この本は昨年(2008年)夏に刊行されたが、非常に売れているようだ。近くの図書館で予約してみたが、多くの希望者がいて順番が回ってこない。
なぜ、それほど多くの読者に支持されているのか。面白いからだろう。読者サービスに徹している。面白く読める工夫に満ちている。「アドレナリン分泌」が促されるように書かれている。これは本書に限られず、佐野の本はすべてそうで、それゆえにほとんどが文庫化されている。
「読者サービス」とは具体的にどういうことか。1つは、二重の物語を提供することだ。まず、テーマに関して、取材した人物たちが語る物語がある。これはルポなのだから当然だ。しかし佐野は、他に取材過程自体をもう一つの物語に仕立て上げている。つまり、佐野が取材をどう進め、どういった障害があり、その渦中で何を感じた(特に「アドレナリン分泌」の瞬間が強調される)のか。それがこと細かく書かれる。取材現場に読者を招待するわけだ。
また、テーマの描き方だが、歴史や政治状況などの一般的な説明はほとんどない。あくまでも人物たちの人生を描くことで、大状況を語ろうとする。今回も、政治、経済、文化、芸能までの広い範囲の中から、トップエリートたち、政治家、運動家から、娼婦やヤクザまで、魅力的な人物たちをずらっと並べて、彼らの人生を、その彩なす織物のような人生模様を描くことに徹している。
さらに、その人生の描き方だが、人間の相関図の中で、その人間を浮き彫りにする。その人の人脈を丹念にたどり、人、物、金の流れを追うのだ。ヤクザと政治家、左翼と右翼といった、思わぬ人との関わりを描くことで、その本質や問題を描く。これは一般にも有効な方法だが、地縁、血縁の強い沖縄だから一層有効だったことだろう。
以上に述べた方法は、佐野が最も得意とするもので、彼はいつも人脈さがしから取材を始め、それらの人間を捜し出してインタビューする。そして、彼は、こうした過程で取材相手に激しく感情移入し、時には憑依するかのような迫り方をする。
以上で、佐野の方法とその人気の秘密は明らかだろう。その方法は、本書でも「面白く読ませる」点では成功している。沖縄の全体像が浮かび上がり、戦前から戦後の沖縄の諸問題が立体的に見えてくる。天皇の関わり、基地の借地権、奄美への差別、ヤクザや政治家の動き、芸能プロダクションなど、知らなかったことばかりだった。
しかし、ここには何がないかも明らかだ。あくまでも個人に光を当てているので、組織や運動、歴史や社会構造を理解することはできない。また、人間は地縁、血縁関係から描かれ、その思想は無視、軽視されている。正直に言って、本書は私には退屈だった。私の「アドレナリン分泌」は促進されなかった。
いくつか、問題にしたいことがある。
第1に、人物を、その人脈を描くことで示す方法の是非だ。それは、どこまで有効なのか。
人の本質は、他者との関わりに現れ、その関係の総体が、その人に他ならない。それは真実である。したがって、その人脈をさぐる手法が有効なことは明らかだ。
私も、最近、ある人を考えるときに、その出身地、出身校などの「出自」で、その人の根っこの部分がわかると思うようになってきた。しかし、それが淋しく、残念にも思う。それは、地縁と血縁(両親や親族)といった偶然のもので、人間の根底が決まってしまうことを意味するからだ。出身地は地縁そのものだし、出身校も地縁と血縁(両親の考え)で決まる。沖縄は島国で、こうした地縁と血縁が強いということなので、一層、こうした偶然の要素で決まってしまうだろう。
しかし、それで良いのだろうか。私は、地縁と血縁に対しては、思想縁を対置したい。本人が自覚的に選択したものでない条件に対して、それを克服する可能性をさがしたいのだ。それを考えれば、調査はその人の思想縁に関係するような、先生、盟友、同志を、他の関係より重視するだろう。その思想が、地縁、血縁といかに闘ったかが中心になるだろう。
しかし、こうした方向性は、本書にはない。そこには関心が向けられていないからだ。それが私にとって、本書が退屈な一番の理由だろう。
本書で示された観点で面白かったことの一つは、「沖縄の芸能」を代表する人物として、多くの芸能関係者が瀬長亀次郎の演説を挙げていたことだ。瀬長は日本共産党に入党し治安維持法違反で3年の懲役刑を受け、戦後は沖縄人民党の結党に参加し、書記長になる。その後は那覇市長、日本共産党中央委員長、1970年からは7期連続で国会議員を務める。そうした人間が「芸能人」として評価されるのは、沖縄以外では考えられないだろう。
この瀬長は本書でも取り上げられているので、さぞ面白い事実で埋め尽くされているだろうと期待する。しかし、それは完全に裏切られる。全体で650ページ、ヤクザ関係だけで150ページもある本で、瀬長の出てくる章は30ページ、しかもその内の瀬長に直接関わる叙述は10ページもない。思想の闘いはほとんど描かれず、獄中で家族宛に書いた手紙が届かなかった事実が書かれるだけだ。ここに、本書の駄目さが集約されている。私は政治向きのことだけを言っているのではない。それは省略しても、芸能としての彼の「語り」については詳しく展開してこそ、本書らしさがでたはずだろう。それがない。
第2に、「大文字の沖縄」批判を取り上げたい。佐野は、大江健三郎や筑紫哲也らの書いた沖縄を贖罪意識で書かれた「大文字の沖縄」だと言う。それは沖縄を聖化し現実をとらえない。それは結果的に沖縄を愚弄することになるし、「それでどうしたの」といった感想を持つ。そう言うのだ。
そして、それに対置しているのが、佐野自身のルポで、それが「小文字の沖縄」だという。しかし、その実態はすでに述べたものであって、私は「それでどうしたの」といった感想を持つ。
「小文字の沖縄」とは、概念的な「大文字の沖縄」に現象的な把握が対置されているのだろうが、両者は本来は敵対するものではなく、相互補完的なものだろう。問題は、どちらが重要かではなく、それが概念的でも、現象的な把握でもよいから、そのレベルであり、それが対極の理解にどれだけ貢献できるかだけだろう。
その時に、書き手の動機に焦点を当てることは不毛だと思う。佐野のように「好奇心」からでも大江のように「贖罪意識」からでも、動機はどうでもいいと私は思う。誰もが、自分の問題意識から始めるし、その得意な方法で対象を捉えようとする。そこには問題はないだろう。問題は、結果であり、どこまで対象の本質に迫れたかだけではないか。それには動機以外にも検証すべきさまざまな要素がある。問題意識の強さもあるし、その人の歴史や政治、経済の知識、活動力や取材力、何よりも認識能力に大きく依存する。その結果を問題にするときには、これら全体とその関係を問うべきだろう。
小林よしのりは大江の動機を「自分だけは善良な日本人だ」と宣言したいと推測している(と、佐野は書く)ようだが、大江の全体像を示した上で言っているのだろうか。佐野は、自分の「小文字の沖縄」を持ち上げるが、私にはそれほど本質に迫れているように見えない。それは佐野の認識能力が低いからだと思う。
例えば、佐野は、日本の高度経済成長を、戦時中の満州国の建設との関連でとらえ、「失われた満州を国内に取り戻す壮大な実験」だったと言うのだ。しかし、それは倒錯した議論だろう。
一次産業から二次産業への転換、工業化の発展に必要だった条件(地縁、血縁から解放された自由な資本と労働力、大地主制からの農地解放など)が、戦前に国内にはなかった。それは戦後の占領軍統治下で実現し、それゆえに高度成長が可能になった。暴力で中国から奪った満州と、自由を求めて満州に飛び出した人々は、こうした条件を満たしていた。そこで高度成長の先取りのようなことが行われていたということだろう。もっとも、戦後になって「満州」はほとんど無視されてきたから、それに光を当てるのは必要だ。しかし、それを必要以上に持ち上げるのはおかしいと思う。
? なお、本書で、沖縄での創価学会(公明党)の力を指摘しているのはなるほどと思った。創価学会は高度経済成長下の農村出身の工業労働者が、地縁血縁から切り離されたことを代償するためのものだからだ。