10のテキストへの批評 10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)
■ 全体の目次 ■
1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)
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10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)
丸山真男の本テキストは1958年に行なわれた講演記録で、61年刊行の『日本の思想』(岩波新書)に収録されている。講演が行われ、本として刊行されてからすでに50年以上が過ぎている。本テキストは50年間読まれ続けてきた「永遠のロングセラー」であり、中でも「『である』ことと『する』こと」は今も多数の教科書に採用されている。凄いことである。時代を超えた「古典」になったといえる。
丸山は日本の敗戦後の混乱の中で、新しい民主的な日本社会を作るために働いた。「進歩的文化人」を代表する1人で、反戦・平和・民主主義の運動の思想的拠り所となっていた。60年の安保闘争時には、市民運動や学生運動に大きな影響を与えた。本テキストはまさにこの時点の講演であり、当時の市民運動の理論を代表するものである。
しかし60年安保は「挫折」し、その十分な総括ができないままに時代は流れた。60年代後半の学生紛争やベトナム反戦運動や新左翼の革命運動の盛り上がりのなかで丸山理論はすでに指導理念ではなかった。学生紛争時には新左翼などから丸山は批判される側になっていた。
60年の安保闘争の「挫折」とその総括ができなかったこと、組合運動や市民運動が大きく成長できなかったことの一因は、丸山理論の弱さにもあったのではないか。一方で、丸山を批判する側も、丸山の根本的な欠陥を見抜き、それを克服するような理論を提示できたわけではない。それゆえに、70年代の革命運動や市民運動も成功せず、成熟することができないままに流れてきたように思う。
丸山が今も読まれていることは、丸山が50年前に問題としたことが今も未解決のママであり、今もそこに考えるべきことがあるからに他ならない。そして、今もなお、丸山を越える思想を私たちが持っていないことを示してもいるだろう。
丸山理論を克服するためには、まずは、丸山の凄味、このテキストの何がそんなにすごいのか、それを明らかにしなければならない。
丸山の凄さは、日本社会の根本問題を正面から取り上げ、その問題をこれ以上ないほどにシンプルにわかりやすく説明し、その解決策を示したことだ。
その問題とは、近代化において西欧に大きく遅れた後進国・日本の問題だ。アジアの国が近代化=西欧化を進めようとする際の根本矛盾であり、夏目が「私の個人主義」で問題にした「他者本位」の問題である。一言でいえば、後進国の「自立」が如何にして可能かの問題だ。丸山は、特に政治(民主主義)における前近代的な考え方、意識の問題を徹底的に追及する。一方でラストでは文化・学問の問題を出して、政治と学問の両者の解決を示して終わる。
一般に、多くの学者は自分の専門とする「タコツボ」(これも丸山の用語だ)の中に閉じこもり、大きな問題には立ち向かおうとしない。そうした中にあって、丸山の姿勢は突出している。こうした根源的な大テーマに対して発言すること自体、蛮勇がなければできないことだ。
丸山の凄みは、日本社会の根源的な問題に正面から挑んだことにあるだけではない。その問題を、これ以上ないほどにシンプルにわかりやすく説明してみせた。何しろ「である」ことと「する」ことの2つのキーワードだけで、すべての問題を快刀乱麻、一挙に解明して見せたのだから恐れ入る。こんな学者はかつていなかったし、今もいない。
しかもそれは乱暴で粗雑な議論ではない。丸山は論理の大家であり、論理を完璧なまでに駆使できる圧倒的な能力を持っていた。当時の文化人における最高のレベルだったのではないかと思う。それは本テキストで確認できる。そうした能力による分析による究極の単純化が「である」ことと「する」ことだったのであり、その威力はすさまじかった。すべてがこの2語で粉砕できた。おそらく向かうところ敵なしであったことだろう。しかし好事魔多し。丸山にとって不幸だったことは、丸山を批判できる相手がいなかったことである。才子は才に倒れ、策士は策に溺れる。それが丸山にも当てはまる。
丸山の何が間違いだったのかを考えよう。丸山は、前近代社会と近代社会を「である」原理と「する」原理という反対概念でとらえる。身分制社会と自由・平等の社会の比較としては、それにはある一定の正しさがあり、限定された範囲では有効な分析だ。特定の局面を分析する際の、有効な「比喩」としてならそれほどの問題はない。しかし、「である」と「する」で、前近代と近代の本質をとらえようとするのは無理である。そのために大きな混乱をもたらした。
例えば、丸山は「○○らしさ」や「分をわきまえる」こと(これは本テキストでは省略されている)を求めること自体を前近代的として退ける。しかし、本当はこうした考え方には何も問題が無いどころか、いつの時代にも必要なことなのだ。
丸山のこの2分法の破綻は、経済と政治では「する」を求め、文化では正反対の「である」を求めるという矛盾によく現れている。しかも、この矛盾を詳しく説明するどころか、最後のわずか10行ほどで両者の逆説的融合を示して講演は終わる。最後のどんでん返しと、一挙の大団円。
これはあざやかではあるが「手品」でしかない。丸山はこうしたアクロバティックな藝が好きなようだ。ここに無理を感じない方がどうかしているのだが、丸山ファンは、かえってそこに喝采したのではないか。
私はこのラストを読んで、あまりにもびっくりして腰が抜けた。「あれ?っ」。もしかして、この後に、丸山が「な?んちゃって」と言って舌を出したのではないか、と邪推したぐらいだ。丸山は「本気」だったのか、冗談を言ったのか、何だったのだろうか。
丸山の破綻を、本来はどう解決すべきなのか。解決は「である」と「する」を一体のものと考えることによって可能になる。説明しよう。
人がどう生きるか、何を「する」か(当為=使命)は、常にその人がどう「である」か、何「である」か(存在=本質)によって決まるのだ。これを「存在が当為(=使命)を決める」と言う。つまり「である」が「する」を決めるのだ。その意味で両者は一体であり、このことは時代によって変わらない。何時の時代でも、私たちはそのように考えて生きてきたし、今後もそうするしかない。岐路に立ったとき、私たちは「自分とは何か」を問うことで、選択するしかない。その時、私たちは人間の本質、家族の本質、社会の本質などを考えることになる。これを深めたものが「学問」だ。だから丸山も、学問・文化では「である」が重要だとするのだ。
では、前近代と近代の違いはどこに現れるのか。それは、「存在が当為を決める」時の「存在」のあり方の違いに現れる。前近代では生まれ(出自)によって決まる。つまり地縁・血縁関係で決まる。これは当人の自由意思では変えられない。例えば「武士」「長男」「女性」という生まれがその人の人生を決めてしまう。身分制度があり、職業は身分と一体であり、結婚も家制度の枠組みの中で行われていた。
一方、近代では、本人の自由意思で選択した仕事や人間関係が本質を作る。身分制度はなくなり、職業の自由が保障され、結婚は個人の契約になった。そこでは個人の自由な選択が決定的で、それゆえに、自己責任が問われる。
丸山が前半で、「である」と「する」で表現しているのは、この「存在」のあり方の内部での違いでしかないのだ。もちろん近代では、「自分とは何か」に対する答えが一層ムズカシクなっている。社会が複雑になり、多様な役割関係の中で、どの役割を「本質」と考えるか、役割の相互関係をどう考えるかでは、人によって大きな違いが生まれてきている。
しかし、「分をわきまえる」ことや、「○○らしさ」を求めることが間違いなのではない。むしろ近代になって初めて「人間らしさ」が真に問われるようになったのであり、種々の役割を果たす社会になったからこそ、それぞれの役割の「分をわきまえる」ことが問題になるのだ。
例えば、女性に「女らしさ」を求めることに問題があるのではないだろう。他の多様な役割相互の関係を無視して、それだけを社会的な比重以上に大きく求めることが間違いなだけだ。ただし、「女らしさ」という言葉は、女性が社会で働くことが許されず、家庭の主婦や家族労働の狭い範囲の生活に限定されていた時の意味合いを濃厚に持っている。それが嫌われるというのはよくわかる。現代の多様な社会関係の中で、改めて「女らしさ」「男らしさ」が問われるべきなのだ。
先に述べたように、丸山は論理を完璧なまでに駆使できる圧倒的な能力を持っていた。当時の最高レベルであり、ライバルもおらず、根本的批判を受けることもなかったのだろう。しかしそのレベルは、絶対的な意味では低いものだったのだ。私は丸山のような頭の良さを「小頭」と呼ぶことにしている。「大頭」こそ目指したいものだ。