3月 16

10のテキストへの批評  2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
 昔読んだことがある懐かしいテキストだ。改めて読んでみて、すぐれた洞察が込められていると感じた。前半の議論も面白い。失われたゆえに想像のうちで暗示が膨らみ、それが美という全体性への飛翔を生む。「なるほど!」と感心する。しかし今回読み直してみて、前半よりも後半にこそ詩人の凄みを感じた。ここで示される「手」の象徴的な意味には、心を動かされる。それは人間が手足を使って労働し、人間同士で社会をつくって生きてきたことの証なのだろう。
 このテキストの内容には深い洞察を感じるが、テキストの前半と後半が内的につながっていないように思った。ミロのヴィーナスの美しさの理由として、2つをならべただけで、前半から必然的な形で後半を導出できていないように思う。
私も「ミロのヴィーナス」に感動する。しかしその理由は清岡とは少し違うようだ。もちろん清岡が言う「均整の美」は前提である。私は「ミロのヴィーナス」に、たまらない心地よさを感ずる。それは、その全身に運動の予感が感じられるからだと思う。その身体はゆるやかな運動の中に、とらえられている。そして、人間の運動は、その先端の手の動きで完成するだろう。腕(手)が消えていることは、その運動の頂点を消したことを意味し、それゆえに、私たちの空想は一層膨らんでいくではないか。

3月 15

今年の4月から全国の高校で使用される、
大修館書店の国語科教科書「現代文」「新編 現代文」「精選 現代文」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、3種の「現代文」に収録された評論から10のテキストを取り上げ、
そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、
その考え方を私が批評するコラムをつけている。

指導者が指導する上でのヒントになるように、
テキストへの1つの視点、1つのとらえ方を示したものだ。
これは、広く、世間への問題提起のつもりでもある。

昨年も大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
同様のことを行った。
高校の先生方の中には、私のコメントを楽しみに読んで切るという方々の声を聴いた。
講演に呼ばれたこともある。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このメルマガの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、
このブログにも転載します。

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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1.ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)

ペット論のようだが、実は家族論である。「失われた家族のきずな、その回復を!」といった論調だ。「3丁目の夕日」よ、今一度! それは甘い郷愁へといざない、世間に受け入れられやすいものだろう。しかし、私には大いに疑問がある。
著者は家族こそ守るべきだと主張する。しかし、そもそもの前提は正しいだろうか。近代と前近代の比較から、近代で初めて家族が重要になったと主張しているが、本当だろうか。逆ではないか。近代ではそれまでの大家族が崩壊し、家族は近代産業(資本主義)を支えるための労働力を提供する場へとなりさがったのではないか。高度経済成長期には、「豊かさ」という目標が家族をまとめていたように言うが、「親子の断絶」が激しく起こってもいた。そして、親から独立して若者たちが作った核家族には、芯になる目標がなくなっていた。
資本主義の進展で市場原理主義が席巻しているのは事実だし、そこでは個人が個人としての競争にさらされるのだが、そこから生まれる孤独感は家族の回復で解決されることなのだろうか。そもそも従来の意味での「家族の回復」は可能だろうか。
旧来の血縁による家族や、家族主義的な会社にかわって、新しい原理に基づく共同体が生まれる必要があるのではないか。そしてそれは今、生まれつつあるのではないか。現代はその過渡期であり、その1つの形態として「ペットの家族化」も考えるべきだろう。
たとえば、犬を飼っている人は、毎日の犬の散歩によって地域の人々と「犬仲間」としてつながることができる。ペットは人の孤独をなぐさめるだけではなく、もっと積極的に、人を社会に開く役割をも担うのである。
また「動物介在療法」は未来を切り開くモデルではないか。老人施設などでは、施設内で飼われるペットが福祉の中心的役割を果たし始めている。そこではペットがいることで、周辺の子どもたちが施設に入ってくるようになり、老人たちとの交流が生まれる。ペットは家族の補完ではなく、人と人を結ぶための媒介になっているのだ。

3月 12

■ 目次 ■

1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」

7.「普段から」

人は「準備」していないことには対応できない。しかしそれは、緊急時に対する特別な準備に限定されないはずだ。むしろ、その人が「普段」から何を考え、どう仕事をしていたかがすべてを決めたと言える。なぜなら、普段やっていることの延長上のことしか、人はできないからだ。緊急時に発揮できるのは、普段から日常の中で行っていたことからおのずと出てくる能力、行為の範囲に限られる。
石巻赤十字病院の地域救急救命センターの石橋悟センター長は「日々の医療をきちんとやること、想定外への備えもその延長線上にしかないと思う」(186)と語っている。
私は2011年の12月に石井正医師にインタビューをした。彼の専門は外科なのだが、外科手術は予期しないことも起こるから、迅速な判断の連続だ。それゆえに最大限の準備(予習)が必要なのだ。「そういう意味で普段やっていることと、今回の震災後の活動は変わらない」と石井は語った。彼らの世界に「想定外」はない。
また、今回も被災地の県庁や市町村の「行政批判」がずいぶん多く行われた。被災した住民や医療関係者、ボランティアからの行政批判。マスコミもそれに加担した。もちろん行政には問題があった。その硬直した対応、時間がかかる対応には問題がある。しかし、行政もまた被災していた。問題があるのならば、それを解決できるのは被災した住民たち自身だけだ。そうした「自立的な」活動をしないでいて、行政批判をしていたならば、それは甘えであろう。普段から行政に依存していた「お上意識」の裏返しの役人批判ではないか。普段から「自立していた」人たちは、危機的状況下では行政を無視し、さっさと自分たちで動いたはずだ。そうした視点を出せないマスコミも同じ穴のむじなである。
県のコーディネーターとして任命されていた石井は、その肩書きを最大限利用し、「東日本大震災に対する石巻圏合同救護チーム」を立ち上げた。「行政も頑張っていましたよ。でも、避難所が300か所、推定死亡者数1万人。行政の力だけでは無理だし『私たちは医療者ですから医療以外のことはできません』とはいえないでしょう」(石井)。
今回の震災で問われたのは、私たちの現実への向き合い方なのではないか。現実を直視し、ごまかさない。そこにあるリスクを認め、それを管理するための日常的な努力をする。そして「自立する」。それは生き方そのものの問題だろう。
しかし、支援のしかたでも、報道でも、依然として、同じ間違いを犯し続けているのではないか。つまり現実を直視せず、キレイごとを垂れ流す。
例えば、被災地や避難所で、本当のリスクはきちんと報道されただろうか。そこで起こる犯罪、性犯罪、弱者への犯罪。ボランティアがどれほど迷惑をかけているか。それらは報道されただろうか。「美しい話」「感動的な話」を情緒的に垂れ流すだけで、本当の問題をきちんと提起できなかったのではないか。
 被災地を忘れないということは、被災地のリスクをしっかり受け止め、自分自身の生活や周囲の状況の中で、リスクを直視しリスク管理を始めることだろう。キレイごとは、それを忘れさせるのではないか。

8.「性悪説」

 しかし現実を直視せず、リスク管理ができず、自立できないでいるのが、私たちの社会の現状なのである。この問題を本気で考えるためには、そうした生き方とセットになっている人間観とは何だったのかを見なければならない。それは「性善説」だったのではないか。「性善説」という暗黙の了解のもとに、互いにもたれ合い、自立しようとしてこなかったのではないか。だから私は、基本的な人間観の一大転換が必要になると思う。従来の「性善説」から「性悪説」へ。
私はここで、「性善説」と「性悪説」という概念を、ただ人間の本性が善か悪かという違いで提示しているのではない。今まで述べてきた、現実を直視しリスクを見ることができるかどうかで、「性悪説」と「性善説」との分けて考えようと提案したいのだ。
「性悪説」の立場とは、次のように考えて生きることだ。
人間は誰もが悪の側面、弱さを持ち、悪は常に内側に可能性としてあり、それが実際に外に現れているか、否かだけが違う。どんな人も、権力を持ち、金と人事権を持てば必ず堕落する。だからたえざる相互チェックが欠かせない。自分の内の悪、他者の中の悪を直視し、それを指摘しあい、批判しあうだけの勇気と覚悟が必要なのだ。
名誉欲、出世欲、権力欲、支配欲は誰もがもつ。それが本人の成長や、周囲の発展につながる場合もあるが、他を抑圧する方向に向かう場合もある。また、支配者に支配されたいという依存の傾向もまた私たちの中にある。それら全体をどうコントロールしていくか。
ではなぜ今までは、こうした「性悪説」の立場に立たなくでもやってこられたのだろうか。
以前は、「悪」がなかったのではなく、ほどほどの貧しさの中で、しかも閉じたムラ社会の中では、みながそこそこで満足して共生するしかなかった。そこではそれなりの相互チェックが機能していた。「世間体が悪い」「恥」などの道徳で、あまりにも大きな悪が生まれないように規制できた。
また高度成長期には「少しでも豊かになりたい」という欲望で人々がつながることができた。「会社人間」として個人と組織が一体で機能できた時には、ムラ社会の規律が機能した。しかしその時代は終わった。一応の豊かさは獲得され、その先の目標を全員が共有するのは難しくなった。時代にあった変化に対応することが組織にも個人にも求められる。そして個々人がそれぞれの欲望と価値観のもとに生きていく時代になった。これは以前よりもはるかに高い発展段階であり、そこでの原則は以前より人間とその社会の本質と現実を厳しくとらえたものでなければならない。それが「性悪説」の立場である。
「悪」は可能性としては常に存在する。私たちにできることは「悪の管理」だけなのだ。「悪」「弱さ」「甘ったれ」は、私たちの内なるリスクである。それは本当は、いつでもどこにでもある。それをなくすことはできない。できるのはリスク管理をすることだけだ。リスクをできるだけ自覚し、その計量と予測と、最悪をも覚悟して生きることだ。そして、こうした人間観を前提に、制度や倫理を再構築していくべきなのだ。
「リスク管理」ということばが震災後さかんに言われるようになったが、悪の管理こそが究極のリスク管理ではないか。ここまで突き詰めないでいるリスク管理は必ず破綻する。それは能力の問題であり、「生き方」と「死に方」の問題なのである。

3月 11

■ 目次 ■

1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」

5.「自己完結型」の支援

 もう1つの例をあげよう。今回の被災地域には、多数のボランティアがかけつけた。「他者を救う」ため、「他者を支援する」ためである。その動機は美しいし、その行動力も尊い。しかしそれを全面的に肯定するわけにはいかない。ボランティア活動のためにかけつけた人々の中には、被災者たちに迷惑をかけた人もいたからだ。「来ないでくれた方が良かった」と言われている人たちがいるのも事実だ。
だからこそ、今回は「自己完結型」の支援ということがよく言われた。ボランティア自身の食料、住む場所、安全性などを周囲に依存せず、すべて自己管理で行うものだ。そうでない限り、被災者側に負担をかけることになる。緊急事態で「他人を救う」には厳しい条件があるということだ。
特に、精神的に自立していることが求められる。それは自分の精神状態を厳しくコントロールできなければ、他人を救えないどころか、自分が救ってもらう側になって、迷惑をかけるからだ。
例えば、石巻赤十字病院では、救援物資の受け入れで事務方の職員は仮眠すらできなくなってしまった。そこで夜の11時から朝の6時までは受け付けないことにした(74ページ)。また、被災したスタッフを休ませるべきか、それとも仕事を続けさせる方がいいのかという葛藤があった。結論は、休むかどうかは自分で、自己管理をして決めていいとした。(201,202ページ)。この自己管理という課題はとても難しいだろう。周りがハードに働いている時に、それに流されず自分の状態を見つめ、休むことを決めなければならない。しかし、まず何よりも真っ先に最優先で救わなければならないのは、自分自身なのだ。自分を救えなかったら他人も救えないからだ。
他人を救うには、自己管理ができるかどうかが問われる。それは普段から自己の弱さを熟知しており、それをコントロールできること。つまり自分の内部のリスクの直視と、リスク管理ができていること、つまり「自立」ができていることが必要なのだ。そうした人は、普段から、自分のリスクや弱さを直視し、自分の限界を知りつつ、周囲に流されないだけの生き方をしていたのだろう。つまり能力と生き方は1つだ。

6.「準備」

また、今回の人命救助、復旧・復興支援の成否の最大のポイントは、「準備」ができていたかどうかだった。国や県、基礎自治体などの行政側、警察、消防、自衛隊、医療関係者たちに、どれだけの事前の「準備」ができていたのか。危機的状況への具体的対策として、制度、規則、組織をどう整えていたか、どれだけの実地訓練ができていたか。各組織を横につなぐ連携はどこまで実現できていたか。それは地域によって大きな差があった。
宮城県では宮城県沖地震を想定して「救急医療協議会」での協議が行われていた。2006年には仙台で「日本集団災害医学会」の集会が行われ、そこで「宮城県沖地震に対する医療の備えを強化するための7つの提案」が採択。その中の「災害医療コーディネーター」制度の設置が2010年に決定。2010年から「石巻地域災害医療実務担当者ネットワーク協議会」が立ちあげられ、県や市役所、警察、自衛隊、海上保安庁、近隣の病院などが互いに顔を知っている関係にあった。石巻赤十字病院の石井正医師はそのメンバーの1人だが。彼が石巻地域の「災害医療コーディネーター」に任命されたのが3・11の1か月前。彼は震災後の3月20日に「東日本大震災に対する石巻圏合同救護チーム」を立ち上げた。石巻赤十字病院が災害拠点病院として、医師会や東北大学の医療チーム、日赤救護班、精神科医師団、歯科医師団、薬剤師会を一元的に統括することになった。「災害医療コーディネーター」制度がかろうじて、間に合った形だ。
岩手県では、2008年に「岩手・宮城内陸地震」「岩手県沿岸北部地震」があり、岩手県の防災システムに大きな問題があることが明らかになっていた。そこから真剣な準備が始まった。県庁の総合防災室に災害防災のプロたちが結集し、2年をかけて対応システムの見直しをした。大災害時には全救助組織の代表が県庁の災害対策本部に集結することが決まった。全情報を皆で共有し、活動を一体的に指揮する。こうして消防、警察、海上保安庁、自衛隊、医療関係者と行政が一体で動く機能的な体制が作られた。その中心にいた小山雄士が室長に就任したのが2010年。こうして生まれたすばらしいシステムも、絵に描いた餅では実際の場面で機能しない。小山たちは2010年の9月には大掛かりな実地訓練を実施。消防、警察、海上保安庁、自衛隊、医療関係者と行政が一体になった、本番さながらの大訓練だった。それから半年、3・11が来た。
こうした準備がなんとか間に合ったのは、そのために奔走した方々がいたからこそだ。その一部は本書でも取り上げさせていただいた。

3月 10

■ 目次 ■

1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」

3.リスク管理

数々の問題が明らかになった中で、最も深刻なのは、リスク管理の問題であろう。「想定外」という言葉で、本来考えるべきリスクが無視、軽視されていた。その結果、当然ながらリスク管理はできず、津波対策はなされていなかった。
リスクを見ることができない。それを直視できない。それは「安全神話」が形成され、それに抵触する言動が封じられるような状況があったからだ。しかし、今回の事故で安全が完全に壊れた今、これまでの「リスクか安全か」という2項対立は成立しない。「すべてはリスクでしかない」という考え方が、大前提になるべきだ。そして、その上で初めてリスクの管理を考えられる。リスク管理の問題がすべての国民に明確に提起された。これは大きなことだと思う。なぜなら「安全神話」を作り上げたのは、東電や政府、「原子力ムラ」などの原発推進側だけではないからだ。反対側も、「リスクか安全か」という2項対立を迫ることで、結果的には「安全神話」形成に加担していたのだ。その点をはっきりと認識することが必要だと思う。
反対派は冷静で客観的なリスク管理を求めたのではない。リスクゼロという「不可能」な基準を推進側に求めた。それを受けて、推進側も嘘を承知で、リスクゼロと説得するしかなかった。そのリスクゼロとの主張が自縛となり、本来は「想定」すべきリスクを認められなくなり、リスク管理を不可能にした。しかし、両者ともに、それがウソであることを感じていたのではないか。しかしリスクを見たくはなかった。現実を直視し、現実的な対応をする力はなかった。
このリスクを見ない、見ようとしないという精神的傾向は、決して原発反対派だけでも、推進派だけにあるのでもなく、そうした精神的傾向は、もっと広く一般に私たち皆が持つ傾向性ではないか。
つまり、「キレイごと」でごまかし、現実を直視しない。「建前」を言うだけで「本音」レベルの対決を避ける。周囲の暗黙の了解には逆らえず、「空気を読み」ながら生きている。
本来は、リスクは可能性としてはいつでもどこでも存在する。リスクをなくすことはそもそもありえない。私たちにできるのは、より小さなリスクをめざし、そのリスクの可能性が実際に実現しないように努力することだけなのだ。そうした厳しい認識が、原発事故のような大きな危険性においてはどうしても必要だったろう。
しかし、私たちの普段の生活においても同じことがおきているのではないか。見たくないリスクは見ない。「幸い」にも、高度経済成長下では厳しい認識の上に立たなくてもやってこられたのだ。そのために、そうした考え方、そうした能力は育たなかった。それは「生き方」の問題であり、「死に方」の問題である。

4.トリアージ

この問題をより具体的に実際に考えるには、震災後の災害医療や対策本部のあり方から考えるのがわかりやすい。災害医療については、テレビや新聞などのマスコミ、多数の著書で紹介されている。ここでは主として石巻赤十字病院が経験したことを例としたい。震災後、宮城県の石巻地区は孤立し陸の孤島となった。そこで地域の医療活動の中心となったのは石巻赤十字病院だった。その活動は、由井りょう子と石巻赤十字病院著『石巻赤十字病院の100日間』(小学館)や、石井正著『石巻災害医療の全記録』(講談社ブルーバックス)などで詳しく報告されている。私自身も石井正医師ら関係者に取材した。以下、『石巻赤十字病院の100日間』からの引用には括弧内にページ数を記載した。 
まず、「トリアージ」を取り上げよう。
「トリアージ」とは、災害や事故で多数の負傷者が出た際に、負傷者を緊急性や重症度によって分別し、治療の優先度を決定することである。救命需要が同時多発し、搬送や治療に制限がある状況下で可能な限り多くの人命を救うには、医師を含めた医療資源を効率的に配分する必要があるからだ。
分別の方法は負傷者を「緊急治療群」「非緊急治療群」「治療不要もしくは軽処置群」「死亡もしくは救命困難群」に振り分け、それぞれの患者の手首や足首にそれぞれ「赤」「黄」「緑」「黒」のトリアージタッグをつけていく。「赤」は出血多量や気道閉塞など生命の危険が迫っており、緊急治療が施されれば助かる見込みがある患者で、最優先で処置がなされる。「黄」は自力歩行が不能だが、治療の遅延が生命の危機に直接は繋がらない患者、「緑」は歩行可能で、必ずしも膚門医の治療を必要としない患者である。災害時にはこの「緑」が最大数になるケースが多い。そして「黒」は死亡しているか、心肺蘇生を施しても蘇生の可能性の低い患者で、処置は後回しとなる(以上『石巻災害医療の全記録』より)。
この「トリアージ」は、極めて特殊な状況下で行われる特殊な事態であるように見える。それは患者の選別であり、一部患者への医療放棄である。それはヒューマニズムに反することであり、普段なら許されない。それは危機的な緊急事態でだけ、限定的なこととして許されている。しかしそれは「ひどい」「むごたらしい」ことだから、テレビ番組では、そうしたトリアージの場面は取り上げない。やはり「タブー」なのだと思う。
しかし、トリアージは特殊な状況下に起こる、特別なことなのだろうか。私はそうは思わない。むしろ、普段から行われていることが、緊急時だからこそ、むき出しの形で現れただけなのではないか。
最初から、私たちの社会が医療にさける資源・コストは限られている。そこに投入できる人、物、金、技術は限られている。その限られた資源を有効活用するしかできないし、実際にそうしている。しかし、その真実は、むき出しにさらされているのではない。見えにくい形で行われているので気付きにくいのだ。ところが、実際には社会が医療に投入できるコストは限られ、それをどう配分するかが、今問題になっている。そこでは当然ながら、有限な資源の「最適」な配分が問われる。
すべての人に、等しく最高の医療を提供することはできない。国によっても格差があり、日本国内でも首都圏と地方でははっきりと格差があり、個人としても貧富による格差がある。しかし、それは普段はごまかされ、身もふたもないことは言われないでいるだけなのだ。
ここでも、本当のこと、リアルな現実を直視できないという事実がある。キレイごとに慣れ親しみ、事実を直視できなくなった人だけが、今回のトリアージを異常事態での特殊なこととして見るのだ。私は、普段の状況が濃縮した形でむき出しで表に出ただけだと思った。