4月 23

4月以降のゼミの日程についてはすでに連絡しました。

今回は、5月読書会のテキストをお知らせします。

ゼミの日程を再度以下に出しておきます。

参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1.5月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
5月の集中ゼミ(5月7日、8日)

5月28日(土)読書会と「現実と闘う時間」

6月11日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  26日(日)読書会と「現実と闘う時間」

7月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

8月に合宿(8月18日から21日)

                                        

2.5月の読書会テキスト

テキストは
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』です。
高橋健二訳(新潮文庫)で読みます。岩波文庫ではないので間違えないように。

20世紀始めの頃、ドイツの青年シンクレールが友人デミアンに導かれて魂の遍歴をする「成長物語」(ビルドゥングス・ロマン)です。
最後は第1次世界大戦の中、ヨーロッパが崩壊していき、デミアンもその中で死んでいきます。
シンクレールが、そこからの自分とヨーロッパの再生を確信するところで、物語は終わります。

この本は、私が思春期で苦しかった時、私を支えてくれた本です。
私は、10代の激しい反抗期の中、周囲になじめず孤立していました。
周囲や世間をバカにし嫌悪していましたが、何よりもそういう私自身を持てあましていました。
自分の毒で自家中毒を起こしていたと思います。

デミアンはそんな私をそのままに肯定してくれました。
いや、ただ肯定するだけではなく、その道をさらに先に進むこと、その果てまで突き進むように強く求めるのでした。

「私はただ、私自身の中から外へと現れ出ようとするものを、生きようとしたに過ぎない。
それがなぜあれほど困難だったのだろうか」
は当時の私の目標、救いでした。

それは今でも、私の根底をなしていると思います。
その後20代では反文化(カウンターカルチャー)の運動、共同体運動、エコロジー運動、身体性の運動、瞑想などの運動と関わりました。
その決定的な挫折があり、それらの運動の限界と自分への絶望を経て、30歳を前にしてヘーゲル哲学の学習を決意し、
その後ヘーゲルやマルクスを学ぶことで自分を作り直す作業を経て、今日に至っています。

今、この本を読みなおし、それを現在の立場から検討したいと思います。

また、昨年の秋から聖書の学習会を行ってきましたが、そうした関心の発端も、この本にあります。
それは旧約のカインとアベルの物語の新たな解釈で、カインの印の意味、カインの再評価です。
デミアンはこう語ります。
「カインとその一族は、才知と大胆さを持ち、周囲の人々はそこに不気味さを感じて恐れていた。
そして彼らが受けた恐怖への復讐として、カインとその一族に兄殺しという罪を着せ、『印がある』とした」。
それはシンクレールの魂という泉に投じられた一石となり、それが波紋を広げていきます。

当時、スタインベックの『エデンの東』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にものめり込みましたが、
すべては同じ関心でした。人間の「悪」をどうとらえるのか。

旧約と新約の読書会も終わるところで、それらも再考しておきたいのです。

4月 11

先に、5月と6月の読書会では
『アウグスティヌス講話』山田晶著 (講談社学術文庫)を
5月と6月の2回に分けて読むとお伝えしました。

すいませんが、変更させていただきます。

このテキストは取り上げますが、秋に回します。

5月から夏までは、
アダム・スミスの『国富論』中公文庫、
ヘーゲルの『法の哲学』(中公クラシックス)、
マルクスの唯物史観(『経済学批判』の序言)、
労働過程論(『資本論』の第1部第3編第5章の第1節)の読み直しと、
これらについてこのメルマガに発表してきた拙稿の検討をします。

その予定は決まり次第、連絡します。

5月の連休明けからはドイツ語でヘーゲルやマルクスを読むことも再開します。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加を可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

今回は、まず5月の集中ゼミの案内をします。

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5月の集中ゼミ

(1)日時と場所

5月8日 午前10時から正午、午後1時より午後5時まで。
東京の鶏鳴学園にて

午前だけ、
午後だけでも参加可能。

(2)料金
午前だけで2千円
通し参加で5千円

(3)テキスト

マルクス『経済学批判』の序言や
マルクスの唯物史観についてまとめた文献などを読みます。
また、私の2つの論考(鶏鳴会通信152号に掲載)
 1.ヘーゲル哲学は本当に「観念論」だろうか
   マルクスのヘーゲル哲学を観念論とする批判を批判しました。
 2.人はいかにして自立できるか ?マルクスの「思想的履歴書」─
も読みます。

詳しいことは問い合わせてください。

3月 29

4月以降のゼミの日程についてはすでに連絡しましたが、
5月には集中ゼミ(5月7日、8日)をおこなうので、
5月14日(土)に予定していた文章ゼミと「現実と闘う時間」は中止にします。

また4月読書会のテキストが決まりました。

ゼミの日程を、再度以下に出しておきます。
参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1.4月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
4月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

5月の集中ゼミ(5月7日、8日)

5月28日(土)読書会と「現実と闘う時間」

6月11日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  26日(日)読書会と「現実と闘う時間」

7月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

8月に合宿(8月18日から21日)

                                        

2.4月の読書会テキスト

昨年秋から行ってきた聖書の読書会のまとめをします。

テキストは
(1)『新約聖書』(日本聖書協会 新共同訳)の「パウロ書簡」から「ロ?マ人の信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙 1」と
(2)『ふしぎなキリスト教』橋爪 大三郎、大澤 真幸(講談社現代新書)です。

『新約聖書』(日本聖書協会 新共同訳)の「パウロ書簡」は、キリスト教そのものです。その「ロ?マ人の信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙 1」は3月の読書会でも取り上げましたが、再度、丁寧に検討したいと思います。
特に「ロ?マ人の信徒への手紙」の2章、3章、7章と、「コリントの信徒への手紙 1」の13章を読んで考えてください。

『ふしぎなキリスト教』は、まとめに良い本です。
基本的なこと(普通は大前提で問われることがない)へのたくさんの突っ込みがあり、
論点が多く出されています。
その論点は、旧約と新約聖書についてよく考え、整理した上で出しているので、それ自体から学ぶことが多いです。
これらの論点に対して、自分の考えを出すことで、まとめにしたいと思います。

2月 27

梅が咲き、早桜も咲き、春が近づいてきました。

4月から8月のゼミの日程が決まりましたから、それをお知らせします。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。
申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

読書会テキストは決まり次第、連絡します。

1.4月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
4月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

5月の連休中に集中ゼミを予定(4月29日、30日か、5月7日、8日)
希望者は前もって連絡ください。

5月14日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  28日(土)読書会と「現実と闘う時間」

6月11日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  26日(日)読書会と「現実と闘う時間」

7月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

8月に合宿(8月18日から21日)

2月 16

旧約聖書読書会の感想 その5

昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。

参加者の感想を掲載します。

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◇◆ 5.神を必要とし、人間になること 塚田 毬子(大学生) ◆◇

 旧約聖書は大学の授業で読んだことがあった。講読ではなく、旧約と新約の有名な個所を半期でざっと
味読する形の授業だった。その授業のねらいは西洋文化の根底を知ることであったので、聖書をあらゆる
文化の前提としてきたヨーロッパと、日本をはじめとする東アジアの文化のあまりの違いに異文化理解の
難しさを痛感した経験だった。鎌倉時代になってようやく宗教が民衆に根付き始めた日本と比べるとレベルが
違いすぎて、かなわないと思った。
今回改めて旧約聖書に接し、特に出エジプト記を興味深く読んだ。まず、モーセとアロンは一心同体であると
感じた。モーセはヤハウェの言葉を聞くが、民に語る言葉を持たないため、モーセの口の役割をアロンが担う。
モーセが抽象であり、アロンが具体である。正確には、モーセが思想であり、アロンはその表象であると言える。
その重要性が顕著に表れるのが28章の「金の子牛事件」であり、モーセがシナイ山に登り行方知れずになった途端、
民は分かりやすいイメージを求め、禁じられている偶像を作りそれを崇め奉るなど急に堕落し始める。
モーセが直接ヤハウェの声を聞くことができるため抽象のほうが優位なのだが、具体を伴わないとヤハウェと
民を繋ぐことができない。両者がバランスよく共にあることが必要とされていると思った。出エジプト記では何度も、
モーセが民に語っているかのように書かれているが、正しくはアロンが口の役割を担っているはずので、
アロンの記述の省略に違和感を覚えた。
また、4章16節にモーセがアロンの神となる、とヤハウェが明言しているのが気になった。出エジプト記中、
契約はヤハウェとイスラエル民族の間で成立するのだが、実際にヤハウェの言葉を聞くことができるのはほとんど
モーセのみであり、民はむしろ神の言葉を聞きたがらない。ましてやヤハウェ自身がアロンの神はモーセであると
言うのはどういうことなのか。23章のエテロの助言は、宗教を民を統治するための道具にしているように感じられた。
ここでの契約関係は人と神の一対一の関係ではなく、神と民の間に代表者を媒介とする。また、民がヤハウェを必要
としているとはほとんど思えない。民はヤハウェに連れられてエジプトから出てくるが、荒野での過酷さに
事あるごとにモーセに文句を垂らし、エジプトでの奴隷生活の方がましだと愚痴る。しかし重要なのは、
モーセとヤハウェの関係よりも、民がヤハウェを真に必要とすることであると思った。民族全体ではなく
民の一人一人と神との間に契約関係が結ばれれば、民を統治しようとする代表者は必要が無いので民によって
殺されてしかるべきだと思った。民は荒野での苦しい生活よりも快楽のあったエジプトでの奴隷生活を望むが
それは明らかに間違いで、どんなに過酷だろうと荒野に出て、神を必要としなければならないということだと思う。
イスラエル人を奴隷として痛めつけてきたパロは、蛙・虱・虻等々の嫌がらせをされてもイスラエル人に
暇を出すのを頑なに拒み、家臣に「いつまであいつにかきまわされるのですか」と冷静に忠告されるほど
何回も同じことを繰り返しているのだが、パロの心を強情にしているのはヤハウェであり、ついにパロに
出エジプトを許させたのもヤハウェであり、エジプト軍にイスラエル人を追って来させて海に沈めたのも
ヤハウェである。全ての黒幕はヤハウェであるので、人間の自由意志といっても神の自作自演のようではないか
と思った。あとは、金の子牛を作って大騒ぎしている民を見たヤハウェが怒りに任せて民を皆殺しにすると言う
のをモーセがなだめるが、山を下りて実際に騒ぎを目の当たりにしたモーセも怒りが燃えてしまい、
ヤハウェ直筆の石板を投げつけて粉砕する場面を個人的には最も面白く読んだ。

 読書会に参加し、大学の授業での聖書の読み方は一般教養としての知識に過ぎなかったと感じた。
それに対し中井さんの読み方は、中井さんの立場から聖書を考えるもので新しい発見があった。それまで私は、
神と人間は親子のような関係であり、神は自らが創造した人間がどれほど愚劣な行いをしても、それを見捨てず
愛を持って接するという印象を持っていた。しかし旧約の神は妬む神であるということ、そもそも契約は
対等でないと結べないこと、契約関係は双方向の関係であるので神も人間を必要としているということを学んだ。
神も人間を必要としているというのは、神は人間のことを忘れたり思い出したりするので初めはそんなことが
あるのかと思ったが、確かに人間を必要としていなければ妬むこともないだろう。30章14節で他の神を崇拝する
ことを禁じていることからも、旧約の時点では拝一神教であり、数多く存在する神からヤハウェだけを神に
「選ぶ」ことが求められていると思った。また、新約聖書での「愛」は、隣人愛など慈悲深いイメージだが、
旧約の段階で「愛」と呼べそうなものはほとんど執着であると感じた。
 旧約聖書との関連で読んだヘーゲルの『小論理学』の一部分も面白かった。ヤハウェが、善悪の木の実を
食べたアダムとエバのことを「われらの一人のように」なったと言うのは、認識は神的なものであるからだ
ということ。生命の木の実を人間から遠ざけたため人間の命は有限であるが、認識は無限であるということ。
中井さんの「原罪のただ中に救済がある」という言葉はまだ完全に理解できていないが、善悪を知ったことに
よって人間は動物とは異なる存在になり、自己内二分があるから精神を再び統一へ復帰させることができるのだと
把握した。それこそが最も人間的な営みであると感じた。
 イザヤ書については、中井さんが「イザヤ書こそが旧約の核心である」と仰っていたが全くついていけなかった。
自分で読んでいても途中で飽きて投げ出してしまっていたが、時間をかけて全体を掴みたいと思う。