11月 22
12月18日の読書会(午後5時から7時まで)は
『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)で
今年、ゼミの学習で出てきた思想の概略を確認します。
古代
アリストテレス 第1編 第6章(74から87ページ)
ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90から102ページ)
中世
アンセルムス 第2編 第1章(133から136ページ)
近世
デカルト 第1編 第3章(165から174ページ)
スピノザ 第1編 第4章(175から184ページ)
以上を取り上げます。
全体で50ページ弱です
本は購入することを奨めます。
今後、哲学史は私たちの前提になります。
なお
初めての参加者には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。
1. 簡単な履歴(年齢、大学・学部、仕事など)
2. 何を学びたいのか
3. どのようにこの学習会を知ったのか、なぜこの学習会で学びたいのか
などを書いて、以下にお送り下さい。
E-mail:
sogo-m@mx5.nisiq.net
10月 17
週刊「教育資料」2010年10月11日号で以下を書きました。
羅針盤を作る教育を/鶏鳴学園代表 中井浩一/
この夏に、ビジネスマン対象の雑誌で「哲学」が特集された。週刊『東洋経済』(8月14日、21日合併号)の「実践的『哲学』入門」だ。特集の中に、各地の「大学生・社会人」の学びの場を紹介するコーナーがあり、わが鶏鳴学園の「哲学ゼミ」も取り上げられた。
取材にみえた編集者によると、マイケル・サンデル教授(ハーバード大学)の「正義」に関する授業がテレビ放映され大きな反響があり、その講義録も刊行されベストセラーになった。そこから、なぜ現代日本で「哲学」がブームになっているのかを考えようとの企画のようだった。
時代が「哲学」を求めている
今の時代が「哲学」を求めているのは本当だと思う。私のゼミの参加者が増えていることからも、そう言えるだろう。今時、「哲学」といった硬いナカミで、しかも大学外で、何の資格も取れない場だ。しかし、そこに通う人が一〇数人いることを、どう思われるだろうか。この数年で、二〇代の若者が増えてきた。他方で、三〇代から五〇代まで年齢の幅も広がっている。大学生(フリーターやニートも)、役人、主婦、ジャーナリスト、教師、政治家などとその職業も多様だ。彼らは何を求め、何に駆り立てられているのだろうか。
今の時代には、人生の羅針盤がないのではないか。物を考え、評価し、選択する際の、基準が見えないのではないか。ほとんどの人は、途方に暮れている。それは、若者にとっては人生の方針を立てられず自立できないという深刻な問題になる。それがフリーター、ニートの急増にも現れているだろう。
それは特殊な人々の問題ではない。若者たち全般の「自立」の遅れは深刻だし、すべての大人にとって「成熟」がムズカシくなっている。明治時代にあっては、夏目漱石のように三〇代の前半まで自己確立できずに悩み抜いた人は少なかった。しかし、今は多くの人が同じ悩みを抱え込むようになっているのではないか。
一方、「格差社会」「階層格差」の問題が深刻化しているが、この問題も「成熟」の遅れと関係するのではないか。
目標を見失った社会
社会から絶対的な目標と基準が失われ、「価値の多様化」(実は表層的なタコツボ化)が進んだのは、「豊かな」社会になったからだ。以前は、国民全体が貧しく、「豊かになりたい」という夢をみなで共有できた。そして高度経済成長に邁進し、豊かさを実現してきた。その裏では地域や大家族制が崩壊していったが、国民は「豊かさ」の代償として諦め、淋しさは「中流」としての一体感で補ってきた。
他方で、世界は東西冷戦下で資本主義と社会主義との対立があり、それは全体的な世界観の対立でもあった。すべての人々が立場の選択を強制されたが、ひとたび態度決定さえすれば、後は自動的にすべての問題の回答を一挙に手に入れることができた。こうした政治対立はもちろん国民の対立を引き起こしたが、両者は「豊かさ」を追求する点では共通だったから、共依存の関係でしかなかった。その時代には、社会にも個人にも、明確な目標と基準があった。
今はそれが失われた。そして、むき出しの競争社会と格差の拡大が広がっている。そこでは地域や大家族制は崩壊し、バラバラの個人と核家族が広がっているだけだ。社会に強い共通目標があるときは家庭の影響は小さい。しかし、それが失われたときは、家庭の影響力が決定的になる。それが今の格差社会ではないか。親の階層、価値観、社会的地位、能力が、そのまま子どもに受け継がれ、貧富の差が拡大し、階層が固定化していく。それは個人が自立できないでいることと裏腹の関係だ。さて、ではどうするか。
「哲学」とは何か
私の「哲学ゼミ」には二つの柱がある。一つは哲学上の古典を読むことで、ヘーゲルを中心に、カントやアリストテレス、マルクスやハイデガーなどを読む。もう一つが、各参加者の活動報告や問題意識を出し合って話し合うことだ。こちらが重要だ。そこでは自分の直面している問題を考えながら、これまでの人生を振り返る。それを報告し文章にし、相互批評をする。それによって人生の目標、テーマを作ることが目標だ。これは、実は親からの自分への影響の総チェックであり、親からの自立をうながすことでもある。
今求められる教育
自分の個人的で特殊な問題を、一般的に論理的に考える。そのための媒介として、本や哲学書を読む。それが私のゼミで行っていることだが、これが本当の「哲学」だと思う。これを学校や大学など、あらゆる教育の場で行っていくべきだろう。わが鶏鳴学園は「国語の専門塾」を標榜しているが、実はそれは「哲学の専門塾」という意味なのだ。
今の時代には、既成の答えは有効ではない。教師は、答えを押しつけるのではなく、生徒とともに、生徒が抱える問題を、真摯に考えていくことしかできない。そのためには、教師自身の価値観や経験の意味づけを見直し、壊し、作り替える作業をすることになるだろう。
だから今、「正義」のそうした作り直しの作業を協同で行ったマイケル・サンデルの授業が大きな反響をよんだのではないか。 (2010年9月29日)
10月 09
10月以降の読書会を以下のように行います。
(1)10月の読書会
10月23日午後5時から7時まで
テキストは宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書696)を取り上げます。
春の読書会で取り上げた『コミュニティ・ビジネス入門』の「社会資本」という概念の創始者自身による説明です。
この概念は、これからの地域の自立を考えるために、とても有効だと思っています。
そのナカミについての理解を深めておきたいと思います。
(2)11月の読書会
11月20日午後3時から5時まで
テキストは徳永 進 (著)『野の花の入院案内』講談社
鳥取に、ホスピスケアのある19床の有床診療所「野の花診療所」があります。
「自由な、その人がもっている死のかたち」を実現することが目的で設立されました。
この本は、その設立者がその診療所での日々をやさしく語ったものです。
「酒もたばこも当然OK。余命3週間の患者が望めば、焼肉屋にも連れて行くし、花見もできます。ホスピスケアのある有床診療所がめざすのは、家庭的な船出なのです」
(3)12月の読書会
12月18日午後5時から7時まで
テキストはアリストテレスの『分析論』(推理論)の予定です
10月 01
夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
参加した内から3人の感想を掲載します。
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◇◆ 必然的な展開を示すことの凄さ E ◆◇
今回のヘーゲルの合宿では、前半に『大論理学』の判断論を読み、
後半は『精神現象学』の自己意識の部分を読んだが、
どちらかというと印象に残ったのは前半の判断論の方だった。
例えば、質の判断で「このバラは赤い」、「このバラは赤くない」、
(赤ではなく)「このバラは青い」という肯定判断と否定判断を
無限に繰り返すうちに、「バラは色をもつ」という普遍にたどり着く。
そこから次の反省の判断、「この植物は?である」、「いくつかの植物は?である」、
「すべての金属は?である」へと移るのだが、質の判断の肯定と否定の繰り返しが、
実は既に反省の判断にもなっていた。つまり、反省の判断の主語、
「この?」、「いくつかの?」、「すべての?」は、前の質の判断で
個別のバラを比較した時に、事実上出ていたものだった。
ただ、質の判断では述語(「赤い」、「赤くない」など)に注目し
主語はいったん脇に置いていたので、反省の判断では主語に注目して
「この?」、「いくつかの?」、「すべての?」ともってきた。
こういう展開を読んで、それが普段の生活の場面とどう関わるのかと
聞かれると即答できないが、しかし何かを「考える」ということは
こういうことではないかと思った。「こういうこと」というのは、
普段人々が無意識に使っている無数の言葉や考え方、言い方を
目の前にした時、一見それらは無秩序にただ並んで存在するようだが、
自分の力で相互の関係の必然性を見つけて段階的につなげていく、
ということである。しかもその時に、「このバラは赤い」などという
一番平凡で低い段階から始めながら、その中に、次のより高いレベルの
判断が内在しているように並べている。
こういう展開を、カントをはじめとする先行研究から学びながらとはいえ、
ヘーゲルが自分の力で考えて示していることに、途方もない凄さを感じてしまう。
自分が読む側にあり、しかも自分ではわからない多くの部分を中井さんの解説を
聞きながら読んでいると、まるで最初からこの展開が出来上がったものとして
あるように錯覚してしまうが、これを自説として作り出していることの凄さを
改めて感じた。
合宿の全体については、今年3回目を迎えて、年々良くなってきていると思う。
施設などの生活面以外に、特に報告の時間が前回より充実していて、
各自にとって今一番重要な問題を、当事者に限らず全体で丁寧に
考えられるような時間になっていた。そうなったのは、合宿ということで
ゆとりを持って報告の時間をとれたこともあるだろうし、今まで5年間
報告の時間をやり続けてきた成果が、合宿の場で表れたということもあると思う。
【中井からのコメント】
Eさんが触れていないことで、私が面白いと思う点がある。
ヘーゲルは「判断」を、認識の運動の前に、まずは対象の運動として
とらえている。バラが赤かったり、青かったり、白かったりするのは、
バラ自身が判断をしているのだ。すべての事物はそのように自己を判断し、
自らを現している。それゆえに、私たちがそれを認識できる。
ヘーゲルは、この原則をすべての場面で、すべての対象に適応していく。
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9月 26
夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
参加した内から3人の感想を掲載します。
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◇◆ 長い長い思春期 K ◆◇
精神現象学は、人間の成長段階に合わせて、時間的順序に則って
叙述したものであるという。そして、今回の合宿では自己意識、
すなわち自我の目覚めと思春期が範囲であった。だとするならば、
現代においては、思春期とは十代のごく一時期を意味するものではなく、
十代から二十代にかけての二十年間、まさに一世代にも及ぶものではないだろうか。
自己意識は、人類や絶対的存在を意識し、絶対的否定を経ることで
芽生えるというが、自分の経験を振り返ってみるに、それは、二十歳を過ぎて、
鶏鳴学園に通うようになってからのことであった。夏目漱石を通じて
人間のエゴイズムに圧倒され、途端に、それまでの自分の人生が、
どうしようもなくみすぼらしいものであるように思うこととなった。
そうして、初めて、人間(自分)が生きることとは何かを問い、
人間(自分)とは何かを問うようになった。無論、それまでも問いかけてはいた。
だが、まともに考えていたとは言えないし、問いかけ方も個々別々の
経験の範疇を出るものではなく、拒絶感もその場限りであったし、
何より普遍性がなかった。やはり、ヘーゲルの言うとおり、
圧倒的存在に触れることは不可欠なのだと思う。しかし、一足飛びに
そこまで到達するものではなく、一定以上の経験を積んだ上でなければ、
何も反応できないのではないかとも思う。
なお、こうした問いに対し、本腰を入れて考えるようになってから
五年が経過したが、未だにその答えは出ていない。あと二年で
華ある二十代も終わり、三十路を迎えてしまう。だが、その答えの芽は
出ているように感じているし、その手応えもある。行き詰るたびに
圧倒的存在に当たり、都度、打ちのめされ、しかしそこに希望を感じながら
成長していく。これしかないし、それがすべてだと思う。そして、鶏鳴学園という
目的を同じくする仲間たちとの研鑽の場があることを、幸せなことだと思う。
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