6月 02

週刊「教育資料」2010年5月24日号で以下を書きました。

新学習指導要領で国語科が問われる/鶏鳴学園塾長 中井浩一/

問われる国語科の意味
新たな学習指導要領には画期的な点がある。?全教科での言語活動を求め、?その中心に国語科を位置付け、?高校生の体験、現場調査(フィールドワーク)を重視した――ことだ。
これを正面から受け止めるならば、その衝撃力は、前回の「総合的な学習の時間」の導入以上のものになるはずだ。なぜならここで、「国語科とは何か」が初めて真正面から問われたからだ。国語科とは何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。これが今後、具体的に問われることになる。
例えば、理科や社会のリポートと国語科の表現とは、どう関係しているのか、関係すべきなのか。これに明確に答えられる人がいるだろうか。
ある公立高校の国語科の先生は、祖父母の戦争体験の聞き書きを、叙事詩の形式で書かせた。「調査結果のリポートが目的なら、調査の方法や、調査内容の客観性・資料的価値が重要になるが、それでは社会科になってしまう。だが、詩という文学の形式なら、その人がこう語ったということがあればいい。事実でなくとも思いが表現されていればいい。生徒の主観的な思いを書き込むことも許される」。
つまり、事実や客観性を重視するのが社会科で、思いや生徒の主体性を重視するのが国語科、という棲み分けの主張なのだ。読者のみなさんはどう考えるだろうか。
 
国語科の問題点
私は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた身にとって、今回の学習指導要領には深く頷けるものがある。
私の国語教育への疑問とは、それが事実上、文学教育、道徳教育、マニュアル教育になっていて、本来の使命を果たしていないのではないか、ということだ。
内容を教えようとするあまり、「型」を重視した形式の指導が弱すぎるのではないか。答えを重視するあまり、問いを立てることが軽視されていないか。共同体の空気を読むという感性や感情を学習させられ、集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深めるという論理(=思考)が指導されていないのではないか。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係付けられていないのではないだろうか。

論理の能力が国語科の領域である
それにしても、国語科とはそもそも何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。それに対する私の考えは、学習のナカミを内容と形式に大きく分け、国語科以外の教科はすべて「内容」が中心で、国語科だけが「形式」を主に学ぶ教科だととらえることである。  
内容中心ということは、つまり知識の獲得に重点が置かれることだ。国語科だけが形式を学ぶ教科だということは、国語科は思考・論理のトレーニングや表現の型の学習をする場であり、知識と型の運用能力を獲得する場だということである。
 しかし、世間では形式を学ぶことは極めて評判が悪い。それは空虚なもので、内容となんの関係もなく、装飾的なものでしかない――。そうした理解が一般的だ。だからこそ、「無内容」な国語科にも何か内容を求め、他教科にはないものを探した。その結果が、今の「文学」教育ではないだろうか。

 内容=知識 → 国語科以外の全教科
 形式=思考・論理=能力 → 国語科

ところが、真実は世間の理解とはまるで逆なのだ。形式こそが物事の核心であり、形式なしに内容を学習することはできない。例えば、読解では、テキストの内容(イイタイコト)は、その形式をつかむことで、初めて的確に理解することができる。
逆に言えば、深く正確に考えるには、思考・論理のトレーニングが必要なのだ。つまり、形式の学習とは考える力そのものの習得であり、それが全教科の基礎となる。詳しくは拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書を参照にしてほしい。
先に例に挙げた「表現」でも同じである。内容とは一応別に、その表現の形式を徹底的に指導するのが国語科の役割だ。表現の目的別に、それに相応しい文体と構成の選択をする能力の習得である。それが理科や社会科などでの表現の基礎となるはずだ。詳しくは月刊『高校教育』で連載中の拙稿を読まれたし。

PISA型の学力不足
PISA型の学力不足が問題になっている。どうして日本では問題解決型の教育ができないのか。日本では答えを教え込む内容主義がはびこり、問いを出す力を育てる形式の学習が弱いからである。 
今回は国語科におけるその問題を取り上げたが、これは全教科に共通する。どの教科にも、内容と形式の両面があり、いずれも内容に大きく偏っているのではないだろうか。国語科が本来の使命に立ち返ることは、他教科の内部の形式面を重視することにつながるはずだ。今回の新しい学習指導要領が、私と問題意識を共有してくださる先生方を増やすことを期待している。

6月 02

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。
生徒のレポートは紙面をご覧ください。

6月号の第3回 理科系のレポートと「主観的な感想」

1 自分のテーマを持つ
前回は、木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)で説明されている理科系のレポートや論文の書き方を紹介した。そこでは「原則として『感想』を混入させてはいけない」。これは文科系のレポートでも同じだとされている。
しかし、「主観的な感想」を排除して、本当に良いのだろうか。そもそも「主観的な感想」とは、学習に対してどういう意味を持つのだろうか。この問題を高校生段階で、具体的に考えてみたい。

例に取り上げるのは千葉県立小金高校の総合学習「環境学」。「総合的学習の時間」が導入される五年前から実施された。生物の川北裕之氏と彼を支える教師集団が中心になり、三年生の自由選択科目「生物?」の約半分、一単位分を使い、年間を通した取り組みである。事前学習の後、班ごとに研究テーマを設定して、フィールドワークを含む調査研究をしたうえでレポートをまとめ、発表する。

目を引くのは、事前指導の期間が三ヶ月と長く、そこでも体験学習が中心になっていることだ。休日を利用して、三番瀬を観察し(ついでに潮干狩りも)、近くの里山では竹の間伐を体験する。それらの体験をもとにディベートもする。これは探求学習の「方法」を教えると同時に、予行演習にもなっていたのだろう。
これだけ豊かな事前学習を用意したのは、生徒一人一人が自分にとって意味あるテーマを設定するためだ。「探求学習では、一番難しいのは、生徒自身が興味のある課題(テーマ)をきちんとした形で課題化できるかである」。川北氏は、広すぎるテーマ、一般的なテーマではなく、自分にとって本当に知りたいと思うこと、身近なことで興味があるものを選ぶように指導している。

総合学習は、従来の一方的な知識詰め込み型に対する、問題解決型学習であるが、川北氏はその総合学習にも二種類あると言う。ひとつは教科的(模倣的)研究で、初めから正解が用意されている。これは研究の手法を学ぶには良いが、生徒にとってのテーマの切実さに問題がある。もうひとつは、生活的(変容的)研究で、個々の生徒にとって切実で身近なテーマを取り上げるが、すっきりとした解答が出せるとは限らない。

もちろん両者が必要なのだが、川北氏が追求するのは後者だ。総合学習の目的を、各自が自分の問題意識を深め、自分の進路を切り開くことに設定しているからだ。
この二種の総合学習を比較すると、前者が「答え」と「対象理解」を重視するのに対して、後者は「問い」の深まりと「自己理解」を重視すると言える。木下氏の方法論を考えれば、それがそのまま通用するのは前者の場合であることがわかるだろう。
では後者の場合に有効な方法とは何か。そのレポートはどのようなものになるのか。構成と文体での違いはあるのか。

2 くつがえされる予測
 川北氏の生徒たちのレポートも、構成としては木下方式と大きな違いはない。多くのものが、一テーマの設定理由、二研究の方法、三調査の報告、四まとめ(結論)となっている。最後に「感想」の項目を置いている班があることが違うぐらいだ。

「PETボトルは何処へ?リサイクルの現状と対策?」というユニークなレポートを見てみよう。
1の「テーマ設定理由」を読むと、高校生の身近に溢れている五〇〇mlのPETボトルに目をとめ、それがリサイクルされているのだろうか、という素朴な疑問から出発していることがわかる。
最初は文献で調べ、PETボトル推進協議会で説明を聞く。それが3で紹介される。この段階では、リサイクルはうまくいっていると納得した。リサイクルの意識を高めれば問題は解決できる。
しかし、次に訪れたリサイクル工場で彼らは大きなショックを受ける。工場は悪臭と騒音がひどく、そこで働いているのは知的障害者だった。彼らはリサイクルのクリーンなイメージはうそであること、何か根本が違っていることに気づき始める(4の「いざ、工場へ」)。
そして出会った新聞記事が、彼らの考えを大きく飛躍させることになる。その記事には容器包装リサイクル法の矛盾が告発されていた。PETボトルが予想を上回って回収されたために各地の自治体がその保管に苦労していること、つまり企業が作り出したPETボトルを、自治体が税金を使って分別回収し保管しているという事実(5から)。
こうして彼らは、初めの仮説に変えて、よりよい社会にするためには、義務教育に環境学を取り入れること、再生できないものは売ってはいけないこと、消費者はそれを拒否すべきであること、容器包装リサイクル法は見直すべきであること等を考えるに至る(6の「理想社会」)。

3 成功した学習とは何か
もし調査が最初のPETボトル推進協議会で終わっていれば、それは予定調和の世界のママだった。当初のクリーンなイメージのままのリサイクル観が維持できただろう。しかし、彼らは実際のリサイクル工場を見学し、その甘い幻想を打ち砕かれた。この時初めて、彼らの体を通った問題意識が生まれたのではないか。そしてそれゆえに、普段なら見過ごしたかも知れない新聞記事に飛びつくことができ、一応の結論を出す。しかし、それが当座の結論でしかないことも彼らはわかっている。

この調査全体を通して、彼らの心が激しく揺れ動き、それが彼らの認識を深めるための大きな力になっていることがわかる。こうした調査報告は、「主観的な感想」をきちんと反映したものでなければならないだろう。

図はそのレポート4の部分だが、イラストが彼らの思いを生き生きと伝える。また、傍線1や傍線2が、彼らの主観的思いを率直に語っている。

6の「理想社会」では、遠大な理想を言う事への突っ込みも入る。「ちょっとすぐに手を出せる領域ではないから、ずるいと言えばずるいけれど、考えるのは勝手でしょう」。7の小見出し「ひとまず、本当に今できることは」からは、これが当座のものでしかないとの自覚がうかがえる。

8の「まとめ」は以下だ。「私たちはリサイクル=いいことという関係しか見ておらず、PETボトルをリサイクルに出したという満足感だけでその後のことを考えていなかったようです。それではリサイクルしたとはいえないでしょう。つまり、これからの地球環境のためには何かしたいという意識だけではだめです。そのためのちゃんとした知識とその知識や意識を使う行動力、そして使う場、いわゆる法律が必要なのです。そうしなければいつまでたっても何も変わらないでしょう」。

ここには対象理解だけではなく、自己理解(自己反省)の深まりが確かにある。
最後の9の「感想」から、あるメンバーのコメントを紹介する。「ずっとめんどくさかったけど、やっているうちに手放せなくなってしまった。特に、自分の手の届かない領域の話をするのは、無責任な気がしてもどかしかった。でも私もそのうち社会に出るはずなので、そうしたときに、ここで感じた無責任をそのままにしないで行動しよう」。

しかし、これで終わりではない。川北氏は、このレポートとは別に、さらに「学びのストーリー」を書かせている。一年間にわたる学習の中で、どう行動し、何を学んだのかを書かせるもので、対象理解と自己理解を更に深めていく試みだ。

高校生にとって成功した問題解決学習とは、当初の自分の理解の浅さを思い知り、学んでいく強い意欲が持てた場合を言うのではないか。

4月 13

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

5月号の第二回 『理科系の作文技術』

1 隠れたベストセラー
理系のレポート、論文と言えば、物理学者だった木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)が有名だ。大学研究者の隠れたベストセラーだと言われ、三〇年近く前の本だが、今もよく売れているようだ。二〇〇九年五月刊行の版で、すでに六六版を数えている。作文技術だけではなく、パラグラフ理論(段落の構成法)を日本に紹介したのも本書の大きな功績だ。
それだけではない。木下氏は学習院大学の学長の時に、学習院の小学校から大学までの先生方(国語科・文系だけではなく教科横断)と「言語技術の会」を組織し、小学校から大学までの一貫した言語教育の体系と教科書を作り、日本の教育に対して大きな問題提起をした。これは今回の学習指導要領の完全な先取りだったのではないか。
「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、小学校からしっかりした論理教育を行うべきだ。しかし日本ではそうした教育が放置されている。国語科は文学偏重でその任を果たしていない。したがって、理科系の研究者である彼が、自ら言語教育に乗り出したのである。
私は、木下氏の問題意識に強く共感するし、偉大な先駆者としての彼の活動を高く評価している。また言語技術研究会の成果からは多くを学ぶべきだと考えている。それについては、この連載でも稿を改めて、検討したい。

2 「主観的な感想」を排除する
それにしても、こうした活動は、木下氏が理科系の方だったからこそできたのだと思う。文系、特に国語教育関係者には到底無理だったろう。
『理科系の作文技術』が、圧倒的に支持されたのはなぜだったろう。もちろん、シンプルで誰にでもわかる方法を提示したからだが、それだけではないだろう。理系に限定することで、「心を打つ」ことを目的とする文学的な「美文」の伝統を切り捨て、それまでの文学偏重の風潮に風穴をあけたのではないか。それが爽快感を与えたのではないか。
木下氏は言う。「理科系の仕事の文書」とは「事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまない」。その中には、「原則として『感想』を混入させてはいけない」のだ。
そこで、木下氏は「いい文章」というときに人がまっさきに期待する、「人の心を打つ」「琴線に触れる」「心を高揚させる」「うっとりとさせる」というような性格をいっさい無視する、と宣言する。
以上を前提にすれば、レポートの書き方は以下のような実にシンプルなものになる。1.事実と意見で書くべき内容の精選、2.事実と意見の峻別、3.それらを順序よく明快・簡潔に記述する。3.のためにはイイタイことを「目標規定文」でまとめ、その目標に収束するように全体の構成を練る。ここでパラグラフ理論を使用する。
レポートの構成は序論、本論、結びの組立で、序論では、主題(テーマ)、なぜその主題を取り上げたか、その問題がなぜ重要なのか、問題の背景、問題への取り組みの方法などを書く。
その文体は、事実を書く「記述文」「説明文」、意見を書く「論理を展開する文章」だけで良いことになる。
しかし、これは理科系に限定されるものではない。木下氏は文系の大学生向けの『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー)で同じ事を主張し、「レポートに書くべきものは、事実と、根拠を示した意見だけであって、主観的な感想を排除しなければならない」とし、「この点に、レポートといわゆる作文との大きなちがいがある」としている。
この木下氏の見解は、理系、文系を問わず、多くの大学の先生方のものである。また、多くの高校の先生方の考えでもある。高校生のレポート指導などに熱心に取り組まれている理科や社会科の先生方も、こうした前提で指導されているようだ。そして、そこから排除された「主観的な感想」部分を引き受けるのが国語科の役割になっているのだ。

3 「主観的感想」をどう取り扱うべきか
さて、ここまで来れば、読者のみなさんも、何かおかしいと思われるのではないか。そもそも木下氏は国語科が文学教育になっていることを批判し、論理教育をすべきだとして活動を始めたのではなかったか。それが、結局は、国語の文学化を強めてしまっては本末転倒だろう。
論理教育の一貫性という立場からは、排除された「主観的な感想」をどう考えるべきだろうか。それは論理の範疇ではなく、「文学」に任せる領域になるのだろうか。私は、主観的な思いや感情にも論理が貫徹されていると考えている。それらに取り組み、解決できるような論理でなければ、使い物にならないのではないか。
理系の研究者が、「仕事の文書」から「主観的な感想を排除しなければならない」としても、彼もまた研究中に、激しい心の動揺や高揚感、不安や恐怖などに襲われるのは事実だろう。そして、それが研究に大きな役割を果たしていることも疑えない。したがって、研究者もこの問題を直視すべきではないか。木下氏も、この問題を取り上げた上で、公的文書からは「主観的な感想」を排除すべしと、言ってほしかった。
ただし、誤解のないように断っておきたい。私は木下氏のレポート指導法を否定しているのではない。それは文章を書く上での基本中の基本をわかりやすくまとめたすぐれた原則であり、すべての若者に教育すべきトレーニングだ。
私はそれを肯定し、それを強烈に推進することに賛同した上で、さらにそれを発展させるための提言をしたいのだ。
木下氏の不十分さとは、排除した「主観的感想」の取り扱いについては触れず、それを文学(国語教育)関係者にゆだねてしまったことだ。しかし、事実(客観的側面)と意見(主観的側面)の区別をするためには、主観的側面における「意見」と「主観的感想」の違いと関係について、改めて問わねばならなかったはずだ。
もちろんそれを彼の責任にするのは酷なことだ。彼が依拠した欧米流の文章指導でもそれは無視されていたのだろう。本来それを仕事とするべき国語教育関係者こそが、この問題に取り組むべきだった。
さて、この問題を考えよう。主観的側面、つまり人間の意識にはさまざまなレベルがある。木下氏は、その内で明確に言語化できた主張だけを「意見」とし、他をすべて「主観的感想」とくくってしまった。しかし、その中には心情的なレベルはもちろん、言語化できないもやもやしたレベルの意見もあるのではないか。
発生的に考えれば、人間の意識の最初の段階に心情と意見の分離はない。それらが混然一体の状態があるだけだ。そして、心情が言語化されていく過程で、意見もまた言語化されていき、両者の分離も自覚されていくのではないか。したがって、両者は切り離せない。まず、混沌とした経験を描写する文章があり、その中から意見文が立ち現われてくるのであり、意見文の前に、またそれと並行して、経験や混沌とした感情や想いを丁寧に描写する文章が必要なのだ。
それは事実と心の動きを正確に丁寧に追っていくもので、文学的な美文とか「人の心を打つ」文章とは、別のものである。こうした文章と、意見文やレポートとの関係をしっかりとらえておくことが必要なのだ。
しかし、ここは、一般論をすべき場所ではないし、大学生や研究者を問題にしているわけでもない。私たちの課題は、眼前にたたずむ中学生や高校生である。私が「主観的な感想」にこだわるのは、それが中学生や高校生の学習やレポートでは決定的に重要だと考えるからだ。
実験や文献調査のまとめなら、正確な事実に基づき、正しい論理展開で答えを出すことが求められよう。そこでは正しい思考過程と正解が問われる。そして、それも基本的で大切な能力である。しかし、今の彼らに第一に必要なのは、学校や教室内で完結できる実験や文献調査ではなく、フィールドワーク、体験学習などで、現場に出ていくことではないだろうか。そこでは、「体験」や「心情」が大きな働きをする。

4 高校生にとっての理想のレポートとは
中学生や高校生。彼らは大学の研究者とは違う課題を持っている。彼らは未だ専門家ではなく、大学の研究者でもない。その前の段階にあり、今まさに、将来の進路・進学を決めるという岐路に立たされている。しかし、今の時代が、それを困難にしていることは前回書いたとおりだ。その彼らにとっての緊急の課題は「自分探し」「自分作り」にある。
 そのためには、1.個人的な体験を掘り起こし、個人的な体験の意味を考えさせること、2.現実社会(自然も)の問題にぶつからせ、その問題の本質を考えさせること、3.その問題と、自分の生き方を関係させて考えさせること、が必要だ。
そうした彼らに必要な表現とは、1.の「体験」を描写し、自己理解を深めていく文章であり、2.のように、ある対象について学習する際にも、その対象理解の中で1.や3.のような自己理解をも深められる文章だ。つまり、その対象を取り上げるのが自分にとってどういう意味があるのか、自分の進路・進学とどう関係するのかをも書くのだ。
そうした2.の文章では、先に書いたように、実験や文献調査以上に、フィールドワークや現地での調査・取材こそが重要になってくるはずだ。なぜなら現場には厳しい問題が剥き出しで転がっており、その問題と闘っている人へのインタビューでは、問いかける高校生自身が厳しく問い返されることになるからだ。
当初の仮説、先入観、常識がひっくり返されるような体験。自分自身が否定されるようなショック。そこに強烈な心の動きがおこり、深刻な反省が迫られる。それをしっかりと書くことで自分を見つめ、それによって改めて対象を深く考え直すことが可能になる。
彼らには必要なのは、整った論理や正解の前に、「答え」の見えない「問い」に耐えていく力、そこからより深い「問い」に到達するような力だろう。それによって「自分を作っていく」ためである。
 では、そうしたことが可能になるような指導法、レポートの構成と文体とはどういったものになるのだろうか。それを考えるために、次回から理科や社会科ですぐれた実践をされている方々の生徒作品を取り上げて、具体的に考えていきたいと思う。

3月 17

半年の予定で、月刊『高校教育』誌に「高校での『言語活動』の充実のために」という連載を始めました。新しい学習指導要領の問題提起を受け止めようというものです。
4月号では以下を書きました。

第一回 「国語科」とは何か  (軽視されてきた「形式」)
                         鶏鳴学園 中井浩一

1 新学習指導要領が私たちに問いかける問題

新たな学習指導要領には画期的な点がある。1.全教科での言語活動を求め、2.その中心に国語科を位置付け、3.高校生の体験、現場調査(フィールドワーク)を重視したことだ。
これを正面から受け止めるならば、その衝撃力は、前回「総合学習」が入った以上のものになるはずだ。なぜなら、この本当の意味は(1)全教科に「総合学習」を行うことを求め、(2)従来の教科の壁を壊し横の連携を求め、(3)「国語科」とは何かを初めて真っ正面から問題にしたからだ。

新学習指導要領のこの大きな変化は、もちろん現在の教育課題の大きさ、深刻さ、緊迫度に対応するものだろう。しかし、前回の「総合学習」の導入時と同じことが懸念されるのも事実である。つまり、条件面(人、物、金)の不十分さである。学校内の体制、教育委員会の支援体制が弱いのではないか。何よりも、学校現場の先生方の意識と能力に大きな疑問符がつく。矛盾はさらに大きくなるかも知れない。

しかし、現状を何とか変えて、より良い教育を実行しようとしている管理職や一般の先生方には、大きなチャンスであり、追い風であることは間違いない。これから半年間の本連載では、そうした方々を支援するために、具体的な課題のいくつかを明らかにし、その解決の方向を示したいと思う。「総合学習」が導入された時にも、本誌に「総合学習の現状と課題」を連載させていただいたが、それと同趣旨のものだ。

2 今の高校生の課題は何か。

校長先生以下、管理職の方々にとって、学習指導要領が変わるときこそ、学校現場を変えていく大きなチャンスだと思う。今回は、教科の厚い壁を壊し、全教科の横の連携をうながし、学校全体でその教育目標に取り組むことを求めている。

 だからこそ、それぞれの学校の教育課題、教育目標を再度確認する必要があるし、そこから始めるべきだろう。それぞれの学校の課題は、読者のみなさんに考えていただくとして、私は少し一般的な話をしたい。

今の高校生に広く見られる問題とは、将来像がなく、親からの自立が進んでいないことだろう。それゆえに彼らは「自分」に自信がなく、他人に評価されないと不安でたまらなくなるようだ。その依存心、依頼心はますます強まっている。

 こうした原因としては、1.「豊かな社会」が実現し、社会自体が目標を見失っていること。2.体験の貧弱さ、現実社会の問題の見えにくさ、親子の一体化。3.自己決定=自己責任が求められる厳しい社会になったが、それに相応しい教育が行われていないこと、などが挙げられよう。

 そこで、根本的な対策が問われるのだが、まず教育目標としては「自分作り」を高く掲げなければなるまい。今の高校生は「自分」が弱い、または「自分」がないのだから、それを作り上げるしかないのだ。世間では「自分探し」なる言葉がはやっているが、「探し」て見つかるようなレベルのものではあるまい。「自分」とは、高校生一人一人の問題関心、「問い」、テーマのことである。それを獲得するには厳しく長い学習の過程が必要だろう。

 では、そのためにはどうしたらよいのか。1.個人的な体験を掘り起こし、個人的な体験の意味を考えさせること。しかし、1だけでは不十分だ。2.現実社会(自然も)の問題にぶつからせ、その問題の本質を考えさせること。3.その問題と、自分の生き方を関係させて考えさせること。

 以前は?だけでも自分のテーマを見いだすことができたが、現在はそれは難しい。だから現実や社会の現場に連れ出し、そこで現実と格闘している人々と「出会う」経験をさせることが必須になっている。

 こうした背景を考えるとき、今回の学習指導要領の有効性、その「追い風」の意味が明確になるだろう。私もまたこの連載で、「自分づくり」の方策を具体的に明らかにしていきたい。

3 「国語科」とは何か
 
私自身は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。そして世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた。そうした私には、今回の学習指導要領は深く頷けるものがある。

私の国語科への疑問とは、それが事実上「文学」教育、「道徳」的な教育、マニュアル教育になっていて、本来の使命を果たしていないのではないかということだ。内容を教えようとしていて、形式(「型」の重視)の指導が弱すぎるのではないか。「答え」が重視され、「問い」を立てることが軽視されていないか。感性・感情(共同体の空気を読む=集団と一体)を学習させられ、論理=思考(集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深める)が指導されていないのではないか。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係づけられていないのではないか。

以上国語科の問題として述べたが、実はこうした問題は他教科でも同じであり、そうした矛盾が国語科の特殊性故に、国語科に集中する面があるのだろうと思う。

今回の学習指導要領で、そこに初めてメスが入ることになる。良いことだ。全教科の言語活動を国語科が指導する。そんな力は、今の国語科にはないだろう。その現状を、まずはしっかりと見つめ、学校全体で言語活動への取り組み方を考えていかなければなるまい。

それにしても、国語科とはそもそも何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。私は学習の事柄をその内容と形式に大きく分け、国語科以外の教科はすべて「内容」中心、つまり「知識」の獲得に重点がおかれ、国語科だけが「形式」を主に学ぶ教科ととらえるのが正しいと思う。「内容」中心ということは、つまり「知識」の獲得に重点がおかれることだ。国語科だけが「形式」を学ぶ教科だということは、国語科は「思考・論理のトレーニング」「型の学習」をする場であり、「知識」の「運用能力」を獲得する場だということだ。

 内容=知識 → 国語科以外の全教科
 形式=思考・論理のトレーニング=能力 → 国語科

 しかし、世間では「形式」は極めて評判が悪い。それは空虚なもので、内容となんの関係もなく、外的で装飾的なものでしかない。そうした理解が一般的だ。(だからこそ、「無内容」な国語科にも何か内容を求め、他教科にはないものを探した。その結果が、今の「文学」教育ではないだろうか。)

ところが、真実は世間の理解とはまるで逆なのだ。形式(「型」)こそが物事の核心であり、形式なしに内容を学習することはできない。例えばテキスト理解だが、その内容(イイタイコト)は、形式を読むことで、初めて的確に深く理解することができる。逆に言えば、深く正確に考えるには、思考・論理のトレーニングが必要なのだ(詳しくは拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書を参照されたし)。

どうして日本では問題解決型の教育ができないのか。内容主義は「答え」を教え込むことになりやすく、「問い」を出す力を育てる形式の学習が弱いからだ。これは国語科だけの問題ではない。実は、どの教科の中でも、内容の面と形式の面があり、いずれも内容に大きく偏っていると言える。国語科が本来の使命に立ち返ることは、他教科内部の形式面の重視につながるだろう。

実は、この形式軽視の問題は、もっと基本の部分にまで広げて考えなければならないだろう。生徒の生活習慣、学習習慣、挨拶や礼儀、ルールや規律などだ。それがここまで崩れてしまったのはなぜなのか。もちろん、一部にはこうした形式を重視し、その指導に勤める方々がいる。しかし、その指導もまた「内容主義」的に、上からの押しつけ的になっていないだろうか。まことに、病は重いのである。

4 理科や社会のレポートと国語科の表現とはどう関係するのか

話をもどそう。国語科とは何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。これが今後、具体的に問われることになる。例えば、理科や社会のレポートと国語科の表現とはどう関係しているのか、関係すべきなのか。これに明確に答えられる人がいるのだろうか。例えば、事実や客観性重視が理科や社会科、「思い」や生徒の主体性重視が国語科だ、という見解がある。読者のみなさんはどう考えるだろうか。
 
ディベートについてはどうだろうか。社会科や英語で取り組まれているようだが、国語科の関わりはどうか。理系や英語などではレポートなどの指導でパラグラフ・ライティング(パラグラフ理論)を取り入れるところが多いようだが、国語科では無関心なようだ。こうしたことはどう考えたらよいのだろうか。

次号からは、こうした点を取り上げて、論点を整理し、具体的な解決策を提言していきたい。実は、私は一〇年以上にわたって高校段階の表現指導の研究会を組織してきた。そこでは国語科だけではなく、理科、社会、数学、英語、家庭科などの先生方とともに、研鑽を重ねた。その成果もお伝えできればと思う。

1月 19

『学校マネジメント』(明治図書)2月号に寄稿した。
2月号では特集「政権交代で、教育政策は何が変わるか」が掲載されている。
私は「教育委員会制度」について執筆した。
タイトルは「国民的な大議論を」で、以下である。

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政権交代の時代
 政権交代が実現した。民主党を中心とする連立政権は、官僚に依存しない政治主導を掲げ、マニフェスト(政権公約)の実現に全力であたっている。来年度から高校の授業料を無償化し、教員免許更新制を来年度限りで廃止する予定だ。また、教育委員会制度や学校運営のあり方も検討対象に挙がっている。もちろん、教育行政の改革は最後に回るので、この政権が最初の二年を持ちこたえられなければ実現することはないだろう。今の民主党政権もいつ倒れるかは不明だ。元に戻ることを願い、様子見に徹している人も多い。しかし、自民党政権時代に戻ることはない。これからは、政権交代が前提で、すべてが動いていくことになるのだ。こうした大きな転換期には、従来のあり方に囚われず、問題を直視し、本質的に議論して克服する方向をさぐるべきだろう。

マニフェストの問題
 これまでの日本社会は、基本的には上下下達の一律で単一な「ムラ」社会だった。それが有効に機能して高度経済成長が可能だった。確かに東西冷戦下では、その言論は二分されたが、それぞれの陣営内部では、画一化のタコツボ化は進んでいた。では、冷戦体制が崩壊後、マスコミや思想界、私たちの社会は多様な豊かさを持つに到っただろうか。否、むしろ、マスコミや世間の動向は、いつも一色に染め上げられるようになっている。小泉政権への対応もそうだった。今の民主党政権に対しても、同様だ。

 総選挙での報道では、マニフェストのあり方を根本から問題にするような意見はほとんど見られなかった。その意義は、それまでの一般的抽象的で無内容な標語を排し、現実の具体的な政策を、具体的なスケジュールと共に語るようになり、その達成度がチェックできるようになったことだ。しかし、それゆえの大きな課題もあるのだ。それは、根本理念が見えにくく、本来「手段」でしかないものが「目的」化しやすいことだ。「戦術論」ばかりになり、「本質論」が軽視されやすいことだ。今回の場合は「高校の授業料無償化」がそうで、一般的に格差是正の目的からこうした政策が出てくるのはわかるが、「高校教育」には日本の教育全体の矛盾が集約されていることへの洞察がない。教育行政全般の改革でもそうだ。

教育行政の改革
 民主党のマニフェストでは、地方分権の考え方のもと、特に文科省→教育委員会→学校という上意下達の仕組みを改め、それぞれの自律性を拡大しようとするねらいがある。「中央教育委員会」をつくって文科省を廃止する。教育委員会の教育行政機能は首長部局に移し、「教育行政全体を厳格に監視する『教育監査委員会』を設置する」。さらに「公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する『学校理事会』が運営することにより、保護者と学枚と地域の信頼開係を深める」。「教育監査委員会」は、教育が首長や政治からの距離を取れるようにとの意図から構想されている。

 私は、改革の大きな方向性はこれで正しいし、現状の課題に対応した物だと評価する。しかし、これは大きな方向でしかなく、細部を詰めていく中で、沢山の複雑な問題が浮き彫りにされるだろう。例えば、歴史教科書の採択などで首長がどこまで関わることが正しいのか。

 実は、地域の教育委員会や学校が自律できないでいるのは、制度の問題ではない。例えば、全国学力テストは強制ではないのに、参加しないのが犬山市だけなのはなぜか。犬山市のように自主的なカリキュラムや自主教材を作成している市町村が少ないのはなぜか。実は、こうした地域の教委の改革を阻害しているのは、文科省ではなく県レベルの教育委員会であることが多い。

 こうした問題は、やはり歴史を遡らないと見えてこない。戦後の「第二の教育改革」では、そもそも文科省を廃止し、それぞれの地域に自律した教育委員会と学校を作ろうとした。また、政治から距離を置けるように、公選制の教育委員による合議的な委員会を想定したのだ。この上下関係からの自律性、政治からの独立性は、今こそ実現しなければならない目標だろう。

 それがつぶされたのは、東西冷戦下での、国内の保守と革新の政治対立だった。それゆえに、上意下達のシステムが強化され、各教育委員会と学校の自律性は失われた。地域の教育委員会や学校は上ばかりを見るようになり、県の教育委員会は「平等」の名の下に、県下の教委を一律に統制することを目標にしている。

国民的な大議論を
 それは教育委員会や学校だけの問題ではない。最大の課題は、国民一人一人の意識の問題だ。「お上だのみ」の体質であり、権利に対応する責任を引き受けないあり方だ。文科省の権限を縮小することを求める一方で、「いじめ自殺」などが起こると、マスコミやそれに煽られた世論は一斉に文科省を攻撃する。しかし、その責任は、第一に関係する児童とその保護者に、第二にその学校に、第三に地域の教育委員会にあるのではないのか。

 文科省に依存し、上から一律の指導を求めているのは、マスコミや国民自身ではないか。そうしたあり方を根本から変えなければならないだろう。今後は、改革も一律ではなく、各自治体や各学校が、それぞれの多様な制度で創意工夫することを認めていけないだろうか。「教育監査委員会」や「学校理事会」も、手を挙げたところで、まずやってみるような方式は取れないだろうか。

 いずれにしても、事は、半世紀に一度の大改革である。国民一人一人の意識の変化を促す必要がある。一九八〇年代に、中曽根政権が行った臨時教育審議会(臨教審)は、国民的な大論争を呼び起こした。それに匹敵するほどの国民的な議論が起こらなければならないだろう。来年度から、そうした場を設置して、国民的な議論を喚起していくような仕掛けが必要ではないか。