3月 19

高校作文教育研究会の2月の例会は、2月15日(日)に行われた。
この研究会は、私が代表を務めている全国的な研究会だ。

 報告の内容は以下の3本

(1) ハンセン病患者への聞き取り調査
               愛知県 日本福祉大学付属高校 今田 和弘

 文化祭でハンセン病を取り上げ、高校生と一緒に聞き取り調査を開始。しかし、文化祭学級企画では1年限り。そこに「総合」学習の導入があり、継続的に高校の授業で、聞き取り調査を通じてハンセン病を追い続けてみた。
本校でスタートさせた「地域とむすぶ総合的な学習の時間」で、FWを含むハンセン病と人権講座を行った。聞き取り調査を通じて「テープ起こし」をする力の意味を再発見!「レポートつくり」や「レジュメを作っての発表」。そして、地域での「ハンセン病パネル展示会」などを通して、高校生の力と総合のもつ可能性を発見した報告です。

(2)「短い論文」における「経験の一般化」の指導
      ?中井メソッドの指導理念と方法論にのつとって?
                 茨城キリスト教学園高校 程塚 英雄

 中井メソッドによる「短い論文」や「小論文」は、「経験」の部分とそれを「一般化」した部分に分かれ「一般化」した部分は「問い」、「分析」と「答え」で構成される。しかし、「経験」から 「一般」への飛翔は、『脱マニュアル小論文』も指摘するように、「多くの高校生にはムズカシイ」(P171)。この報告では、今年本校の三年生が書いた「短い論文」を数編読んでいただき、どうすればその壁を乗り場えさせられるか、皆さんと一緒に考えてみたい。

(3)「経験文を書く」―大学での実践例―
聖心女子大学 准教授(フランス中世史) 印出 忠夫

 中井浩一著『脱マニュアル小論文』で提唱された作文指導法を、大学一年生対象の半期の教養演習「経験文を通して自分を知る」の場で実践した経験を報告します。大学生といってもまだ新入生ということもあり、高校生の場合と比べてなにほどか新味のある結果をお話できるかどうかは良く分かりません。報告者は作文の指導経験が皆無なので、この機会にさまざまなご意見をいただければ嬉しく思います。

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(1)は、「聞き書き」シリーズの一環。

 これには、以下の事情がある。

 高校作文教育研究会は、昨年秋から1年間ほど、会のテーマを「聞き書き」として、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討しています。
 私たちの例会に、毎回各地の中学、高校のすぐれた実践家10人ほどをお招きし、みなで共同討議をします。もちろん、生徒作品を丁寧に読みながら、具体的に考えます。
 この成果は、研究会として本に出版する予定です。そのために、まずは今年の6月頃から雑誌「月刊 国語教育」に1年の連載をすることが決まりました。アンカーは古宇田栄子さんです。

 さて、今回の「ハンセン病患者への聞き取り調査」の報告は、実は3年前にも例会でしてもらい、共同討議をしている。今回は、その後の実践を踏まえての再報告であり、再検討だった。
 この調査は高1の文化祭の試みとして始まったが、その後総合学習として組織されて毎年全国の「ハンセン病患者」への聞き取り調査を行っている。
 学校のある愛知県は、県からハンセン病患者を一掃した県だ。保護者の中には、子どもを調査に行かせない人も出てくる。その学校の地元から追放された患者たちと、高校生は出会う。そして、何人かは、その事実と思いを、帰ってから自分の家族と話す。それは彼らを変えていく。高1で引っ込み思案だった女子は、家族と話し合う。この経験で大きく成長して、生徒会長を引き受けるまでになった。

 初回の高校生も大学進学し、すでに社会人になっている。衝撃的な聞き取り調査が、一人一人のその後の人生にどういった影響を与えたか、それを考えるだけの時間がすぎた。今回は、そこまで踏まえた議論ができて良かった。
 前回私が評価した二人は、その後、大学生になっても、この聞き書きに参加し、後輩たちのめんどうを見ていたという。一人は社会福祉関係、一人はトヨタに就職した。
 わたしが評価しなかった女子高生たちは、卒業後も高校に遊びに来て、聞き取り調査で出会った患者さんを懐かしがると言う。
 参加者のある年輩者からは「電車に乗っていると、老人にひょいと席を譲ってくれる気のいい茶髪の女子高生がいるが、彼女たちの文章がこうしたもんだ」「思ったこと、感じたことを、何の考えもナシに書いてしまう」。そうした文章も、またそうした「気のいい」彼らの自己表現として、的確に評価されることが必要だとの指摘だ。
 こうした指摘から、さまざまな高校生たちの文章の読み方を学んでいける。

(2)の程塚英雄さんの報告は、極めて重要な問題提起だ。
 それは、高校生が論文を書く目的は何か、経験を一般化することにどういう意味があるのか、という問題だ。高校生の日常と普遍世界をどうつなげばよいのか、という指導方法に関する問題でもある。「経験」から「一般」への飛翔は、いかにしたら可能なのか。この問いに、すべての教師は自分の答えを用意しなければならないはずだ。

(3)は大学の初年次教育、基礎教育の在り方を考える上で重要だ。
 繰り返し試みて、練り上げていって欲しいと思う。
 

3月 11

 今月の『中央公論』誌(2009年4月号)に、「大学病院、その赤字経営の実態とは」というサブタイトルの原稿を掲載しました。
 本タイトルは「アルバイトで隠れる医師の本当の給与体系」です。
 こちらは、内容全体の一部しか表していませんが、刺激的なタイトルを編集部はつけたがるのです。

 大学病院を国立大と私大の両面から、その経営・財務面で考えるための、いくつかのポイントを提示しました。
 これは問題の入り口でしかなく、問題提起でしかありません。

 これを入り口にして、問題の全容と、その解決策をまとめて、新書で刊行する予定です。

 教育問題も、医療問題も、同じ構造があります。
 表の顔と裏の顔があり、裏の顔は関係者しか知らないことです。そして、表の面だけが議論され、進められていきます。
 裏も含めた全体を表に出すことからしか、何も始まらないでしょう。

3月 05

 2月28日に大阪で開催された「第8回スクールリーダー・フォーラム」にゲストとして参加した。

 このフォーラムは、教育委員会(大阪府教委)と学校現場と研究者(大阪教育大)の3者が共同討議する場として用意されている。詳しいことは、拙著『大学「法人化」以降』の第5章の?に書いた。
 今回の現場は府立高校の「中堅校」だ。中堅の普通科高校は、「個性」化のもっとも難しい学校だ。そこでの改革の様子が報告された。

 会の終わりで、私が述べたコメントは以下の通りだ。

?教育委員会と学校現場と大学の研究者の3者が、実際の学校現場の改革のために協力し合うことは、諸事情でとても難しい。教育委員会と学校、管理職と教員とは敵対関係に近い場合もある。そうした中で、この大阪の試みは希有な例であり、現場の方々にとってはとてもラッキーなことだ。

?研究会は、実態に即して具体的に検討しなければ意味がないが、それが難しいのが実状だ。それがここではできている。各学校の内情を隠すことなく、本音レベルでの報告がなされ、また討議も率直な意見交換が行われる。これこそ、現場の参考になる討議だ。

?「個性化」が大流行だが、この言葉は現場から出てくる発想ではなく、上からの押しつけで画一的なものになりやすい。外的でいかにも浅薄なものが多い。そのために、進学校や教育困難校ならいいが、中堅校になると、どうしていいのかわからなくなる。そのことが、この言葉の理解の浅さ、軽薄さをよく現している。

 「個性」とは、その現実の問題の中にあり、それを解決していく中から生まれてくるものだ。各学校の個性とは、その学校の課題、眼前の生徒たちの課題と、その克服から生まれる。それ以外にはないのだ。その課題にどこまで的確に、深く関わったかで、その個性が決まってくる。これは人間個人の「個性」も同じなのだ。

 今回の大阪府教育委員会の試行は、各学校の課題発見、課題解決を「個性化」としてとらえようとしている。この方向性は真っ当であり、あくまでも正しい。それを3者が協力して実現しようとしている点がすばらしい。

 また、伝統校や新設校、学習以前の生活態度の改善に集中する学校や、そうした段階から学習へと集中する段階の学校、部活参加の割合を高めなければならない学校から、そのエネルギーをどうしたら学習にもまわせるかを問題にする段階の学校。そうした多様性が、中堅校の全体、その中での自校の位置、次の発展段階への見通しなどを得られる結果になっている。それが、良い点ではないか。

?一番感動したのが、学校教育の目的をすべての高校生の「伸びしろ」を大きくすることにあると喝破している発言が出て、みなに共有されていることだった。

 改革の「成功」の基準をどこに置くのか。求められる「アウトカム」は何か。これは大問題だ。

 「改革」で、学校内の生活指導や学習指導を改善するのは当然だし、学外への広報活動で努力するのも当然だが、その成果は「入り口」の入学試験の倍率や、「出口」の大学進学実績などで計られることになる。そして成功した学校は「偏差値」があがり、「良い成績の生徒」が集まり、そこが浮上する。しかし、その分を、必ずどこかの高校が下がることになる。それでは意味がない。

 「成功」の基準は、あくまでも、入ってきた生徒が3年間で、どれだけ伸びたか。ここに基準を置けば、すべての学校で可能であり、どこが上がった下がったという基準とは別に、絶対的な基準を用意することができる。

 こうした発言が共有される大阪の教育現場の秘密はどこにあるのだろうか。こうした研究会がそれを支えているのか。

 以上が、私のコメントだ。会終了後の「飲み会」で、?の「秘密」については、大阪の府立高校では何十年も「教務研究会」が組織され、教務主任たちが横の連携を深めてきた歴史があり、みなで大阪の教育全体を支える意識が徹底されているという意見をうかがった。

 また、成果のアウトカムの考え方だが、「初めて浪人する卒業生が出た」事実を聞いて、その意味を考えた。それまでは大学は「全入」だから、入れるところに行っていて浪人は出なかった。「どうしても入りたい大学」を意識する卒業生が出てきたこと。これはすごいことなのだ。それを、教育成果としてどう評価できるか。評価者の側が問われている。

 中堅校での教育目標とは何かの話も出た。「自分で食っていける」こと、そしてできれば、「他人を食わしていける」こと。こうした目標をはっきりさせて指導すべきだとの意見だ。私はそのシンプルさに賛成だが、「仕事」にさらに「家庭」を加えたい。「結婚しない」ことも含めて、「家庭」の課題に答えなければ、人間になることはできない。

 規定では学校に通学できない生徒は、「おれの友達だから」といって校長室に来させ、授業を受けさせる、と語る校長。生涯一教師として、生徒に向き合いたいという教師に、主席(東京の主幹)を引き受けさせた校長は、「クラス担任や教科担任は自分のクラスの生徒しか救えないが、管理職になれば、学校の多くの生徒を救える」と、自らの行動で示す。

 大阪「らしさ」を深く感じた半日だった。

 このフォーラムの背景については以下を参照して欲しい。事務局長の大阪教育大の大脇康弘さんの説明文からの引用。
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 第8回スクールリーダー・フォーラムは『学校の自己革新と支援体制―学校革新プロジェクト2008』をテーマに掲げた。これは「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」(以下、経営革新プロジェクトと略)の3年間にわたる成果を、4年目に当たる今年1年間かけて振り返り、さらなる実践的展開と理論的整理を行うことを主眼としている。

 「経営革新プロジェクト」(2005年?2007年度)は、大阪府教育委員会が主催する規模の大きい事業で、府立学校21校が経営革新推進校として参加し、3年間にわたる経営実践に取り組んできた。大阪教育大学スクールリーダー・プロジェクトは、この事業に参画し、学校を支援する取り組みに深く関わってきた。毎年度、推進協議会が年3回開かれ、21校の教職員と担当指導主事、大学教員の50名近い人々が、実践報告と研究協議を重ね、学びを重ねてきた。さらに、大学教員と担当指導主事が連携して、アクションリサーチ校4校、比較対照校4校を訪問調査し、学校の観察調査と意見交換を行った。

 そして、昨年度の第7回スクールリーダー・フォーラムは「学校課題への挑戦?経営革新に取り組んだ3年間?」と題して、21校すべてのポスターセッションとパネルディスカッションを実施した。これには、高等学校の校長・教頭、首席、教諭、教育委員会職員、大学教員など191名が参加し、経営革新という堅いテーマをめぐって、幅広い交流がなされた。第8回は、この成果を総括し、さらにグレードアップを図るべく、次のような枠組を設定した。

 第一に、事例校を5校に絞り、ミドルリーダーによる学校革新の歩みの整理、校長による学校革新のマネジメントの報告、研究者による学校革新の特徴と課題の分析を交錯させることを通して、立体的な把握を試みた。

 第二に、学校革新を支援する教育委員会および大学の在り方を実践的に整理し、理論的な問題提起を試みることにした。

 第三に、学校革新や高校教育の研究に造詣が深い人々を招き、私たちの取り組みを位置づけ評価してもらうこととした。水本徳明(筑波大学准教授、学校経営学専攻)、中井浩一(鶏鳴学園学長、教育評論家)、服部憲児(大阪大学准教授)、大野裕己(兵庫教育大学准教授)、芹沢利弘(筑波大学大学院、高校教諭)の方々にゲスト参加をいただいた。

 第四に、5校の事例校のミドルリーダーが、このフォーラムの主体となって報告、研究協議、そして司会運営を行うよう企画した。
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3月 02

 本日(3月2日)の「朝日新聞」朝刊の教育欄(18ページ)で発言しています。学長選挙の在り方についてです。
 拙著『大学「法人化」以降』の第7章の?に書いたように、国立大学が法人化して以降、学長選挙が変わり、紛争が起きているところもあります。
 従来は学内投票で決めていました。今はそれは予備投票(意向投票)でしかなく、決定権は学長選考会議にあります。その二つの結果が食い違う場合は、問題が起きる可能性があります。

 私のコメントはずいぶん削られましたが、少し補うと以下になります。

 意向投票の結果を選考会議がひっくり返す例は富山大以外にもあるが、むしろ、選考会議として意中の人物がいるのに、意向投票で違う人物が1位になると、そちらに従う例の方が多いと思う。「改革派」の学長(千葉大、埼玉大、鳥取大、電機通信大など)が、二期目にほとんど落選しているのは、そのためではないか。
 学長は、単純に学内の多数決で決めれば良いとは思わない。医学部や工学部といった票数が多いところが役をたらい回しにしてきた大学もある。学長選の最大の問題点は、真に経営力があり改革ができる人を選ぶために、選考会議がちゃんと機能しているかどうかだ。
 大学の経営には多額の税金が使われている。ふさわしい人が選ばれたことを国民がチェックするために、経営会議の委員は、投票した人とその理由を開示するべきだ。また、候補者も具体的な数値を示して経営方針を語るべきだ。

2月 20

 本日、拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)が書店に並びます。本書は、私塾で四半世紀にわたり試行錯誤しながら開発してきた、読解方法の紹介です。これは評論の読解、論理トレーニングの本なのですが、日本における国語教育、大学の一般教養教育、国語学や言語学を批判する、問題提起の書でもあります。
 ぜひ、書店で手にとって見てください。参考までに、「第1章」を転載しておきます。長いですけど、興味のある方はお読みください。
 

「論理トレーニング」と「国語」教育

1 「国語って、勉強してもしなくても変わらない」
読者の皆さんは、小学校、中学、高校と長い期間に渡り「国語」を学びました。さらに大学で本や文献の読み方を学び、レポートや論文の書き方を学んだ人もいることでしょう。しかし、それらが現在の生活に役立っているでしょうか。ほとんど何の意味もなかった。そう思っている人が多いと思います。
「国語って、勉強してもしなくても変わらない」。私は主に高校生を対象とした国語専門塾を主宰していますが、こうした声が中学生や高校生からよく聞かれます。いや彼らだけではなく、社会一般の圧倒的多数の声と言っても良いでしょう。
まったく、国語くらい重要だと言われながらも、バカにされている教科はありません。小学校では「主要四教科」、中学・高校では英数とならんで「主要三教科」と言われながらもです。事実、英語や数学のためには塾や予備校に通っても、国語はほっておかれています。
「現代国語は勉強法がまったくわからない。数学とか英語だったら、こうやればこう伸びるという予想がつくけど、現代文に関しては何をやればいいかわからない。がむしゃらに問題集を解いてもできるようにならなかった」。こんな声も多いのです。
 その結果、「国語ってセンスでしょ」とか、「本を読んでないから読めない」とかと言った俗論がはびこるのです。また、他教科は実用的で、現実と関わっていると思われていますが、国語は全く実用的でないと思われています。せいぜいが「教養」になるぐらいです。
私は二〇年以上に渡って、高校生を中心に、中学生や大学生・社会人の方々に文章や本の読み方を指導してきました。その経験を踏まえて申し上げるのですが、こうした俗論はすべて間違いです。国語にセンスは関係しても、それは無視してよい程度です。本をどんなにたくさん読んでいても読めない人はいます。いやほとんどの人がそうです。国語には本当は正しい方法があります。そして、国語はすべての他教科の基礎なのです。それは実用的どころか、現実と深く切り結び、みなさんの悩みを解決し、この社会を変えるために威力を発揮します。

2 国語力って、本当に「能力」?
しかし、私のような意見が広がることはありません。世間の大声、大合唱に圧倒されてしまっています。なぜでしょうか。
実際の教育現場で、本来の国語の指導がなされていないからだと思います。そこには国語教育のきちんとした「方法」が存在しないように見えます。どうしてそうなってしまうのかと言えば、国語とはどういう能力を養成する教科なのか、それがはっきりしていないからだと思います。
「えっ、国語って能力なの」。ほら、読者のみなさんは驚かれるでしょう。しかし国語は立派な能力なのですよ。では現国の能力とは何でしょうか。それは一言で言えば、思考力のことです。つまり論理の運用能力です。
「国語」というとあいまいですが、「日本語」と言えばハッキリするでしょう。日本人は、日本語で考え、日本語で生きているのです。その能力が問われているのです。それがはっきりすれば、その「トレーニング方法」とは、先ずは「思考トレーニング」、つまり「論理トレーニング」に他ならないことがわかるはずです。
このことは「国語」と他教科との関係を考えればはっきりするはずです。国語の教科書を広げてみて、そこにどんな種類の文章がはいっているかを調べてみましょう。評論、報告文、紀行文、インタビュー、ルポ、手紙、コラム、エッセイ、小説など、ほとんどあらゆるジャンルがあります。しかし、注意してほしいのは、そのテキストのナカミです。その内容を見れば、ほとんどすべての教科に関係していることがわかります。例えば異文化理解や人権をテーマにした社会科のナカミが入っています。自然との関わり方やエコロジー等の理科も入っています。数の不思議やコンピュータ言語などの数学もあります。日本語と外国語の比較をする言語学のナカミもあります。音楽も美術も保健体育も家庭科もあります。
およそすべての教科の「内容」がそこにあるわけです。しかし、そうであるならば、なぜその内容を、わざわざ国語科で学習しなければならないのでしょうか。それはそれぞれの教科でやれば良いはずです。
では、国語の時間に学習しなければならないこととは何でしょうか。それは文章の「形式」を読むということです。すべての文章はその固有の「内容」を、それに相応しい「形式」で表現しています。その形式にはジャンルということも含まれますが、その核心には「論理」があります。その形式と論理を学習することこそが、国語科、日本語の学習に固有の目的です。

3 「道徳教育」と「文学教育」
ところが、こうした根本の点が曖昧にされているだけではありません。むしろ、その正反対のことが、国語教育の名の下に行われているのです。一言で言えば、「道徳教育」と「文学教育」です。
国語が道徳教育になっていることは、石原千秋さんが『秘伝 中学入試国語読解法』で喝破した通りです。小中の国語の時間は、道徳のすり込みに特化していることが多いのです。文章の「形式」を丁寧に読むよりも、その道徳的結論がわかれば良いことになっています。つまり、ナカミが読めればよいと言う内容主義です。そして、それを逆手にとって、内容的にパターン化した方法で、受験問題を説いて見せたのが石原さんの方法です。
しかし、道徳で何が悪いのでしょうか。それが国語と違うだけなら、それほどの問題はないかも知れません。しかし、道徳はある意味では国語の対極にあるのです。むしろ、道徳教育は国語力を伸ばすことを妨げるのです。実際に教育現場で行われている「道徳」ではきれいごとが支配し、建て前を読みとることしか求められないからです。そこでは本音や現実の蔭の部分が切り捨てられます。しかし、本来は現実に深く切り込み、現実と徹底的に格闘することこそが、国語力なのです。本音や蔭の部分にも目を向けることで、立体的な現実像が得られますし、それによって、現実をしたたかに生きていく力を得られるはずです。そこでこそ「論理」が鍛えられるのです。
国語が文学教育になっていることも、良く知られています。小中の国語の授業では、物語や小説に多くの時間がさかれています。それも、道徳教育に関係します。子どもたちにとって身近でわかりやすい物語を教材にすることが、道徳教育には有効だからです。
全体として日本の国語教育は、評論などに比べて文学の比重が大きすぎ、その指導のナカミでもテキストの分析や論理性よりも感性的で「文学」的なことに偏りすぎ、しかも道徳を教えればよいと言う内容主義になっているのです。病は重いと言わざるを得ません。
この傾向は、小中だけではなりません。高校でも国語は事実上、文学教育と道徳教育になっていることが多いのです。それは、教員の補給源に大きな問題があるからです。
高校で国語を教えている先生方は、大学で何を学んだ人たちでしょうか。論理でしょうか。文学でしょうか。多くの先生方は、国文科の出身で、文学を研究してきた人なのです。人間は自分の知っていることしか教えることはできません。論理を学んでいない人が論理を教えることはできないのです。
そして、もう一つ言っておきましょう。国語が道徳教育になっている理由についてですが、それは世間や行政からそのように要請されているだけではないのです。基本的に、今の学校(大学も含む)の教員には、道徳しか教えられないと言う事情があるのです。なぜなら、彼らのほとんどは、学校や大学などの世界しか知りません。しかし、これらの世界は現実の矛盾や厳しさから隔離され、守られてきた場なのです。そうした、現実から浮いた世界しか知らない人には、現実の建て前や表面は教えられても、その厳しい側面は教えることはできないのではないでしょうか。
しかし、国語力が論理力だと言うと、すぐに、では文学は教えなくてもいいのか、という反論が出てくると思います。日本人は、日本語で考えるだけではなく、日本語で「感じて」もいるのだ、というわけです。そのトレーニングはどうなるのか、というわけですね。
小・中ならかまいませんが、高校の国語までが文学中心である必要はないと思います。それは、音楽や美術と同じく、「文学」という選択科目であるのが妥当だと思います。必修ではないと言うことです。すべての日本人、高校生が必修として学ぶべきなのは「文学」ではなく、先ずは思考力であり、論理の運用能力に他なりません。文学を読む上での基礎にも、やはり論理があるのです。それは音楽や美術の基礎にそれがあるのと同じことです。

4 大人のための「日本語トレーニング」
幸いにも、本書の読者は大人の方々です。子どもたちではありません。日々、リストラの危機やグローバリズムの嵐に巻き込まれながら闘っているサラリーマンの方々です。行政改革、公務員改革、地方分権などでもみくちゃになっている行政マンの方々です。老人介護や家庭内離婚、子育てや子どもの受験で悩みを抱えている主婦の方々です。皆さんは酸いも甘いもかみ分けられる大人の方々です。社会にもまれ、現実の裏も表も見てきています。人間関係の難しさも良く理解し、本音と建て前の使い分けにも習熟されています。それでこそ、国語のスタートラインに立てるのです。今こそ、大人のための「日本語トレーニング」を始められます。
「道徳国語」とはさようならです。学校の試験や入試のために勉強する必要もありません。もはや建て前で発言したり、人の顔色を見たりする必要はありません。本当に自分自身のために、現実を深く理解するために、家庭や社会を深く理解するために、リアルな認識を持つために、真の国語を勉強するのです。
本当に、幸いなるかな、です。それでこそ、本当の学習を始められます。国語は言葉を駆使して、思考力でもって現実を認識するためのものです。私たちは現実と向き合っていますが、それを媒介するのは言葉であり、思考力だからです。私たちは他人とコミュニケーションをしますが、それも言葉によるのです。この他人とのコミュニケーションの一つが文章を読むこと、書くことです。言葉によらないコミュニケーションもありますし、直感力も大切です。しかし、最後には、やはり言葉を駆使し、思考力でまとめてこそ認識が確かなものになります。身体的コミュニケーションや直感力も、言葉によって磨かれるのです。

5 シンプルで簡単な方法
さて、以上を理解してもらったとします。しかし、その先がまた問題です。「形式」を学ぶこと、「論理」を学ぶことの重要さはわかったとして、それはしちめんどうで、ムズカシいのではないか、と不安にならないでしょうか。もう何度も「論理」トレーニングに挑戦したが、結局ものにならなかった。結局は「机上の空論」で役立たなかった。そうした苦い思い出もあるでしょう。
そもそも日本の教育現場において、「論理トレーニング」はどこでどの程度行われているのでしょうか。国語教育のほとんどは道徳教育や文学教育です。中学や高校の社会科や国語科の一部などでディベートが取り入れられるようになってきました。模擬裁判なども行われるようになっています。「国語」の枠内でも、大学受験対策は論理的な読解が問われますし、予備校などで行われるマニュアル的な指導の中にも「論理トレーニング」的な要素があります。多くの支持者を得ている参考書もいくつかあるようです。「小論文」のマニュアル的指導にも「論理トレーニング」的要素が含まれます。
では大学ではどうなのでしょうか。ほとんど何も行われてこなかったと思います。有名になった東大の野矢茂樹氏の『論理トレーニング』は、そうした現状を打破するものだったからこそ、話題になったのでしょう。
彼は大学の現状への批判から始めています。大学の「論理学」の授業は「記号論理学」一辺倒で、そのままでは「ただの珍奇な代数」で、現実には役立ちません。そこで野矢氏は、記号論理学はもちろんのこと、ディベートや「反論」に関する本を読んだり、大学の教員が毛嫌いしそうな「受験参考書」にも丁寧に目を通し、模索した末に、たどり着いたのが「論理トレーニング」でした。
『論理トレーニング』の最大の価値は、その実践性、実用性にあったはずです。だからこそ評判になり、かなり売れたのでしょう。大学生よりも一般サラリーマンが読んでいるようです。
 こうした現状を見れば、日本社会全体に少しずつ「論理」の意味やその「トレーニング」法が意識されてきていると思います。私は、これらの試みを地味に追い求めてきた方々の努力に敬意を払う者です。
しかし、それもまだまだ途に付いたばかりだと思います。こうした流れを、よりしっかりとした巨大なうねりに高めたいものです。今回、私の方法を公表するのもそのためです。
私の方法はごくごく簡単なものです。わずか三つの論理しかありません。反対の関係の「対」、同一の関係の「言い換え」、橋渡しをする「媒介」です。この三つの組み合わせで、すべての論理を読み解くのです。
それは中学生以上のすべての人がやっていけるような簡単な方法です。そして、そのトレーニングによって、論理の能力を向上させ、複雑で難解な文章や本も理解することが可能です。そして、何よりもこの方法は、現実をどこまでも深く考えるために威力を発揮します。それは、本編で確認してみてください。