物理学者で学習院大学教授だった木下是雄氏が当時の学習院大学院長に言語技術教育の必要性を答申したのが一九七七年。彼は学会での研究発表や論文の作成で、諸外国の研究者に比べて、日本の若手の能力不足を痛感していた。「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、小学校からしっかりした論理教育を行うべきだ。しかし日本ではそうした教育が放置されている。国語科は文学偏重でその任を果たしていない。したがって、理科系の研究者である彼が、自ら言語教育に乗り出したのである。
木下は、その問題意識を共有する学習院の小学校から大学までの先生方(国語科・国文学、文系だけではなく教科横断)と「学習院言語技術の会」を組織し、小学校から高校までの一貫した言語教育の教科書を作った。学習院内の各学校のすべての教科でそのテキストが使用され、一貫した言語技術教育が行われることを希望したのだ。
このテキストは小学校用が二冊、中学、高校用に各一冊。この計四冊が一九八〇年から八八年までに刊行されている。この間に、木下氏は八一年には『理科系の作文技術』(中公新書)を、九〇年には『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー)を刊行している。

3.言語技術の教科書
 この教科書の目次を見てみよう。木下氏が強調している「事実と意見の区別」「パラグラフ理論」「レポートの書き方」などはすべてに含まれている。中学用ではさらに「人前で話す(スピーチ)」「話を聞き取る」「説得をする」「討論をする」「図書館で調べる」「速読に慣れる」などの項目が並ぶ。高校用では「新聞を読む」「ノートをとる」「資料の使い方」「ディベート」「会議運営の原則」などが並ぶ。
 これらを通読して、私は強い感動を覚えた。ここには、中学生、高校生に必要なあらゆる言語活動が網羅されているのではないか。これにネット社会に必要な技術を追加すれば、現代でも十分に通用する。否、今もこれを越えるレベルの教科書は生まれていないのではないか。
 私が一番感心するのは、これらのテキストが、多様な言語活動を一つの原則で貫いていることだ。それは木下氏の根本原則である、「事実と意見の区別」「パラグラフ理論」であり、「レポートの書き方」で強調される文章作成法である。他にも言語活動に打ち込んでいるところはあっても、個々の活動がバラバラに指導されているのが普通ではないか。「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、一貫した教育が行われることの意味は大きいはずだ。
本誌の読者の方々が、これから言語活動を導入するにあたって、または従来の活動を反省する際に、これらのテキストは大いに役立つだろう。実は、私自身がこのテキストで自己反省を行ったのだ。私の塾では「生きる力」の習得を看板に掲げ、そのために必要なあらゆる言語活動を学習することを組織してきた。その方法を、これらテキストから、もう一度再点検をすることになった。
学ぶことは多かった。一部不十分な点があると考えて、この連載でもそれを指摘し代案を提示したが、それは木下氏の方法をさらに発展させるためであることに、留意していただきたい。
しかし、学ぶのは、直接的なことだけではない。木下氏たちが取り組もうとした課題の大きさ、その困難さをも、しっかりと受け止めたいものだ。これだけの教科書を用意した学習院で、このテキストは実際にはどう扱われてきたのか。経過を省き、現状だけを述べれば、それは全教科での一貫した言語教育にはほど遠い。テキストは小学校、中学、高校で全生徒に配布されてはいるものの、高校ではその授業は行われておらず、中学でも一部の生成方が使用するだけだ。これだけの努力を傾注した学習院ですらそうなのだ。そこにそびえる壁の大きさが推測できよう。しかし、それに取り組めなければ、今回の学習指導要領も、ただのかけ声だけに終わるだろう。
教科書編纂に関わったある先生は、「このテキストを使用した教育は、学習院よりも、他で行われ、そこで深化されているのかも知れません」という。

4.学ぶこと
さて、私が『理科系の作文技術』や「言語技術の会」の教科書から学んだこと、改めて再確認したことを以下にまとめておく。またいくつかの点については小さな問題提起をしておいた。少しでも参考にしていただければ幸いだ。

(1)文章のまとめかた
木下氏は、最初にイイタイコト(結論)を「目標規定文」にまとめ、「その目標に収束するように文章全体の構想を練ること」を求める。これは、文章の基本中の基本であり、すぐれた書き手の多くが同じ事を述べている。例えば、哲学者の牧野紀之氏は「結論がすべてを支配する文」と定式化しているが、全く同じ事を言っていると思う。ただし、この基本の正しさだけではない。「言語技術の会」のすばらしさは、この方法をあらゆる言語活動で貫こうとした点にある。弊塾でも、この原則を文章、口頭発表、スピーチ、取材などのすべてで求めている。
ここで、一つ注をつけたい。この方法は基本中の基本だが、前提があることに注意すべきだ。それは対象を十分に捉えきっており、結論が出せる段階になっていることだ。そうでなければ、こうした方法で生まれる文章の多くは表面的なものになりやすい。対象と深く切り結んでいない場合には、まずは実際に対象にぶつかるように求めるしかない。つまり現場に行き、取材させることである。
「『主観的感想』を入れるな」という指示についても同じで、自分の考えがまだ漠然としているような段階では、「主観的感想」こそが、意見を作り出すためのヒントになる。
なお、木下氏はこの「目標規定文」を「主題(文)」と名付けるが、「結論(イイタイコト)」の方がわかりやすいと思う。

(2)テーマ設定、テーマの絞り込み
 レポート作成で、木下氏が力を入れているのは、作業の一番最初の段階であるテーマ設定である。これは本連載で取り上げた海城学園の社会科でも、川北氏の総合学習「環境学」でも同じだ。高校生は大きなテーマを選びたがるが、小さく具体的で、できれば身近な経験から検証可能なテーマに絞りたい。すでに述べたように、対象にどのテーマを選択するかと同時に、なぜそのテーマを選ぶのかの、自己理解が重要である。テーマ設定に成功した場合は、半ばは終わったようなものだ。教師の力量は、ここで試される。
 なお、このテーマ設定で、木下氏は「課題」からのテーマの絞り込みを「話題」と表現するが、「テーマ(問題)」の方が良いと思う。

(3)事実と意見の区別
木下氏たちは、事実と意見の区別の学習をすべての基礎としている。これは正しいと思う。なぜなら、私たちが目にするすべての記述には、事実と意見の両面があり、その多くでは両者が渾然一体となっているからだ。
だから、まずはこの二つを切り離すことが必要になる。事実だけのように見えて、秘かに主張が忍び込まされている場合もある。反対に、根拠のある意見のように見えても、実際は根拠が弱い場合もある。テキストには、誰のどのような意見があるのか、その意見はどのような事実にどれだけの必然性で支えられているか。
与えられたテキストで、事実と意見を区別するのは、書き手が事実のどの面を取り上げ、それをどの立場から考えているかを分析するためだ。その作業をする中で、事実の他の面は何か、他の立場とは何かを意識的に考えていく。これが「批判的に読む」ことになる。
事実と意見を切り離すのは、両者を再度、自分自身の視点から結び合わせるためなのだ。それが自分の「思想」になっていくから。
「言語技術の会」の教科書では、新聞記事を取り上げ、「新聞を批判的に読む」ことを実践させている。
ここで、注意したいのは、事実と意見を区別する作業は、実際は果てのない作業になると言うことだ。どんな事実も、それを取り上げた書き手の視点から切り取られたものだ。事実を追いつめようとすると、事実は限りなく消えて行く。そうしたことまでをわきまえながらも、やはり事実と意見の区別の練習をすることが重要だ。これはテレビやネットでの報道などにまで広げて練習させたい。
なお、この事実と意見の「意見」とは「主観的感想」を入れないのだろうか。これは当然含まれているだろう。事実を書き手がどう意識したか、それが「事実」と切り離した側に残されるものになる。

(4)パラグラフ理論
これは有名だし、私もこうした考え方を以前から使って読解の授業をしている。注としては、文系の評論では、段落内部に傍流や逆説があることも多いという事実をあげておきたい。また、木下氏も段落相互の関係を問題にするが、その「立体的」関係を意識していないことを挙げておく。私は各段落の冒頭の一文、冒頭の言葉(特に接続詞)、ラストの一文を意識すれば、各段落のトピックセンテンスだけではなく、全体の立体的構成がわかる、と指導している。この点については拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)の第八章を参照していただきたい。 

7月 01

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

7月号の第4回 社会科のレポート
インタビューを生かす構成と文体

1 理科と社会科の違い
前回までは、『理科系の作文技術』で有名な木下是雄氏の方法論を紹介し、理科のレポートを検討した。木下氏の方法の基本的枠組みには賛成した上で、そこでは切り捨てられた「主観的な感想」の意味と、それを生かしたレポートの書き方を論じた。今回は社会科のレポートを取り上げる。
私は、レポートでは、対象理解だけではなく、自己理解(なぜその対象を取り上げるのか、それが書き手自身にどんな意味があるのか)も必要だと考える。それが高校生の進路・進学の動機づけになるからだ。そこで「主観的な感想」が重要になるのは、それが対象理解を深める上で基礎となるだけではなく、自己理解の第一歩でもあるからだ。
この点では理科も社会も同じである。しかし、理科と比較して、社会科では、「主観的な感想」は一層重要になるだろう。それはそもそもの対象が違うからである。理科系では自然が対象だが、社会科では人間やその社会が対象である。自然が相手であれば、対象と自分を一応切り離すことができる。しかし社会科では対象も書き手も、同じ人間なのである。対象と自己との相互関係はいっそう緊密になり、自己理解と対象理解は切り離せない。
これは文献や統計だけからの調査でもそうなのだが、フィールドワークやインタビューや取材ではさらに重要だ。現場そのものが強烈なインパクトを持つのだが、それ以上にインタビューの持つ教育力は大きいからだ。

2 海城学園社会科の総合学習
今回取り上げるのは、私が高く評価している海城学園の社会科の実践だ。海城学園は東京都にある私学で併設型中高一貫の「進学校」。海城の社会科では約二〇年前から問題解決型の総合学習科目を導入した。それが、中学全学年における「社会?・?・?」と高校1年次の「総合社会」(いすれも週2時間)だ。
 個々の生徒が関心のある社会的な問題でテーマ設定し、文献・取材調査やフィールドワークを通じて、問題解決策の提言を含めたレポートを作成する。文献だけではなく、必ず現場でインタビューをしている点がすばらしい。それも毎学期1本ずつのレポート作成だ。二〇年近くにわたり、大学生顔負けのすぐれた作品が多数生まれている。
高校1年「総合社会」の学期毎のテーマは「自分探し」「世界探し」「地域探し」。「自分探し」では、将来像を模索・構築するために、仕事の聞き書きをする。例えば、ある年度では弁護士志望の者はインターネットで企業批判・告発を行う「見えない相手」と戦う弁護士を取材した。また、職業選択とは別に、中古パソコンの学校などへの寄贈活動を行っているNPO代表を取材した生徒もいた。
 三学期の「地域探し」では、自分たちの生活圏の調査が中心。海城のある東京都新宿区大久保地域は外国人の多い街だが、そこを生徒たちが巡検する。足立区に暮らすある生徒は、巡検で見聞したことから、自分の地元にも在日韓国人・朝鮮人が多いことに気づき、その聞き書きに挑戦した。
調査結果はいずれも、最終的にはレポート(400字の原稿用紙15枚程度)にまとめるが、構成は取材の目的(テーマ)、取材先の人物紹介と活動報告、自分が取材で得たものの総括(答え)からなっている。
  
3 インタビューの持つ力
 こうしたレポートを読んでみて、何よりも驚かされるのは、インタビューが持つ教育力の巨大さである。高校生たちは、相手の回答に驚いたり、逆に問い返されることから、自分の考えや生き方を見つめ直していく。「主観的な感想」が激しく揺れ動く心を伝える。
 弁護士志望の高校生が行った弁護士への取材では、当初の「弁護士=正義の味方」というイメージが壊される。「自分(弁護士)と検察官の主張は必ずしも正義とは限らず、いわゆる綺麗事のようなものよりも、ドロドロとしている」。この弁護士からの回答は、「僕にとってとても驚くべきものであった」。
 また、「弁護士は、もっと真面目そうで、堅い人だというイメージを持っていた僕にとっては、優しそうな弁護士は少々意外だと思った」。「でも、弁護士という仕事は、人の話を親身になって聞くことも大切であるから、人が話しやすい雰囲気を持っている事は、もしかしたら弁護士をしている人が持つ独特の雰囲気なのかも知れないと思った」。
 その弁護士は、弁護士としての悩みとして「(裁判での)自分の判断が本当に適切なものかどうか不安になること」を挙げる。そこで高校生は「確かに僕も日常生活で自分の判断が正しいものなのか、ふと考える事もあった」と考え始める。
 また、パソコンの寄贈活動をしているNPOへの取材では、その代表は用意した質問にはほとんど「即答」する。しかしそうした中で、「なぜNPOを続けてきたのか」という問いには「今までの即答とは違って、『何でだろう』と自分でもはっきりとはわからないようだった。お金の問題について答える時のように笑いを交えながら即答しなかったのも、それだけ深刻に悩んだからではないかと思う」と、高校生はレポートする。
 また、インタビューに応じてくれた代表以下三人が「自分の存在意義」を熱弁する姿に
「おそらくは、三人とも過去に、一般の会社と呼ばれる枠組みの中で自分の価値を見いだせずに苦しんでいたのではないだろうか」と自問する。
 そして、最後にNPOの代表に逆に質問される。「将来何になりたいの」。しかし、彼は答えられない。「自分には今、趣味はあっても、『絶対にやりたい』ということが見あたらない。そのことに気づきはずかしくなった」。インタビューの間、高校生が自分の内面でずっと問答をしていることがよくわかる。
面白いのは、こうした自分の思いや相手の語りや表情をたくさん書き込むのは、高校からの入学者に多いことだ。中学の三年間で鍛えられた生徒は、客観的に対象を捉えることに慣れていて、自分を語ることには慎重だ。これは、海城の指導が大学でのレポート(つまり木下氏の方式だ)を模範とし、全体としては「客観的な対象理解」に大きく傾斜している結果ではないだろうか。

4 インタビューの「要約」
 「総合社会」で配布される「レポート執筆要項」中の「引用箇所の扱い」では「参考文献から引用する箇所、取材先の意見を載せる箇所では、できるだけ自分の言葉で要約して、最小限度の分量に限る」とある。文献の要約は当然だが、インタビューもそれで良いだろうか。
 社会科の林敬教諭は「放っておくと一問一答形式になってしまうし、インタビューはラストに書く自説に持っていくための根拠として使うのだから、ある程度まとめなければならない。だから『できるだけ自分の言葉で要約』するのだ」と説明した。もちろん、「最小限度の分量に限る」ことは、制限枚数におさめるためにはしかたがない面がある。インタビューが、例証・根拠なのも当然だ。しかし、中学・高校段階では、最終結論よりも、インタビューそれ自体の方に大きな意味がある場合も多いのではないか。ここは考えたいところだ。
 例えば、地元の在日朝鮮人四世の方に取材したレポートでは、「外国籍を持った人の本当の気持ち」を三つほどに整理して挙げている。その一つは「民族的な差別」だが、その内実は「例えば、就職するとき朝鮮人の名前だと、ほとんど断られるし、アパートを借りるときも日本人の証人がいないと断られる事もあった。また、政治的な側面から見ても、発言権がなく、ただただ税金を取られているだけ」とあるだけだ。インタビューを要約すれば、こうなるのもしかたがないだろう。
しかし、ここは、是非、「差別」の詳しい中身を知りたいし、その語り口を生かしたり、その表情などを描写することで、高校生がその内容を追体験し、自分の問題として考えるようにしたいと思う。

5 インタビューを生かす構成と文体
ではインタビューにふさわしい構成や文体はどのようなものだろうか。
構成だが、海城のレポートは、ほとんどが冒頭に「テーマ設定の動機」が書かれ、最後に「結論」や「総括」がある。「テーマ設定」は丁寧に指導されているし、自己との関わりもよく書かれている。しかし、ラストが不十分なものが散見される。最後にも、その対象の調査を通しての「自己理解」について書かせたいと思う。それでこそ、インタビューや、そこでの「主観的な感想」が生かされるだろう。
また、文体としては、説明文だけではなく、描写文が必要に応じて使われなければならないだろう。文体は大きく言うと、描写文と説明文とに分かれる。意見文も論文も説明文の発展形である。一方、物語や小説が描写文の発展形だ。もちろん、説明文の中に、描写が入るし、描写文の中に説明も入る。
インタビュー前の、問題の背景や取材相手の経歴などは説明文になる。問題はインタビューそのものをどう書くかだ。海城のレポートを読むと、説明文の中に描写を挟むものが多く、その逆も見られる。例えば、先に挙げた弁護士への取材では、インタビューの様子がリアルに再現されるような描写が中心で、そこに説明風の文体がはさまる。
相手の語り口や表情などを再現する描写の文体は、相手の思いや自分の思いを書くためには不可欠だ。相手や自分の主張や意見をまとめるには説明の文体が必要で、それは要約が可能だ。長くなる場合は、描写は肝心な場面にしぼるべきで、それは「主観的な感想」が激しく呼び起された場面になるだろう。
こうした文体の使い分け、適宜、必要なところに必要な文体を入れる能力、それが今後は教育されねばならないだろう。

 さて、私見の当否はともかく、こうした考察ができ、その指導ができることが、表現における国語科の役割だと思う。しかし無い物ねだりをしていてもしかたない。今後、各教科との連携によって進めていくしかないだろう(以前学習院の「言語技術の会」がそうしたように)。
しかし、これまでは、こうした検討はほとんど行われてこなかったのではないか。私が関わっている表現指導の研究会では、この問題に二年ほどかけて検討を重ねてきた。その成果は月刊『国語教育』誌に「聞き書きの魅力と指導法」のタイトルのもとで長期連載中だ。ぜひ参考にしてほしい。