昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。
今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。
■ 全体の目次 ■
1.マルクスの労働過程論 ノート
A 全体への批判
B 構成
C 本来の構成(代案)
2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
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■ 本日の目次 ■
1.マルクスの労働過程論 ノート(その1)
A 全体への批判
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1.マルクスの労働過程論 ノート
2013年10月22日 中井浩一
A 全体への批判
(1)唯物史観の導出ができていない
マルクスが『資本論』のここに労働過程論を入れたのは、
労働価値説の証明と、唯物史観の導出のためである。
ところが、2つともにできていない。
唯物史観の導出ができていない点については、
道具(労働手段)が生産力と関係することを言うだけで、
生産関係や上部構造がどこから出てくるのか、
またこの3者の関係はどうなっているのかを示せない。
これは唯物史観を主張するマルクスにとって
致命的な欠落だったのではないか。
それは冒頭で、一般的な労働過程論を展開するとしたことで、
避けられなくなった。資本主義社会といった特定の社会段階から
切り離した、共通部分として書くと言う。
抽象的悟性の立場、外的反省の立場に立ってしまった。
しかし、資本主義社会から切り離して論ずることは実際にはできない。
そこで、資本主義社会のことが、無原則に労働過程の本質論に入り込む。
当初は「人間」論のはずが、2段落以降で「労働者」が主語に
なってしまう。「資本家」は労働していないかのような仮象を
与えている。
人間は労働によって、自分たちの都合のよいように、この世界を
変えてきた。しかし、同時に、自分自身をも変えてきた。
思考、目的にあった労働形態を作るために、
つまり生産力を高めるために、道具などの生産手段を生みだし、
それにふさわしいように自分自身の能力(肉体的にも精神的=思考にも)
を高め、さらには人間の生産関係を変えてきた。
この点を言えなかったのは、唯物史観の創始者にとって致命的だった。
ある思想の創始者には、創始者としての責任がある。
この資本論の労働過程論は、人間の本質を明らかにし、
唯物史観の意味を鮮明に描き出すべきところだった。
それがまるでできていない。
(2)「実体」への反省が不十分
(1)の結果に終わったのは、「実体」への反省が不十分だからだ。
構成上は、次の B「構成」で示す「(3)生産物の立場からの、
労働過程の検討」の中で、結果論的な考察(Nachdenken)、つまり
「実体」への反省がなされなければならなかった。
そして、人間の使命、自然が人類を生んだ意味を導出する
べきだった。
人間はなぜ労働をするのか。自然と人間はどういう関係なのか。
自然の概念、人間の概念、労働の概念とは何か。
そうしたすべてが明らかにされないままに終わっている。
つまり本来の結果論的な考察(Nachdenken)になっていない。
そこで、許万元が『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』で
マルクスの代わりにそれを実行した。
しかし許は、マルクスの批判は行わない。
(3)マルクスのこの文章ならびにその構成はかなりひどい。
点数をつければ30点ほど。
100点満点でのもの。
以前はマルクス大先生の文章は常に80?90点ほどだと
買いかぶっていたが、今回はそのひどさに愕然とした。
この文章の目的、ねらいは何か。
そのために、何をどういう順番に書くべきなのか。
それを十分に考えて、全体の構成を練り上げてから
執筆するべきだった。
ところが、マルクスはそれが不十分なままに、出たとこ勝負で、
行き当たりばったりで執筆しているように思う。
本来の目的を見失い、本当に書くべきことが書かれていない。
これでマイナス30点。
全体の構成の練り上げが不十分で、必然的な構成ではなく、
行き当たりばったりの個所が多い。これでマイナス30点。
また、傍流が多く読みにくい。これでマイナス10点。
以上の結果、総合評価は30点である。
(4)この(1)から(3)の問題点について、いまだ誰も批判を
していない
せいぜい牧野紀之の批判的な言及があるだけだ。