4月 14

程塚秀雄さんが4月4日に亡くなり、8日に葬儀が行われました。
高校段階の作文教育における
「畏友」でした。
享年76歳。
16歳も年の差がありましたが親友であり、盟友であり、悪友であり、中井メソッドの広報担当であり、私の後見人でありました。

彼については一文を書くつもりです。

4月 13

5月の連休中に2日間の集中ゼミを開催します。

それにともない5月10日予定の文章ゼミは中止します。

集中ゼミに関心がある方は連絡ください。ただし、参加には条件があります。

———————————————————–

5月の集中ゼミ

(1)日時
4日(日曜)の午後と晩
5日(月曜)の午後。

(2)場所は鶏鳴学園

(3)初日 5月4日(日曜)
  午後 原書購読
   ヘーゲル 大論理学の目的論 
    
    ズーアカンプ社版全集の第6巻で
     436ページから445ページ上から3行目まで
     すでに436ページから443ページの中ほどまでは読み終えています。
     残りを読み終えるとともに、全体の復習と総括をします。

  晩は、文章ゼミと「現実と闘う時間」

(4)5日(月曜)
  午後 読書会
   1.関口『無冠詞』の総括
  
   2・マルクスの『経済学批判』(岩波文庫)の序説

(5)参加費
午後の原書購読、読書会は1日で5千円。2日で1万円
文章ゼミは一般参加者は2千円

4月 02

2013年に中井ゼミで考えたこと その7

6 公開の原則

    個人情報保護法が施行され、プライバシーへの配慮が強く求められるように
   なっています。これがまた、批判のあり方に大きな影響を与えているようです。

    ネット社会によって、個人の意見を公表する際に、それを実名でするかどうか
   なども、大きな問題になっています。

    私のゼミでもそうした問題が問われています。
   しかし、私のゼミの特殊な事情があるように思います。それを最初に説明しましょう。

  ○中井ゼミとの関わりを「隠す」こと
   私のゼミに参加したり、師弟契約を結ぶまでになっている人の中に、そのことを
   親や世間や所属する会社などの周囲には隠している人がいるのです。
   そういった人は、文章ゼミなどで文章を提出して批判を受けても、それを
   メルマガなどに掲載すること、ましてや実名を出すことは嫌がります。
   しかし、この問題は「公開の原則」とは本当は無関係だと思います。
   中井との関係を周囲に隠しておきたいだけだからです。
   なぜ「隠す」のかといった問題がありますが、今回は私のゼミの現状を報告するにとどめます。

    さて、私のゼミの特殊性の問題とは別に、プライバシーの尊重の名のもとに、
   公開が制限されるようになっていますが、これはどう考えたらよいのでしょうか。
   一言でいえば、それは「例外」だというに尽きると思います。

    以下、私見です。これには賛否両論があると思います。そういう性質の問題だからこそ、
   私見を公表し、参考にしてもらいたいと思います。

                                         

   「公開の原則」

  (1)公開が原則。非公開は例外。
     つまり、原則として「個人は実名で自分の考えを発表できるし、
    その根拠として、自他の固有名詞をあげてその言動を具体的に示すことができる」
     多くの人はこの逆に考えている(原則は非公開。例外として公開)が間違いである。

  (2)問題は思想の自由と表現の自由と、その責任の問題。
    プライバシー保護の名の元に、思想や表現の自由が否定されることはありえない

  (3)真理は光を求める。不正は闇を求める
    真理のためには、すべての公開が大原則
    事実、裁判になれば、問題に関連するすべて(プライバシーも)が公開される。

  (4)例外として実名を伏せたり、言動を伏せたりすることは認められる。
    ただし、それはあくまでも「例外」としてである。

   〈1〉公的言動はすべて公開が原則
   〈2〉私的言動についても
      公人(政治家、役人、芸能人など)は原則公開
      また犯罪行為などに関わっては、たとえば裁判ではすべてのプライバシーが公開
      また報道もされる
       その例外が「少年法」
   〈3〉「例外」とはその人の生前に限られる。
      死後は必要に応じて公開される。
       歴史上の人物(政治家、経済人、作家など)
 
  (5)私的言動であっても、本人の了解なしでも、書く必要があれば書くことはできる。
    そうでなければ、核心に迫ることの半分は書けなくなる。公開した人は
    その責任を取ればよいだけ。

   〈1〉書き方の配慮はありうる。仮名にするなど。
   〈2〉「責任をとる」とはどういうことか
     社会的(当人を含む)な説明責任と、当人からの名誉棄損などの訴えに対応すること
     それ以外に社会的な責任はない。

  (6)役人や組織人は、組織の意向とは別の自分の意見を公開できないのか。
    意見を発表したいなら、公開できるようにするのが正しい
    個人の意見と役所(組織)の見解は違うのが当たり前
    仕事としては、役所の指示(決定)で動くのが当たり前
    個人的見解とのズレが常時だから、そのズレが、国民や外部にも公開されている方が良い

  (7)鶏鳴学園の中学・高校生のクラスでは、授業に関して提出された
    すべての文書がクラス内では公開される原則で運営されている。これは「教育」の
    ためである。ただし、クラス外への持ち出しは、本人の了解が必要としている。
     この原則は塾の説明会でも説明し、学期の冒頭でも説明し、周知徹底をはかり、
    メンバーの了解の上に運営している

  (8)ネット社会になって誰もが「公開」=「思想の自由」について考える機会が
    与えられたことに意味がある。私のゼミでは公開の範囲としてメルマガとブログの
    読み手の範囲(時間的、空間的)の違いをどう考えるかが問われている。

  (9)個人情報保護法は、営利企業を対象にしたもの
      教育機関は想定されていない。

  (10)学生と社会人における基準の違いも考えるべきか?

  (11)先生と生徒が、論文を発表する際に、オリジナルや著作権をめぐる争いが起こる。
     生徒のオリジナルを先生が奪い、自分の論文として発表することは多い。
      先生の指導がある場合、生徒の作品の中に、それぞれのオリジナル、著作権は
     どう考えられるか
     ※これは公開の原則に直接関わらないが、いずれ私のゼミでも問題になること
      なので、出しておく。
                    

4月 01

2013年に中井ゼミで考えたこと その6

5 表現の的確さと人格の尊厳

    相互批判の中で、ある人の言動に対して、「気持ちが悪い」というコメントがあった。
   具体的な説明は避けるが、その場合、それは感覚的には的確な表現だったと思う。しかし
   「気持ちが悪い」と言われた側は「傷つく」だろう。

    「オカシナ点がある」といえば、穏やかだが、的確さでは、はるかに劣る。
   いじめなどで、加害者が被害者に「キモい」という表現が使われるらしい。これも、
   発言者の印象を伝えるには、実に的確だと感じているのではないだろうか。しかし
   そう言われた側は傷つくことだろう。

    感覚や感情を表現することを避けるのは、それが人格の尊厳性を侵しかねないことを
   恐れるからだ。
   「なじむ」という表現も出てきた。これも発言者には一番自分の気持ちにふさわしい表現
   だったのかも知れない。でもこの表現は、それこそ気持ちが悪い。

    認識の始まりが感覚や感情であることを認めるならば、それを的確にとらえることが
   重要なことはすぐにわかるだろう。感覚や感情はただ表出されればいいのではなく、
   できるだけ的確に表現することが必要なのだ。だから、そうした表現を許しあうしかない。
   しかしそれを認めるのは「始まり」としてはそこから始めるしかないからで、そこに
   止まっていてはならない。その感覚や感情が引き起こされた意味・「含み」を思考によって
   言語化することが重要だろう。その過程で他者理解や自己理解がいっそう進むからだ。

    こうした過程では、互いに「傷つけあう」ようなことも確かに起こる。もちろん、
   目的は「傷つけあう」ことではなく、他者理解と自己理解、相互理解の深化にある。
   しかしそれへの過程としては、間隔や感情の表明は避けて通れない。だから、
   「傷つけあう」ことを互いに許しあい、引き受けあうべきだと思う。

    ただし、これが可能な場には条件がある。
   相互に最低限の信頼関係があることだ。それは私のゼミでは同じ人を先生としていることから、
   つまり自分の成長のために努力しているという「仲間」であることから生まれるものだ。
   そして、その前提の上に、確実に相互理解が進むと言う成果が積み重ねられることが条件だ。
   ただの「傷つけあい」に終わることが続くなら、その場からみながいなくなるだろう。
    つまり最後の保障はトップの力量である。
                                      

3月 31

2013年に中井ゼミで考えたこと その5

4 感情的になることについて

   相互の批判が始まると、感情的な言動や対応、感情的な表現が出てきて混乱します。
  人間関係がぎくしゃくし、場合によっては壊れてしまいます。
  世間の人々はそれがわかっているから、批判を避けるのでしょう。
  では、本当はこの問題をどう考え、どういう対策を講じたらよいでしょうか。

  この問題にはすでに2010年の段階で以下のような原則を立てていました
                                          

   「感情的になることについて」

  (1)感情の根元性
   〈1〉感情や実感こそが、現実を直接に反映する、根源的なもの
   〈2〉それを否定したり、抑圧するのは間違い
   〈3〉しかし、感情は、生なままの、あいまいで混沌とした形で現れやすい。
      例外的に、純粋な感情が吹き上げることはあるが、それはあくまでも例外

  (2)感情の何が問題か
   〈1〉感情全体が問題なのではなく、怒りや憎しみ、恐怖などの、マイナスな感情が
     主に問題で、相手を攻撃しようとすることになりやすい。
   〈2〉しかし、プラスの感情(愛など)でも、相手への依怙贔屓などの問題も起こる。
   〈3〉それが問題なのは、
      内容上の公正、公平さが損なわれやすいから
      形式上の人格への配慮ができなくなりやすいから

  (3)解決は思考による
   〈1〉普通は、感情内で、解決するのはムズカシイ。
   〈2〉普通は、感情問題を解決できるのは思考でしかない
    しかし、その解決とは何か

  (4)思考による解決とは何か
 
   〈1〉事前に感情をコントロールしたり、感情を抑圧することではない。(できないから)

   〈2〉感情に「含まれる」意味を明らかにすることしかできない。
     「含み」を徹底的に明らかにすることによって、結果的に自然に感情を
     コントロールできるようになっていく

   〈3〉しかし、この作業は、無意識な部分を意識化することになり、深刻な問題を
     明らかにすることにもなる。深刻な内的な葛藤をも引き起こす。自分に向き合う辛さがある。
     したがって、それをどこまで進めるかは、最終的には本人次第である。
     本人の主体性を尊重するしかないし、踏み込む範囲や迫り方には慎重でありたい。

   〈4〉以上をわきまえながら、「含み」について話し合い、相互に理解し合い、
     尊重し合い、前に進みたい。

   〈5〉今後、感情的なことが起こった場合、それを指摘し、その理由(「含み」)
     を考えるようにする

   ※感情の「含み」を明らかにしていく中で、感情にも「浅い」ものと「深い」ものの
    違いがあること、問題があるものとないもの、「含み」の自覚を進めるものと
    そうでないもの、などの区別が見えてくるだろう。
    感情内にも矛盾があり、それが「含み」をつくり、その意味を明らかにしているのだ。
                                        

    昨年の冒頭にこの原則をみなで確認し、それを意識しながら話し合いを重ねてきました。
   その結果、みなが成長できたと思っています。

    昨年、新たに考えたのは以下の「認識における感情・感性的の意味」についてです。
                                        

   「認識における感情・感性的の意味」

    「感情的になることについて」で問題にしたのは、感情的になるゆえに、
   他者の尊厳性への配慮を欠くことへの問題だが、そもそもの認識においての
   感情面の位置づけをはっきりさせる必要がある。

   〈1〉感情や実感こそが、現実を直接に反映する。その意味で根源的なもの
      すべてはそこから始まるし、そこからしか始められない。
      それを否定したり、抑圧するのは間違い

   〈2〉しかし、感情に反映された現実は、感情の色彩に染め上げられた、
     時には強烈な、また多くの場合はあいまいで混沌とした形で現れる。
     そこには「歪み」も当然ある。
     だから、そこにとどまっていては、自分の感情、感性の奴隷で終わる。

   〈3〉感情、感性は、その人の育ち、社会環境などによって形成されたものでしかない。
     もしその相対化ができないならば、自分の感情、感性の奴隷で終わる。

   〈4〉感情、感性のとらえた事柄の意味を明らかにし、その歪みを批判していくのは
     思考の役割。人間を感情や感性の奴隷状態から解放することが思考の第1の役割なのだ。

   〈5〉もちろん、思考のとらえた認識も「歪み」を持ち、「一面性」や「間違い」を侵す。
     認識も、次には現実から批判されねばならない。それはまたも感覚や実感から始まる。
     感情や感性と知性や思考は、相互関係であって、互いに修正し、高め合う関係だ。

   〈6〉認識が進めば、感覚は鈍くなるのではなく、より鋭くなる。
     感覚は、思考に与えられた方向性へと導かれながら、さらに研ぎ澄まされていく。
     その方向性が正しいものならば、以前の神経質で薄刃の折れやすいカミソリのような
     鋭さではなく、鉈のようなぶっとく骨をも砕くような強さが生まれるはず。