9月 18

 夏休みはいかがでしたか。前半は不順な天気が続きましたね。
 ヘーゲル学習会の合宿中も、ずっと雨が降り(「こんなことは初めてだ」と地元の人も言っていました)、せっかくの八ヶ岳ですが、高原の清澄な空気を堪能できませんでした。

 さて、政権交代も実現し、いよいよ社会が大きな変化を迎えることになります。
 私たちも、社会と自分自身の課題ときちんと向き合い、次のステップへと進む準備をしておきたいものです。

 9月以降のゼミの日程をお知らせします。
 6月の読書会に初めて参加された社会人(女性)の方の感想を掲載しました。
 社会人の方は参考にしてください。
 ゼミでお会いしましょう。

◇◆ 1.9月以降のゼミの日程 ◆◇

(1)文章ゼミと読書会

 いずれも土曜日。文ゼミは午後7時より。読書会は午後2時からそれぞれ2時間ほどです。
 午後5時からは参加者の近況報告や問題意識を報告し合う「現実と闘う時間」があります。
 参加費は3000円です。

 9月19日:文ゼミ

 10月10日:文ゼミ
 10月24日:読書会

 11月14日:文ゼミ
 11月21日:読書会

 12月12日:文ゼミ
 12月19日:読書会

 年末には忘年会を予定しています。

(2)ヘーゲルゼミ

 10月に開講予定。
 毎週月曜日、約2ヶ月間行う予定です。
 午後5時からは原書講読。午後7時から翻訳でヘーゲルを読みます。
 参加費は1回3000円です。一方だけの参加は2000円です。

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◇◆ 2.大学時代以来の新鮮な経験(6月の読書会参加者の感想) ◆◇

 同じ本をみんなで読み、その経験を共有していく、という機会は大学時代以来でしたので、とても新鮮で、楽しかったです。

 今回お会いした二〇代の皆さんと普段の生活上ではふれあうこともあまりないため、自分では忘れていた社会に出始めたころの手探りな感じを思い出しました。
 でも、皆さん、若い頃に中井先生のような師に出会えたということは幸せなことですね!

 仕事が立て込むと何ヶ月も休みが無くなってしまうような生活ですが、また機会がありましたら参加させていただきたいと思います。早速メルマガにも申し込ませていただきました。

 どうもありがとうございました。

8月 27

8月6日から9日まで、3泊4日のヘーゲル学習会の合宿が行われた。参加者は私以外に6人(4日間を通しては3人)。男4人、女2人。学生4人、社会人2人だった。昨年と同じ人数だが、今どき、ヘーゲルを読むために、これだけの人間が集まってくれることは、ありがたいことだ。

昨年についで今年が2回目。4日間、とにかくヘーゲルを読み続ける。これだけ集中して朝から晩までヘーゲルを読んでいると、ヘーゲルが乗り移ったような状態になる瞬間がある。その時には、ヘーゲルが憑依して、ヘーゲルが語っているような気になる。
それは、私が私自身を追い込んだ結果でもある。私にとっては、この参加メンバーたちが本当に大切であり、彼らにヘーゲルの凄みを見せつけたいと切に願っている。

最初の2日間は『精神現象学』の原書講読で、「序言」から中ほどの10ぺージほどを読んだ。存在と思考の一致、存在の運動と認識の運動の統一について述べている範囲で、当然それを考えるのが目的だった。
この問題については、牧野紀之氏が「悟性的認識論と理性的認識論」で、わかりやすく説明している。だが、ヘーゲル自身がどう説明しているのか、それを直接読んで、そこから考えてみたかった。そして、その点で大きな収穫があった。

つまり、存在は、自から運動し、「存在」「質」といった規定を生む。それは、自分の持つ多様な性質から、こうした規定を抽象することを意味し、それは存在が認識をしていることに他ならない。(これらの例はすべて存在論のもの。牧野氏の例は、主に本質論からと言える)
つまり、ここでは抽象化、比較による規定の抽出をものが行っており、それは存在が認識をしていることに他ならない。つまり認識、思考とは、人間だけがするものではなく、最初から存在するすべてのものが、行っている。ただし、自己意識がないので、その意味が自覚できないが、人間はそれが自覚できることだけが他との違いなのだ。これには驚き、深く感動した。
(以上は、ズールカンプ社版全集第3巻の53ページ)

しかし、ヘーゲルの執拗なシェリング批判。罵詈雑言のオンパレードが続く箇所には辟易した。執念深い粘着質の在り方は、大物に不可欠の要素だが、ヘーゲルのそれは、ここでも群を抜いている。

後半2日は『精神現象学』の翻訳(牧野紀之訳、未知谷)で、第1部「意識」論(第1章から第3章)を読んだ。
4章の「自己意識」をどう導出するか。それを対象意識である「意識」論から、出している。そこが一番の関心だった。その意味は何か。そこから何を学べるのか。

3章は面白かったが、1章、特に2章の意味がよく理解できなかった。1章は存在論、2章と3章が本質論だと思うのだが、またその哲学史上の意味は一応わかるのだが、その個人の成長上の意味がよくわからなかったのだ。
3章では、現象と本質、現象と法則、説明で、対象・現象の外化と内化の無限の運動を出し、それを認識できるのは、認識する意識もまた、同じ無限の運動をしているからだと持ってくる。すると対象世界の無限は、無限であることで、意識にとっての自己に他ならず、それを認識する意識とは、自己を意識することに他ならない。そこで成立している存在と認識の一致、それが「自己意識」だ。

だから、それは、単に自己についての意識なのではない。無限として捉えられた対象世界を自己としてとらえた意識が「自己意識」で、対象意識を止揚して自己内に持っている。それが「自我」だ、ということになる。
ただし、ここに成立した自己意識自身には、まだその意味が自覚されていない。それが自覚される過程を通して、次の理性が成立する。

以上は、自我の中に、なぜ全世界が含まれているのかを考える際に、大きな意味を持つと思う。ただし、わからなかったのは、自己意識が含む「全世界」に、他者、他の意識のすべても含まれることが明示されていない点だ。「意識」論での対象に、他者の意識も含まれているのだろうか(自分の意識は常に問われている)。これは、2章の物と性質で、対象に人(他者)が含まれているのかどうか、それが不明なことと結びつく。

3日目の晩には参加者の近況報告、提出した文章の検討も行った。近況報告では、各自の今の課題、今後の取り組みなどを話し合った。
ゼミ参加から1年余りの大学生は、家族問題に悩んでいることがわかった。今、若者が自立するには、家族について、親子関係の在り方について、きちんと考えることが不可欠であることがよくわかる。秋から、この問題を考える機会を与える予定だ。

この合宿でヘーゲル哲学について考えたことは、秋以降に再検討の上、詳しく報告する。

8月 16

月刊『高校教育』9月号に拙稿が掲載された。

これは
「連載:大学・学校・教育委員会のパートナーシップ  ―スクールリーダー・フォーラムの挑戦―」のラスト、3回目に当たる。

大阪ではすでに8年あまり、大学・学校・教育委員会の連携を行っている。大学側とは大阪教育大であり、大脇康弘氏が中心に、活動している。この連載はそのスクールリーダー・フォーラム8回目の総括のためのものだ。

連載は   
第1回 スクールリーダー・フォーラムの理念と軌跡
  大脇康弘(大阪教育大学)、2009年7月号 

第2回 経営革新プロジェクト推進校の実践をつなぐ
  水本徳明(筑波大学)、2009年8月号

第3回 が私である。私のタイトルは「『生徒が3年間でどれだけ伸びたか』を競い合え」

以下が拙稿である。

? すべての高校生の『伸びしろ』を大きくする

 「学校教育の目的は、すべての高校生の『伸びしろ』を大きくすることだ」。参加校の皆さんが口をそろえてそう発言した。私は、このことに一番感動した。一般に「改革」に成功した学校は「偏差値」があがり、「良い生徒」が集まる。しかし、その分は必ず、どこかの高校が下がることになる。私立ならばいざ知らず、公立校がそれでは意味がない。大阪ではこの矛盾の答えを出した。「入学した生徒が3年間でどれだけ伸びたか」で競い合うと。

 今年2月に大阪で開催された「第8回スクールリーダー・フォーラム」。私はゲストとして参加した。このフォーラム、並びにその背景については、拙著『大学「法人化」以降』(中公新書ラクレ)の五章にまとめた。参照していただければ幸いだ。しかし今回、外部からではなく、実際にフォーラムに参加してみて、その面白さが予想を超えていることを知った。

 そもそもの発端は大阪教育大で大脇康弘氏を中心として生まれた研究会にある。大脇氏らは、大学と教育委員会との意見交換(ときに事業の共同参画)や研究者や教委スタッフ共同の学校訪問・支援といった双方向的協働関係を模索したかった。学校現場を中心とした連携だ。それが実現して8年目、ここまでにすでに多様な活動が展開されてきた。

 フォーラムはその活動の一つであり、他の活動と密接に関係しながら、その結節点を作ってきた。今回も、「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」(以下、経営革新プロジェクトと略)の3年間にわたる成果を総括するのが目的だったのだと思う。

? 「個性」と達成目標とは何か

 「経営革新プロジェクト」は、府教委が主催する事業で、府立高校のいわゆる中堅校21校が参加し、3年間にわたる経営実践に取り組んだ。府教委では〇三年から北野高校、天王寺高校などのいわゆる「進学校」の教育内容の改革に取り組んでいたが、次には中堅校の特色作りに着手したかったのだ。

 今、教育界では「個性化」「多様化」「特色化」が大流行だ。しかし、それが大きな混乱をももたらしている。これらの言葉の本当の意味が理解されていないどころか、問題をごまかすために使用されたりする。例えば「高校生の多様化」「カリキュラムの多様化」とは、高校生の「低学力化」とそれへの対応のことだったりする。

 「個性」の理解の浅薄さは、普通科高校、特にその中堅校で暴露される。進学校や教育困難校なら看板を出しやすいが、中堅校になるとお手上げだ。その課題に取り組んで大きな成果をあげたのが、この「経営革新プロジェクト」だ。

 ここでは「特色作り」といっても、それぞれの学校の具体的な課題を明らかにし、その解決に取り組んできた。眼前の高校生たちの抱えた課題、それに全校で取り組むこと。学校の個性とはその結果生まれるものでしかない。

 しかし、中堅校は多様だ。伝統校も新設校もある。学習以前の生活態度の改善に集中しなければならない学校がある一方で、生活面から学習面へと指導の重点をシフトしなければならない学校もある。部活参加の割合を高めなければならない学校も、部活のエネルギーを学習にまわさせることに頭を悩ませている学校もある。そうした多様性の実態を知ることから、中堅校の全体像が見えてくる。その中での自校の位置、次の発展段階への見通しなども得られる。自校だけでなく、全体を視野に入れる中で、自己相対化が進む。

 その時に、各学校の課題が違うことも明確になってくる。画一的な目標や、達成度の競争は無意味だ。そうなると、教育成果をどう考えるかが大きな問題として浮かび上がってくる。改革の「成功」の基準はどこに置くのか。求められる成果とは何か。
「改革」で、学校内の生活指導や学習指導を改善するのは当然だし、学外への広報活動で努力するのも当然だが、その成果は「入り口」の入学試験の倍率や、「出口」の大学進学実績などで計られることになりやすい。そして成功した学校は「偏差値」があがり、「良い成績の生徒」が集まり、そこが浮上する。しかし、その分を、必ずどこかの高校が下がることになる。それでは意味がない。

  「成功」の基準は、あくまでも、「入ってきた生徒が3年間でどれだけ伸びたか」にある。ここに基準を置けば、すべての学校で可能であり、どこが上がった下がったという基準とは別に、絶対的な基準を用意することができる。

 また、「伸びしろ」を真剣に考えることで、各学校の目標・課題や、その成果の評価の考え方が変化するだろう。ある学校の校長は、「初めて浪人する卒業生が出た」という事実を成果としてあげた。その高校の大学進学者は少数で、入れる大学に進学していた。今は大学は「全入」だから、選びさえしなければどこかの大学には入れる。その結果、浪人は出なかったのだ。そうした中で浪人生が出現したのは、「どうしても入りたい大学」を意識する卒業生が出てきたことだ。これは大きな教育の成果なのだ。

 中堅校での教育目標とは何かの話も出た。「自分で食っていける」こと、そしてできれば、「他人を食わしていける」こと。こうした目標をはっきりさせて指導すべきだとの意見だ。

? オープンな雰囲気と緊張感

 研究会は、実態に即して具体的に検討しなければ意味がない。しかしそれが難しいのが実状だ。しかし、このフォーラムではそれができている。各学校の内情を隠すことなく、本音レベルでの報告がなされ、また討議も率直な意見交換が行われる。オープンな雰囲気がそれを可能にするのだろう。しかし、オープンではあるが、緊張感は維持されている。

 フォーラムのような場では、教育委員会と学校現場と大学の研究者の3者の連携のあり方が問われるだろう。そもそも、今はまだ、学校現場の改革のために3者が協力し合うこと自体が難しい。教育委員会と学校、管理職と教員とは敵対関係に近いことも多い。そうした中で、こうした連携が行われているだけでも大したことだ。しかし、大阪の試みはそこにとどまらない。

 ここにあるのは単なる外的な協力関係ではなく、内に批判の芽を持っている。他者への批判は、そのまま自分に跳ね返ってくる。教育委員会は現場を批判するだけではなく、現場の支援ができているかどうかが問われる。現場からだけではなく、大学の教員からの批判にも応えなければならない。学校も、支援を得られる一方で、外部からの批判にさらされ、課題などの内部事情はオープンにされる。大学の教員にとっては、自分の研究のための現場の調査やデータ収集ができるのはメリットだが、その学問のレベルは厳しく問われる。現場で有効な理論を提示できるかどうか。こうした緊張関係の中から、和気藹々とした雰囲気が生まれている。それがとても尊いことだと思う。

? 「書き言葉」と「話し言葉」と

 ここは現場主義ではあるが、実感にとどまることは許されない。気づきや疑問を言葉にして、深めていくことが求められる。その一つが「書き言葉」と「話し言葉」の一体の運用だ。毎回のフォーラムでは実践報告書が配布され、そこには大学の教員だけなく、各学校の管理職やスクールリーダーたち、教委のスタッフによる報告が並ぶ。それまでの討議は一旦は文章にまとまり、フォーラム当日はそれに基づいて議論が闘わされ、それはまた文章化されていく。多忙な中で文章にまとめるのは大変だが、この点では妥協がない。

 このシステムは、単なる現場主義に堕することを避け、理論的にも実践的にも蓄積を重視する立場で、これが8年間の連携を支えてきているように思う。

 この方法は大脇氏の発案だと推測するが、彼は雑誌媒体の利用によって、さらにこの「書き言葉」と「話し言葉」の円環運動を促し続ける。本誌『月刊 高校教育』や『月刊 悠』誌などには、フォーラム関係者の報告文がたびたび掲載される。

 それはフォーラム関係者のモチベーションのためでもあり、成果を学校現場の方々に還元するためでもあるし、研究成果の蓄積のためでもあるだろう。

 このように、外部や媒体をどん欲に取り組んでいくことで、フォーラムのマンネリ化は防止される。毎回、フォーラムには新たなゲストが登場する。今回は私も引っぱり出されたわけだが、フォーラム参加だけではなく、今執筆しているこの原稿もその一環なのだ。こうした大脇氏のプロデュース力が、大きな役割を話しているのだろう。

? 現実的理想主義のすごみ

 最後になるが、大阪という地域の特殊性を忘れてはならないだろう。大阪の府立高校では、以前から緊密な連携が生まれていた。校長たちの自主学習会も長い歴史を持つし、何十年も前から「教務研究会」が組織され、教務主任たちが横の連携を深めてきた歴史がある。みなで大阪の教育全体を支えようという意識が徹底されているのだ。その背景には、もちろん、大阪の厳しい状況がある。

 大阪の少年非行は全国ワーストワン。不登校や、学力低下、教育格差の拡大にも悩んでいる地域だ。そうした厳しさに向き合うために、もともと自主的な形で横の連携が作られていた。府教育委員会も並々ならぬ覚悟で取り組んでいる。

 フォーラムのある参加者が「大阪は商人の街。われわれも『上手くいってなんぼ』でやってますんや」と言っていた。商人の街大阪の、現実的理想主義のすごみをまざまざと見た気がする。

8月 15

第三文明社の子育て支援誌『灯台』9月号で
進路・進学決定のための特集を行っています。

私はその総論に当たるインタビューを受け、それが掲載されています。

以下がその内容です。

【タイトル】
仕事の話を聞かせて、
子どもの?問題意識?を育もう

鶏鳴学園学園長 中井浩一
取材・文/長野修

【リード】
有名大学に行けば一生安泰という時代は、終わった。これからの時代は、自分のテーマ、問題意識をしっかりと持った自立した個が、人生を切り開く。そのための鍵とは何か?

【本文】

●親からの自立が最優先
 進学・進路の決断を行なうためには、「自己理解」が不可欠です。つまり、自分の関心があることから人生のテーマを見つけ、問題意識を明確に持てば、進路進学は自ずと決まります。
 しかし、今の子どもたちにとって、これは非常に難しいのが現実で、それ以前の問題としてまず考えるべきは、親からの自立です。
 今問題になっているニートやフリーターは、少子化・核家族化が進む中で、親との一体感を非常に強く持ったまま育っているので、自立心が希薄です。そうすると、自分は何をしたいのか、自分の人生のテーマは何なのか、そういう問題意識を持つことができません。結果として自分の道を選び取ることができないのです。
 
●中高は、問題意識を育てるスタートライン
 昔は「大学に入ってから何をすべきか考えればいい。今は受験勉強だけをしろ」と言われたものです。これは、大企業に就職すれば生涯安心という終身雇用の時代には通用しましたが、終身雇用が崩壊し、離職率も高まっている現代にあっては、当てはまりません。今は、どんな局面でも自分で道を見つけ出し、乗り越えるための力が必要なのです。それを可能にするのが、問題意識なのです。
 従って、中学、高校時代は、自分のテーマ(問題意識)を見つけるためのスタートラインに立つ時期だと考えましょう。二十代である程度明確にし、三十代でそれを完成させる。ずいぶん遅いと思うかもしれませんが、今の社会では、このくらいの長い期間が必要です。

●親は自分の仕事の苦労を語れ
 問題意識を育てるために必要なことは、子どもに社会の現実をリアルに感じさせることです。具体的にはどうするか? 親が自分の仕事を語ることです。
 仕事の楽しさはもちろん、仕事の苦労や悩み、職場の課題、その背後にある社会の問題点などを、生々しく語るのです。そこで初めて子どもは、仕事をするということ、生きるということがどういうものなのかをリアルに感じ始めるのです。
 また、親の話を聞くことで、子どもは「親のようになりたい」とか「なりたくない」という生き方のモデルを持つこともできます。そこから問題意識が生まれ、自立心が芽生えます。親が自身のことを語ることが最初の一歩なのです。

●対象理解を通じて自己理解を進める
 進学進路の決断には自己理解が不可欠だという話をしましたが、これには時間がかかります。自己理解が不十分な場合は、「対象理解」に力を注ぐことも重要です。
 例えば、社会に関心を向けたり、職業や大学について情報を集め、調べます。社会という外側の世界を理解することを通じて、自分が何に関心を持てるか、持っているかを調べるわけです。つまり、対象理解を媒介として自己理解を進めるのです。
 対象理解を進めるためには、情報収集と現場を知ることが重要です。情報に関しては、インターネットや書籍などで十分収集できますが、それだけではなく、大学の勉強や職業について、実際に人に会って話を聞くことが大切です。

●大学は、興味関心で選ぼう
 大学選びは、仕事と結び付ける必要はありません。大学は職業訓練校ではなく、自立するための問題意識やテーマ探しが目的なのですから。例えば、法学部だけが弁護士になる道ではありません。工学部を出てロースクールで学べば特許関係に強い弁護士になれるし、医学部で学べば医療事故を専門とする弁護士にもなれます。要は、自分の興味関心があるものを学ぶのです。仕事を決めなくても、問題意識さえ持てればやりたい仕事が見えてきます。
 これからの時代に必要なのは、学歴ではなく、人間としての強さです。強さがあればどんな困難も乗り越えられます。その強さは、その人自身が培ってきた、テーマ=問題意識が土台となるのです。

【プロフィール】
なかい・こういち 1954年東京生まれ。京都大学卒業後、大手予備校講師などを経て、現在国語専門塾「鶏鳴学園」塾長。国語教育、作文教育の研究を続ける傍ら、教育改革についての活動も行なう。著書には『高校が生まれ変わる』(中央公論新社)、『「勝ち組」大学ランキング』、『大学入試の戦後史』、『大学「法人化」以後』(以上、中公新書ラクレ)等がある。

8月 03

 7月31日から8月2日まで、日本作文の会の全国大会で長崎に行って来ました。
 私が代表を務める「高校作文教育研究会」が、2日間の高校分科会をそこで開催するようになって7年。これまで毎年、実践報告をしてきました。
 参加者は長崎、鹿児島、兵庫、高知、神奈川、東京、茨城などから、15人ほど。
 
 私は、今年は「聞き書き」について報告しました。
 自己理解のための、対象・社会理解。そのためには、社会理解(現場取材とインタビュー)で、現実認識を深めて、自分自身の問いを立てる必要があります。
 そこでは、現実認識が上っ面にとどまらないための厳しい指導が必要だ、と話しました。それでこそ、自己理解が深まるのだと。(内容は拙著『脱マニュアル小論文』の第3章を踏まえたものでした)
 参加者からは好評でした。
 
 鹿児島県の中学での実践家として有名な中俣勝義氏も報告してくれました。定年後の福祉専門学校での「教育学」と「文学」の授業の実践報告でした。学生は10代から30代まで。
 「教育学」では、その多様な学生に、中学の実践から生まれた生徒作品を整理し、それをぶつけることで、各自の生き方・考え方を見つめ直すことを求めるものでした。受講者からのすばらしいコメントが生まれていました。
 『蟹工船』をテキストにした「文学」の授業でも、今の日本社会や、自分の生き方を見つめ直すことを促して、成功しているようでした。

 実は、少し前に、氏の中学での実践記録『先生!行き場がない』(1991年。エミール社)を読んで、心を動かされていました。
 私の実践と似ていることに驚き、また励まされたのです。
 それは以下の3点です。
(1)公開の原則
(2)認識の深化のために、観点を与えての書き直しを重視する
(3)生徒同士の読み合いを重視する

 特に、(1)と(2)は私と同じ考え方の方が少ないので、心強く思いました。