11月 23

7月の読書会のテキストは『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、明日から4日に分けて、掲載します。

『痴呆を生きるということ』は感動的な本でした。
私の思いは、読書会の案内として、メルマガ(6月25日配信)の号外に、書きました。
読書会の記録の掲載の前に、再録します。

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◇◆ 人間そのものの本質に迫る本 『痴呆を生きるということ』 ◆◇

『痴呆を生きるということ』 (岩波新書847) 小澤 勲

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出版社/著者からの内容紹介

痴呆老人は,どのような世界を生きているのだろうか.

彼らは何を見,何を思い,どう感じ,
どのような不自由を生きているのだろうか.

痴呆老人の治療・ケアに20年以上携わってきた著者が,
従来ほとんど論じられてこなかった痴呆老人の精神病理に光をあて,
その心的世界に分け入り,彼らの心に添った治療・ケアの道を探る。

(アマゾンより引用)

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これは素晴らしい本です。
認知症という特殊な病を理解するために
大いに有効なだけではありません。

これは、人間そのものの本質に迫っている本なのです。

認知症を、外から理解する本は多数あります。
この本は、そうした本ではなく、
認知症をその内側からとらえようとするのです。

徹底的に患者本人に寄り添い、当人の心の世界を、
当人の側から理解しようとします。

彼らはどのような世界を生きているのか。
それを理解し、その世界をともに生きようとします。

この本は、認知症の人の世界を解き明かしただけではありません。
それを通して、すべての人間の本質、社会と家族との関係で
生きることの本当の意味を浮き彫りにします。

それほどの深さと広がりを持った本です。

最近、私の父が入院しました。

腰をいため、食事がとれなくなったからです。
そして入院生活の中で、認知症の症状がはっきりとわかりました。
約2年前から、認知症は進行していたようです。

私が気づくのが遅すぎました。しかし、そんなもののようです。

父と一緒に生活し、介護していた母も、父を認知症だとは思わず、
「寝ぼけている」とか、「意地が悪くなった」とかと、こぼすだけでした。

私の妻の母は20年ほど前から認知症で、
その義母との関係で私もそれなりに認知症を理解しているつもりでした。

しかし、そうではなかった。
直接の当事者か否かでは、それほどに違うようです。

今は、少子・高齢化社会です。
家族が認知症になり、その介護で悩み苦しんでいる方が
多いことと思います。

他人ごとではなく、また介護側としてだけではなく、
私たち自身が認知症になる可能性も高いのです。

本書をゼミの7月の読書会のテキストにし、認知症への理解を深め、
人間の本質を考えてみたいと思います。

最後に本書を読む上でのアドバイスを。

本書は、全体としてのまとまりが弱く、読みにくい部分があります。
特に本論である、3章?5章の関係、
特に3章と4章の関係がわかりにくいと思います。

一番大事で核心的なのは3章です。ここだけでも読めますし、
ここをしっかり読むだけでも、圧倒的に学べると思います。

3章と4章の関係については、本書の続編である『認知症とは何か』
(岩波新書942) を読むとわかります。

つまり、大きく言って、中核症状(4章)と周辺状況(3章)との
区別なのだと思います。
本書に感動した人には、『認知症とは何か』を併読することをおすすめします。

11月 08

11月の読書会について

1.日程と場所
11月24日(土)午後5時から2時間ほど
鶏鳴学園にて

2.テキスト
スピノザ著『エチカ』
「中公クラシックス」版で読みます。
以前出ていた「世界の名著」版と同じです。
岩波文庫にも入っていますが、便宜上、同じテキストでそろえます。

「エチカ」とは「倫理学」のこと。
つまり、「いかに生きるべきか」に対するスピノザの回答書です。

3.今回の範囲
テキストの全体は5部からなる大部なものですが
今回の範囲を1部、2部、3部だけとします。
特に、第1部を詳しく考えます。

4.スピノザについて
スピノザは近代を代表する哲学者の1人です。
17世紀のオランダ(オランダの全盛時代)に生きた、ユダヤ人。
デカルト哲学を発展させ、カントやヘーゲルにつなぎました。
初めての「体系的」な哲学書であり、ヘーゲル哲学の先駆者です。

何か古いような印象を与えるかもしれませんが、最近また評価されています。
それは「身体性」論者の先駆者としてです。身体、感情などについて、
実践的な考察が多いのです。

5.ヒント、手がかりを求めるために
参考書として
(1)ヘーゲルの大論理学の本質論のスピノザ論
(寺沢恒信訳『大論理学2』以文社219?233ページ)、
(2)ヘーゲルの大論理学の概念論のスピノザ論
(「概念一般について」の前半、牧野訳では23?37ページ)、
(3)波多野精一著『西洋哲学史要』のスピノザ論

以上を
読んでおくと、
考えるヒントがもらえるでしょう。
それぞれ10?20ページほどで読めます。

私にとっては、ヘーゲルが大論理学で述べているスピノザ批判を、
現場で直接に確認することが目的です。

参加希望者は、事前に申し込みをお願いします。

9月 28

大学生・社会人のゼミでは、この夏も八ヶ岳で3泊4日の合宿を行いました。
 
 4日間の参加者は延べ6人。
 他に、報告会だけの参加が3人(2人はウェブで参加)。

 本日は、私が今回の合宿で考えたことを掲載します。

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◇◆ 「すべてが展開されつくさない限り」  中井浩一 ◆◇

 毎年夏に行われる3泊4日の合宿だが、今年の合宿では「現実と闘う時間」が
2日目と3日目の晩に行われた。

 「現実と闘う時間」とは大仰なタイトルだが、各自が現状報告をし、それについて
参加者が意見交換をするものだ。このネーミングは牧野紀之によるものだが、
「現実と闘う時間」とはそのものずばりのタイトルであり、これ以外の言葉を
使う気にはなれない。

 さて、今回の合宿の「現実と闘う時間」では、批判する人とされる人の
2組のことが印象に残った。

 松永さんはA君についてしつようにせまり、突っ込みを入れ続けた。その結果、
A君の本音が表現された。私の予想もしていなかった発言だったから驚いた。
今回、A君が自分の本音を人前で言葉に出したことは、彼の人生で大きな一歩だったと思う。
それまでに3年ほどがかかっている。

 B君は、ある参加者の生き方をしつように批判し続けた。その人の「本気」の弱さ、
表面的な活動、自立の覚悟のなさ、過去の成果へのこだわり。その参加者の停滞も数年になる。

ここから2つのことを考えた。

(1)自己理解と他者理解は1つであり、自己理解とつながらない他者理解は難しい。

 今回の松永さんとB君による他者批判は、的確なものだったし、相手の自己理解を
進めるために役立ったと思う。それがなぜ可能だったかを考えると、松永さんとB君にとって、
その他者批判が自己理解のためにどうしても必要だったからだろう。

 相手と自分とで、人間のタイプが近かったり、おかれた状況が似ていたりする。
その他者への批判は、自分が先に進むために避けがたいものだった。そうした批判には
真剣さ、力があり、そうでない批判とは違う。

 今回の合宿で、私には松永さんやB君のような、的確な、あるいは熱のこもった
他者批判はできなかった。それが私の今の自己理解(課題)と直結しないからだ。

 このように、私一人の力にははっきりと限界がある。その足りないところは、
多様な参加者が、それぞれの自己理解をかけて、真剣に他者批判をしていくしかない。
だからこそ、合宿をするのだし、そうした場では集団が集団としての力を発揮できる。
リーダーとは、そうした集団の力をフルに発揮させられる人のことだろう。

(2)「すべてが展開されつくさない限り」

 1つ疑問がある。A君が今回の告白をするまでに3年がかかっている。
もっと早く、今回のような本音を引き出せなかっただろうか。
もっと早く、問題を深められなかっただろうか。
3年もかかっている点に、私の側の問題はないだろうか。

 私に、もちろん問題はある。有限で、特殊な性格、経験を基礎として生きているから、
理解できることにおのずから限界がある。私の今の課題に近い事柄には反応できても、
そうでないことへの関心は弱くなる。

 しかし、多少の幅はあるにしても、大枠では、A君の告白までに3年かかったことは
しかたないと考えている。それは他の誰が関わったとしても、大きな差はないと思う。
本人の自覚、覚悟の問題だからであり、そのためには、本人が自分自身を展開していなければ
ならないからだ。

 最近よく、ヘーゲルの以下の言葉を思い出す。

「その段階でのすべてが細部まで展開されつくされない限り、つまり
その段階の頂点まで進まない限り、それが滅び、新たな段階が現れることはない」。

 これはヘーゲルの言葉だが、マルクスの考えでもある。マルクスは社会の発展を
この言葉で理解し、資本主義の没落と社会主義の生成の必然性を、この考えでとらえようとした。
個々の前提条件に間違いがあったからそれは実現しなかったが、大枠の考え方は正しいと思っている。
そして、これは社会についてだけではなく、個人の成長についても言えるだろう。

 「その段階でのすべてが細部まで展開されつくされていない」時点で、
「その段階の頂点まで進まない」段階で、一っ跳びに、その先に進むことはできるのだろうか。

 私は今、それはできないと考えている。
どんなにその人にやる気があり、本人及び周囲の認識能力が高くともだ。

 存在の運動を、認識の運動が超えることはできないからだ。
私たちにできることは、存在の運動とともに認識の運動を進め、存在の運動が先に進むように
働きかけ続けることだけだ。「その段階の頂点まで進む」まで、それを後押しするだけだ。

 それには時間がかかる。辛抱が必要だ。そして、その辛抱を根底で支えるのがこの信念であり、
信念を支える認識能力だろう。私は、その作業を引き受けられるように努力したいと思っている。
(2012・9・17)

9月 27

大学生・社会人のゼミでは、この夏も八ヶ岳で3泊4日の合宿を行いました。
 
 4日間の参加者は延べ6人。
 他に、報告会だけの参加が3人(2人はウェブで参加)。

 参加者の中から2人の振り返りと、私が今回の合宿で考えたことを掲載します。

 本日は、2人目の振り返りの文章を掲載します。

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◇◆ 絶対に嫌だ!  B ◆◇

 今回の合宿は論理学漬けであった。原書では本質論の現実性(の一部分)を
丁寧に読み、日本語では本質論全体を一気に読んだ。そして、「現実と闘う時間」
(以下、報告会)との相乗効果もあって、改めて、ヘーゲルを読む目的が分かってきた。

 それは、本質論のレベルを超えることであり、悟性的思考のレベルを超えることであり、
永久に抜け出すことのできない悪無限の領域を突破することである。因果関係や相互関係は、
本質論の最高段階ではあるが、このループする世界で藻掻いていても、仕方がない
(現に、論理学と報告会の「相乗効果」などという表現しか今の自分には出来ない)。

自分にとってこの目的は決定的な動機であることが、具体的に、身につまされるようにして、
改めて分かった。

 具体的にとは、第一に、仕事上、ずっと目標にしてきた先輩の限界の克服である。
これは今までも、節目節目でその時点なりには、はっきりとしていた。だが、一層、
はっきりとした。

論理学に即して書いてきたので、思考・認識・論理といった能力での限界を超えることが
主に思えるが、それ以上に超えたいと思っているものが「生き方」である。

自分は、決定も責任も伴わない実感の無い生き方だけはしたくない、
曖昧で楽な誤魔化した生き方だけはしたくない、そう思っているということを再確認した。

我が人生を歩むに際して、食えれば良いという人生ではなく、すべてを引き受けて、
猪突していきたいという強い意志がある。

 第二に、では、どうやってその通り生きていくかということであるが、抽象的に言えば、
国家とは何か(=個人の自立とは何か)といった問いに対して、一面的なものではない、
だが、明確な答えを出すことによってである。そのためには、やはり、本質論のレベルを
突き抜けるしかない。

 このように自覚が深まった理由は、第一に、数ヶ月間に及んだとある大きな事件への対処であり、
さらにその事件後の数ヶ月間を、一定の方針に基づいて実際にその通りに生きたこと。
第二に、ヘーゲル漬けになったこと。第三に、報告会で自分の考えを書き、意見を聞き、
他者の報告を聞き、意見を言ったことだと思う。そして、第二・第三の点は、合宿という
濃密な空間が後押しをしてくれた。

 第一の点について言えば、大袈裟でなく世界の見え方が根本から変わった。そういう状況で
日々を過ごし、自分を見て、他者を見てきたことが、自覚が深まる上での大前提になった。

 第二の原書講読では、ヘーゲルの論理展開のあまりのしつこさに、ドイツ語も相俟って
辟易としていた。だが、集中して長時間に渡りあのしつこさと格闘したことで、何かが起きた。
ヘーゲル同様の粘着質を誇るベートーベンが無性に聴きたくなって、休み時間に聴いていたが、
そのしつこさに励まされた。

そして、原書で読んでいると、自分がどこに居るのか分からなくなり、すぐに行方不明に
なってしまうが、この状態にまで至った段階で、日本語で一挙に読んだことで、全体感を掴めた。
一人で小論理学を読んだことはあるが、ゼミという場で一気に読むことの効果の絶大さを思う。

 また、第三の点も大きい。自分自身の報告・確認は当然だが、他者の報告も同様に重要である。
特に、ある参加者の経営者としての適当さ、自分の収入を自分で稼ぎ出すという自主独立に対する
気迫の弱さ、企業経営以外の趣味的活動にうつつを抜かす軽薄な姿が、どうしようもなく目につき、
それを本人に対して直接言葉に出したことで、自覚が深まった。他者理解の場の有無は決定的だ。

 今後も、深まった自覚に基づいて、日々、淡々と努力を重ね、自分を作り上げていく。
そして、定期的にそれを確認し、さらに自覚を深める。これを繰り返すだけである。

9月 26

大学生・社会人のゼミでは、この夏も八ヶ岳で3泊4日の合宿を行いました。
 
 4日間の参加者は延べ6人。
 他に、報告会だけの参加が3人(2人はウェブで参加)。

 参加者の中から2人の振り返りと、私が今回の合宿で考えたことを掲載します。

 まず、本日は、2人のうち1人目の振り返りの文章を掲載します。

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◇◆ 語れ、己を表現せよ  松永奏吾 ◆◇

 私にとっての今回の合宿は、前半二日の『大論理学』原書講読、
それが予定されていた学習メニューだった。しかし、私が今、この感想文に
書きたいのはそのことではなく、二日目の晩に行われた、参加者各自の報告会
(「現実と闘う時間」)の中での出来事である。

 今回の合宿の参加者の一人、A君は、三十代、高卒で現在無職、
長い期間ひきこもりの生活経験がある、そういう属性をもつ人である。

 その晩の報告会で、彼は、現在、農業の職探しの活動中であるが、
身が入らず、「本当に自分は農業という分野で仕事をしたいのか」、
「農業以外にも、自分のやることがあるのではないか」と悩んでいる、

しかしそれと同時に、「社会と関わることによって自分の能力が高まる
ということがあると思うが、今の自分はそれではないと思う。
そのこと以前の自分の問題があり、そこが突破できつつある」とも思っている、
そういう報告をした。

 前者は現在の彼の悩みの一表現であるが、後者はその根底にあるもの、
「そのこと以前の」、そもそもの、彼の問題である。彼の語るところによれば、
それは、学歴コンプレクスとか、ひきこもりの後ろめたさとかいった、
否定的な自己意識であった。

 私は、彼の二つの思いに対して、どちらも共感した。

 前者は、悪く見れば、行動すべきなのに行動できないでいること、ないし、
自分を一つのことに限定できないでいる状態であるが、良く見れば、
自分の可能性はこんなものじゃないはずだという自尊心の現れ、と見ることができる。

自分はまだ「何も」していないくせに、自分は「何か」ができるはずだ、という矛盾、
悩みを、その夜の彼は表明していたのであるし、私も中二の時から同じである。
しかし彼自身は、「良く見れば」の方をまだ強く自覚できていないし、またそれを
積極的に表現しようとしていないとも思った。(そこが私と違う。)

 また、その根底にあるところの後者については、要するに、彼の事実として
生きてきた、ひきこもり生活という事実であり、学歴のなさという事実の話である。
それは分かりやすい論理として、彼の語る「自分はダメなのだ」という劣等感につながる。
特にひきこもりは、A君だけでない、今の日本に百万人近くいるのじゃないかと思われる
人々の現実である。

(A君のいわゆる「ひきこもり」と「学歴コンプレクス」は、はっきりと違う問題。
両者を一くくりにしない方がいいと思う。A君にとっては、「学歴コンプレクス」、
むしろ、大学に行こうと思わなかった事実、の方に深い意味がある、という気がする。)

 ただ、その晩の報告会の途中で、彼のレジュメを見ながら、私はいつもこれまで
彼に対して抱いてきた感覚、「この人がなぜこのゼミの場にいるのか??」という不自然さ、
違和感を思い出してもいた。

すなわち、彼には、普通の人(=ゼミに縁のない人)と違う「何か」がある。
しかし、それはA君に限らずゼミのメンバーはみなそうである。

言い直せば、彼には、このゼミのメンバーと違う「何か」がある。「職なし学歴なしの
ひきこもり」がこのゼミに来続けるのには「何か」がなければならない。

 だから、この晩、私は彼に対して、執拗にそれ、すなわち「何か」をきいた。
それに対して、A君は、以下のようなことを述べた。

曰く、自分は自室に何年も籠り、ただ独りで読書を続け、思索を続けてきた。
その過程で、時々だが、自分はすごいものを「発見」したこともある。
この世で自分だけが分かっていることがある。
周囲の大学に行ったやつらは「牙を抜かれている」のだが、自分は違う! 

 私自身はといえば、塾講師として二十年働いているが、「ひきこもり的な」生活は、
長く見積もれば、中二の時から二十五年くらいになる。
言うまでもなく、「働くひきこもり」は矛盾である。

しかし、私自身も中学時代から
無限とも思われる時間を、机の前に座って身動きもせず、ただただ何かを考え、
その半分は自己否定「おれはダメだ」であるが、もう半分に「何か」があると
思い込んでいた。しかし実際は、今もって、書くべき論文がまだ書けないでいる。
現実化していないのだから、彼と同じである。

 それはともかく、自室に籠り、他者と関わらず、自分「独りで」何かをやっている
という自負、自分「だけが」分かっているという確信、ここにポイントがある。それを
社会と関わらないでやっている以上、勝負もなく、結果も現れないのだから、どんどん
自己肥大化してゆくばかりである。

 しかし、私はまだしも、そんなこと(過剰な自意識の物語)を話せる友人がいたことが
あるし、これまで何回も、このゼミの場でそれ(妄想)の一端を表現してきたが、A君には
それすらなかった、友人もおらず、ゼミの場でもその問題を正面から取り上げたことは
かつてなかったのである。この事実は大きい。

だから、その晩の報告会でまず良かったことは、私がしつこく問い質したことで、
A君が自分のことを、他者に対して「表現」したことにあると思う。

その晩彼が話したことは、彼自身、初めて口にしたことのようであった。
表現することで自覚が生まれ、話してしまった以上、彼にも責任が生じているはずだ。
そんな偉そうなことを言ってしまった以上、他者に対して行動で証明しなければならない、
というような責任である。

 しかし、「責任」とは事の本質を言い得ていない気がするから言い直すと、
やはり思うことは、他者に対して働きかけない限り何も動かない、ということ。

A君のレジュメにあった、「社会と関わることによって自分の能力が高まるということが
あると思うが、今の自分はそれではない」というのはやはり間違っている。
他者に働きかけること、社会に関わること、たとえばこの合宿の夜に「表現」したこと、
突破口はそれしかないではないか。その晩、語った彼自身がそれを証明したと思う。

 あくる日の朝、『小論理学』の講読に入る前の時間、中井さんが昨晩のA君の件について、
補足的にまた別の問題提起をした。

すなわち、A君がこれまで、何度も同じことを繰り返してきたこと、やるべきことから
逃げ出してしまうこと、ひきこもり的な生活に戻ってしまうこと、その根本に、
昨晩の問題があったのだ、それが昨晩、松永の「つっこみ」によってだいぶ明らかになった、

しかし逆に言えば、昨晩まで、何年もの間、A君のその問題は、明らかでなかった、
ここにゼミの側の問題、中井自身の指導の問題もある、と。

 それに対してA君は、自分の側の問題しか見えていないようだったが、それを昨晩よりも
より雄弁に話し、私は私でA君と自分が似ているから指摘できたのだという、やはり
自分の側の問題を話した。

結局、ゼミとしての問題、組織としての問題、ないし、指導者たる中井さんの問題について、
その答えは出なかったものの、問題は問題としてはっきりと立てられた。
これも合宿の一つの成果だった。