9月 07

 以下は、私が提案した「『学習会中心』の政治運動」を受けて、
 翌週に実際の「学習会」の進め方を提案したもの。
 以下、レジュメを掲載。

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 一. 政策立案のための学習会とは何か

(1)学習会中心の政治運動の中で、政策立案の学習会の位置づけ

 1.支持者があらゆるレベルで学習会を展開する
   スケジュール(日程や場所)などを報告してもらい、HPに掲載

 2.政策立案の学習会は、1.とは別に、政策立案を目的に
   十分な計画のものに、実施するもの。
   HPには、スケジュール(日程や場所)だけではなく、その内容をも掲載
   実施はAメンバーが中心。
 

(2)政策とは何か?

 ・政策とは「問題の解決法」のこと。それを立案するということは、

 1.「問題の発見」

   社会に存在する【問題に気づき】、それと闘う
   問題から逃げず、問題を直視する勇気が問われる
   問題はいつも、現場で起き、具体的な形で現れる

 2.「問題の本質の理解」

   問題のさまざまな側面や、歴史的な背景を理解し、【問題の「本質」】を理解する  
   問題を一般化してとらえる能力が必要。
   本を読み、専門家から学ぶ必要がある

 3.「問題の解決策の作成」

   問題の本質から導かれる、【問題の解決法(=政策)】を提示する

(3)根本原則

 1.自己教育第1。他者への働き掛けは第2。
   笹本さんが、そしてAメンバーが、誰よりも学習をしなければならない。

 2.現場主義と理論主義の統一
   現場の孕む問題の意味(本質)を一般化できるようにする
   行政と議会は、一般化のレベルで役割を持つ

 3.いつも「全体」を考えよ
   ・時間的に →「今」だけではない。過去に、未来に、思考の幅を広げる
   ・空間的に →「ここ」だけではない。他の地域、他の問題とも関係している

 4.内容主義と形式主義の統一
   世間では内容主義ですべてが行われている。私たちはその形式を常に考える

 5.「完璧主義」は取らない。自分たちのベストを尽くすことだけを考え、実行する

 二.政策立案のための学習会の進め方

(1)Aメンバーで、全体の計画を立てる

 1.学習すべき項目を考える
 2.その項目毎のテキスト、報告者のリストアップをする
 3.それぞれの項目で担当を決めた方が良い
   自分(A)の主催と他の主催(協力者として参加)と分ける

(2)B会議メンバーは、「勝手連」的に

 注意
 ブレーンストーミングで仲間の知恵を出し尽くす
 項目では、すべてを網羅できないので、重要度の高いもの、
 自分たちの独自性を生かしたものを取り上げる→優先順位

 2010年3月16日  

9月 06

 今年3月の私の提案を受けての議論は次のようなものだった。

(1)賛同の声として以下のようなものがあった。

 ・笹本の政治運動としてイメージしやすい。
 ・支援する私たちにとっても大切なこと。
 ・これこそが社会の主流になるべきだ。期待されているあり方だ。
 ・これなら官も民も参画できる。
 ・学習会を通して自分の能力を伸ばしたい。仕事に活かしたい。
 ・時間はかかるが効果はある。
 ・地方こそ新しいことが必要。これを見極める力を学習によって人々がもつべき。
 ・これを受け入れられる社会をつくらなければ、笹本が出馬する意味がない。

(2)懸念、質問として以下のような意見が出され、
  (→以下)のような回答を私がした。

 ・民衆はめんどくさい学習会ではついてこないのではないか。
  面白おかしいものでないとダメではないか。盛り上がりも必要ではないか。
 
 →さまざまなレベルの学習会を用意したい。
  面白おかしい学習会も提供できるようでありたい。

 ・小泉元首相が成功したように、単純化された2項対立にしないで、
  複雑でムズカシイことを言っても支持されないのではないか。

 →社会問題の核心を単純な2項対立で示せるようにしたい。
  そのためにも、学習会が必要。
  学習会で本質を見抜く力をもたなければ、核心的な2項対立を示せない。
  小泉元首相の「郵政民営化か否か」がそうだったかどうかは、疑問だ。

 ・一般にいう選挙運動も必要ではないか。

 →「学習会中心」という意味は、普通の選挙運動を全否定するものではない。

 ・学習する項目に本質的な問題と、現実の各論とがある。
  前者をしなければ、後者はできない。
  それでは、時間が足りないのではないか。

 →同時に平行してすべてを学習することもできる。
  時間については、1年間と区切り、ベストをつくせばよい。

 ・学習会では、何も決定しないとあるが、
  それでは選挙運動が動かないのではないか。

 →運営会議と学習会を区別する。
  前者ではもちろん、方針や戦略などを決めて行動する

9月 04

 友人が政治活動を始めた。
 その相談を受けたのをきっかけにして、
 政治や政治活動への私の考えをまとめることにした。
 今回はその骨子を発表し、読者のみなさんの参考にしていただこうと思う。

 以下は3月9日に、笹本さんの支援者の集まりで発表した
 レジュメである。

 このポイントは、民主主義社会の根本矛盾として
「人格の平等と能力の不平等」を挙げ、
この解決策として「すべての人の能力を高める」ための
「学習運動」を掲げていることだ。

 また、「政治」を特別なものとせず、利害対立・意見対立が起こる
すべての場面で行われている意志決定のあり方ととらえ(広義)、
その最終的な意志決定の場として、狭義の政治があるとしたことだ。
したがって、政治活動は、普段の生活の場から始まり、
そこに帰らなければならない。

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 提案 「学習会中心」の政治運動 

 一.政治とは何か。何が課題なのか。

(1)政治の形式面

 1.政治とは広義では、人間集団の意志決定一般に関わるすべてのこと。
   2人以上の人間間で常に問題になること。
   家庭でも職場でも地域でも学校でも。

 2.狭義では、その地域全体の最終意志決定に関わるルールと権限
   県で言えば、知事を初めとする県庁の行政と、それをチェックする議会
   「政治家」だけではなく、役人も政治を行っている。

 3.異論、意見対立をどう考えるか

(2)政治の内容

 1.「真理は自己を必ず実現する力を持つ。民衆は真理を理解する力を持つ」
   大きな集団の動きになると、それは人類の自己実現、真理実現の過程
   発展の過程の一部として、理解できる。
   その過程では、矛盾、対立、葛藤が生まれる。それが発展の動力源。

 2.「本質論主義」 → 【学習会中心主義】
   現実の課題は何か、その本質は何か、真理とは何かを常に考える。

(3)民主主義の徹底 

 1.民主主義(公平・公正)とは何かをいつも反省する
 2.多数決は、異論の対立を解決する1つの方法でしかない
 3.反民主主義的な言動には、徹底的に言論で闘う
 4.公開の原則 県政に関するあらゆる情報公開 笹本さん自身の収支報告も
 5.記録の重視

(4)根本の矛盾

 1.人格の平等と能力の不平等の矛盾から逃げず、それを自覚し、
   それを解決する道を考える

 2.すべての人の能力を高めることが究極の解決 → 【「学習運動」こそが核心】
   従来の「善玉」「悪玉」で物事を考えるのは止める。
   能力の高低が、利害対立とからんで問題として表れる。

 二.「学習会中心」の政治(選挙も)運動 【一大「学習運動」を】

(1)「学習第1の政治活動」

 学習会から政策をまとめ、選挙運動(公示後の選挙期間中)の進め方も決める。
 選挙後も、当選後も学習会中心主義は変わらない。

(2)「学習会」

 1.【すべての中心に学習会があるべき】

 2.学習会の運営メンバーこそが、中核メンバー。

 3.誰に働きかけるのか
   政財官のリーダーたちはもちろんだが、中心は、学びたいと思っている
   市民、大学生、教師、市民運動家たち(選挙区を問わず)。
   学習会には他陣営の人々(対立意見を歓迎する)の参加も歓迎する。

 4.学習会の種類
   1)現場での、現場からの学習会
   2)読書会 諸問題について、本質論を議論できるように
   3)講演会やその他

 5.学習会では意見交換だけで、正誤や行動の決定をしない

 6.記録と民主主義の時間

 7.公的なすべてはHPで公開する

(3)組織の種類

 1.中核メンバーの会議 選挙運動の運営
 2.支援者の組織
 3.学習会

(4)組織について

 それぞれの組織のルール(規約を作る)。
 入会と退会(除籍あり)。意思決定。

 三.学習会で何を学ぶのか 選挙で訴える柱(ナカミ)づくり

[A]目的

 山梨県の自立と活性化
 しかし、山梨が自立するためには、それぞれの地域の市民が自立するしかない。
 「学習会中心主義」 →「笹本さんに何とかしてもらおう」は違う

[B]本質論 問題の本質をさまざまな視点から徹底的に学ぶこと

(0)前提
   一.で述べた政治や本質論主義、民主主義の基本的理解

(1)時代の変化、今の時代の課題(経済の変化、政治の変化)

 1.高度経済成長、東西冷戦が終わり、グローバル化した資本主義が全体を支配 
 2.今のあらゆるシステムは、高度経済成長、東西冷戦の下で作られてきた。
 3.それを次の時代、社会へ向けたシステムに切り替えていかなければならない。
   ◎国際関係、◎経済、◎国内政治

(2)国と県との関係(交付金、助成金の問題)、県と市町村との関係。

(3)県自体の問題

 1.県の行政・役人の問題  「仕分け制度」導入
 2.県政、政治家の問題
  1)議会の改革。
   2)政党の改革。民主党、自民党に入党する選択

(4)産業構造の問題  公共事業中心からどのように構造転換をするか

 ※ワインツーリズムとしてやってきたことは、全体のどこにどう位置づけられるのか。

(5)その他の重要課題

 1.少子・高齢化、2.医療問題、3.教育問題、4.男女差別、
 5.階層格差の拡大、6.家庭の問題 離婚、児童虐待、7.外国人労働者

 ※これからの1年で、笹本さんが関わる問題を見いだし、それに取り組む
  これが政策の中心になる 

           2010年3月9日 

9月 03

 友人が政治活動を始めた。
 その相談を受けたのをきっかけにして、
 政治や政治活動への私の考えをまとめることにした。
 
 友人とは笹本貴之(ささもと たかゆき)さん。
 山梨県甲府の出身で現在38歳。

 学生時代に私のゼミで、哲学と政治思想を学んだ。
 もともと政治家志望だったが、ロックの政治思想で卒論を書き、
23歳でアメリカに2年留学し、黒人社会の問題に取り組んだ。
その成果は『サンドタウンに吹く風』(永版社)にまとめられている。

 帰国後は外資系損害保険会社で数年修業した後に、
甲府に戻り実家の自動車修理会社の社長として活躍。
そのかたわら、地域の課題に取り組むべく“KOFU Pride”を設立。
その活動の延長で、「ワインツーリズム」を企画運営して成功する。
これは全国紙でも紹介され、山梨の有名人になった。
そして、今年の春から、いよいよ山梨県を舞台に本格的な政治活動を
開始することになったわけだ。

(ワインツーリズム山梨 事務局)http://yamanashiwine.com
(ワインツーリズムのブログ)http://www.yamanashiwine.com/budo/
(笹本さん個人のブログ)http://sasamoto.sblo.jp

 私は笹本さんから相談を受けたので、「学習会中心の政治活動」を提案した。
従来の政治や政治の考え方を根底からくつがえし、
自立のための一大「学習運動」を組織する提案だ。
自分たちの地域の課題を学習し、自分たち自身で
その解決策を作り出すことを、運動の柱にするのが趣旨だ。

 今年3月9日に彼の支援者の集まりで私案を示し、みなで討議をした。
従来の政治(選挙も含む)運動や、政治の考え方とは
ずいぶん違う提案なので、不安や懸念も出されたが、
賛成意見や評価する声もあり、結果的には大枠の了解が得られた。
その方針で今日まで進んできている。

 「学習会」については、3月にはさらにそれを具体化する
「政策立案のための『学習会』について」、4月には
「『政策学習会』の進め方について」などを提案してきた。
その後6月までに、すでにさまざまな学習会が行われてきた。
「ワインツーリズム」の総括も進み、山梨県のコミュニティビジネス
(ソーシャルビジネス)の問題も整理されてきている。
その提案を、レジュメの形のママに次回掲載する。

8月 28

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』の4月号から連載して、今回がラスト。

9月号の 第6回(最終回) ディベート学習の課題
          教育の「内容主義」と「形式主義」をめぐって

1.90年代のディベート・ブーム
言語活動の充実のために、いくつかの問題提起と具体的提案をしてきたが、最後にディベート学習を取り上げたい。「全教科での言語活動の充実」「スピーチ、発表、討論」と言われたときに、真っ先に思い出されるのがディベート学習であろう。しかしディベート学習については、それを支持する声がある一方で、強い批判や疑問の声もある。この混乱と対立の中に、言語技術の教育のための核心的問題があると思うからだ。
ディベート学習は80年代後半から中高の教育現場で始まった。前号で紹介した「学習院言語技術の会」の高校版教科書でも、その中の1項目として取り上げられている。しかし当時は英語科(ESS)を中心とする、少数の先端的な取り組みでしかなかった。その後社会科や国語科にも広がり、90年代にはブームになるほどだった。ディベート甲子園も始まり、多数のディベート関連の本が出版された。
最近では一時のブームは去ったようだが、社会科や国語科の教科書ではディベートが紹介され、学校の正規のカリキュラムに入っているところも増えた。熱狂の時期は去ったが、定着し落ち着いたとも言えるようだ。

2.ディベート学習の是非をめぐる対立
ディベート学習とは、「ある特定のテーマの是非について、2グループの話し手が、賛成・反対の立場に別れて、第三者を説得する形で議論を行うこと」(全国教室ディベート連盟)だが、この学習を効果的にするために、勝敗を争う競技形式で行われる。つまり、第三者(専門の審査員など)によって勝敗を決定し、賛成・反対の役割は、参加者の本来の主張とは無関係に決められる。
ディベート学習そのものは、ある主張をする際に、説得力のあるような論証をする練習、つまり、事実をよく調べて、十分な根拠に基づき、それを論理的に組み合わせて主張につなげる練習だろう。
賛成派は、ディベート学習によって、次のような能力が獲得できると主張する。論理的に物事を考え、他人の意見を聴き、自分の意見を効果的に伝え、相手(他人)の立場に立ち、情報処理や整理をし、多面的な視点を獲得するなど。また、それによって、問題意識や自分の意見を持つようになるとも主張する。
しかし一方で、それに対する強い批判や疑問もある。そうした反対派は、その目的に反対しているのではなく、その目的が達成できない、否、かえって逆効果だと言うのだ。その疑念や批判は、主にその競技的形式面に向けられているようだ。
勝敗を争うために、ディベートが単なる「口論の技術」「相手をやりこめる技術」になり、「詭弁家」を作ることになるのではないか。
参加者の意向とは無関係に、役割(肯定側・否定側)やテーマが与えられ、本来の主体性が損なわれるのではないか。本来は切り離せない人格と思想を、無理に分離させることは間違いではないか。学習効果はかえって小さくなるのではないか。
そうした問題点があるので、ディベートでは盛り上がっているように見えても、学習効果は小さいのではないか。

3.「生徒の主体性による共同的な探求学習」
 こうした批判に対して、「競技ディベート」支持派からは、「そうした懸念は当たらない。競技形式こそが学習効果を高める」との反論がある。しかし、ディベート支持派からも、「競技ディベート」への批判の声はあるのだ。「競技ディベート」と本来のディベート学習を区別しようとの意見だ。
それは主に社会科の先生方が中心だが、そうした立場を代表するのが『授業が変わるディベート術!―生徒が探究する授業をこうつくる』(国土社1998)だ。二人の編著者の一人は、もう20年近く、実践を積み重ねてきた杉浦正和氏(芝浦工業大学附属柏高校の社会科担当)。もう一人が、県立小金高校などで教え、現在は大学の教職課程を指導している和井田清司氏(武蔵大学人文学部)。
この本では、勝負の側面が前面に出てくる「競技ディベート」(「ディベート甲子園」がその典型)には批判的で、それに対して「生徒の主体性による共同的な探求学習」を対置する。それは勝負にこだわらず、あくまでも認識の深化を目的とする。
この違いは、審査の違いになる。前者は先生などの専門家が行うが、後者はクラスの仲間が行う。
そもそも、杉浦氏たちがディベート学習を始めたのは、教師からの一方的な講義形式の授業に対する不満からだった。生徒が主体的に学習することをなんとか実現するための方法がディベートだったのだ。
実は連載の第3回で紹介した川北裕之氏の総合学習「環境学」では、最初の3カ月の「触発学習」で2回にわたるディベート学習を行っており、その指導者は和井田氏(当時の川北氏の同僚)だった。川北氏は、それがその後の現地調査の触発学習として極めて有効だったと述べている。
「ディベートで、ある一方の側から立論をつくることは、仮説を立てて調べることにつながり、これは研究の基本です。自分と異なる立場で戦うのはつらいし、負けたときはくやしいので、『環境学』のようにこのエネルギーを探究活動にむかわせるようにします。後日、自分の意見を表明する小論文を書かせると良いでしょう」。
 私は、昨年秋に杉浦氏のディベートの授業見学をさせていただいた。笑いが起こる和気あいあいとしたものだった。ディベート学習は、やはり指導者の力量が大きくかかわると思った。杉浦氏は、高校生段階のディベート学習の成否は、そのテーマ設定にあると考えている。
テーマは、善か悪かと言う単純な価値判断では決められない問題がふさわしい。問題がさまざまな側面を持ち、その側面の事実を丁寧に分析する必要がある問題だ。現実に社会的論争になっている問題(政策課題)が良い。肯定側も否定側も、それぞれ有力な根拠を持っていて、簡単には判断が出せない。そうした問題からこそ対立説の双方を知り、複眼的思考を学ぶことができる。
 例えば、「熱帯木材輸入禁止」をテーマにすると、環境保護と開発(貧困からの脱出)の対立・矛盾が問題になるが、単純な白黒図式にはならない。肯定側は両者の矛盾を言えばいいだけだが、否定の輸入側は、開発が重要だと言うだけではなく、開発と環境保護が両立するとか、開発で豊かになってこそ環境保護も可能になると主張する。否定側も環境破壊を公然と認めるわけにはいかないからだ。
こうした議論の「正解」は容易には出ない。そこで、正解よりも、認識の深まりが問題になる。それが評価のポイントでもある。そして杉浦氏は、この「正解がない」ことを、ディベート批判派は認められないのではないかと、推測している。これは核心的な問題だ。
また杉浦氏のディベートでは、審査するのは生徒だ。「学習はあくまでも生徒のレベルに応じておこります。ですから生徒が審査するのが一番良いのです。不十分でたどたどしい論争であっても生徒にとってはわかりやすいこともあるのです」。これが、生徒の「共同的な」探求学習、という意味だ。クラスの仲間とともに探求を深めることを追求するのだ。
 審査とは、真実を決めたり、意志決定をすることではない。あくまでも、いずれが説得力があったかを判断するだけだ。論争の評価が生徒の学習になる。そして、審査を下すことで、困難な真理認識は保留にし、それに向けた探求の欲求を引き出すのだ。
こうした杉浦氏のディベートに「詭弁家を育てる」との批判は当たらないだろう。しかし、それもやはり競技ディベートであることには違いはない。したがって、人格と思想の分裂との批判には答えなければならないだろう。

4.ディベートの意義
私はディベート、特に「探求学習」型のディベートの大きな意義を認める。その理由は、この過程は思考の過程そのものであり、思考学習そのものだからだ。
それは、事実と意見を区別することから始まる。これは木下是雄氏の方法論と同じだ。もちろん区別するのは、より深く、より全体的な視点から両者をつなぐためだ。これは意見文が、根拠(事実)とその根拠に基づく意見の2つの部分からなることを明確に意識させる。
次に、ある立場(主張)を支えるための根拠(事実)を構成するのだが、事実を深く丁寧に考えねばならない。あるテーマに関する賛成と反対の両方の立場から考えることで、対象の全体をながめることになり、それぞれの立場が対象のどの面を、どの立場から考えているかを、冷静に検討することになる。これは確かに、多面的に物事を考えることであり、これによって「複眼的思考」ができるようになる。考えるということは、このように対立や矛盾を手がかりに進んでいくのだ。ここまでは誰も反対はないだろう。
さて、では、自分の本当の考えと違う役割を与えられた場合はどうなるのだろうか。ここでは、事実と主張の分断とともに、自分と自分の意見をも、一旦は切り離すことが求められる。それは相手の意見とその人格を区別する態度を学ぶことにもなる。
さてここで、当然ながら、「人格と思想を切り離す」との批判が待っている。しかし、つねに人格と思想が一体であるならば、論争の際に自分と相手の意見対立は、即互いの人格を否定しあうことになる。本当にそれで良いのだろうか。また、それでは「相手の立場に立つ」ことは不可能になるのではないか。

5.2つの態度
こうした批判の前提には、人格と思想はつねに一体のものであり、切り離すことはよくない、という考えがあるのだろう。それは思想の内部に対立や矛盾を認めないことになる。しかし私たちの考えの内部には、つねに懐疑や動揺がある。これが実際の姿ではないか。社会内部の賛成・反対の対立は、それぞれの陣営の個々人の内部にも、矛盾や対立を引き起こすはずだ。逆も真だ。そして、対立・矛盾によってのみ個人の認識は深化し、相互理解も拡大する。だから、われわれは矛盾や対立を歓迎すべきなのだ。
また、ここには「正解主義」が隠されていると思う。つねに、論争には正解があり、正解はわかっている。そうした思い上がりがないだろうか。つねに「答え」があり、それは教師が知っており、それを教師は生徒に教えることができる。「答え」があるのなら、手っ取り早くそれを教えればよいだけで、途中の困難な過程は省略できる。これが従来の教育で、これが「内容主義」なのだ。
一方、この反対の「形式主義」的な考え方がある。教師や大人もつねに「正解」を知っているわけではない。しかし自発的な「問い」を引き出し、それを深める方法は教えなければならない。その過程では繰り返し、疑惑や反問、立場の転換が起こるが、それで良いのだということも教える必要がある。
そして、教室内部の議論や、資料統計だけでは解決できないのだから、現実社会の現場に出ていく必要を強く感じるようになるはずだ。
こうした二つの立場と態度が、現在の教育現場にはあるだろう。言語活動や論理を教育するには、教師自身はどちらの立場に立つ必要があるのか。それを、各自が自分に問うべきだろう。それが一番肝心なことではないか。