10月 16

例年、夏になると八ヶ岳でゼミの合宿を3泊4日で実施してきましたが、
今年は、形を変えて、東京で8月24日、25日の2日間の「集中ゼミ」という形で行いました。

参加者は8人(内、大学生が2人)でした。

集中ゼミの初日晩には「現実と闘う時間」を実施。各自の活動報告をし、意見交換するのですが、結局は当人の「生き方」を問うことになります。

参加者(大学生)の感想を紹介します。

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1.商品論が生き方に通ずるのはなぜか 大学生

(1)資本論の商品論と生き方

 資本論を読んだ。マルクスもヘーゲルも読んだことのない私にとって、
その内容はわからないものだったが、特に第一章(第三節)あたりを読んで、強く感じるものがあった。

 それは、以下のようなことだ。

 私はこの夏に、牧野紀之の「先生を選べ」を読み、鶏鳴の場にレジュメを提出し、中井さんを先生に選んだ。
私は高校に入る前から、周囲の人間、学校の教師、親、友人たちの価値観や生き方につきあいきれず、
高校を辞め地元から東京に出てきて、高2の春に鶏鳴に入塾した。
そして、中井さんに言われて、初めて学校を辞めたことを家族と話し合い、
高校3年の春からは原発の聞き書きで自分の問題意識を深めてからも、ある種、無意識的にも中井さんを先生としてきた。
牧野の「先生を選べ」を読んで意識的に振り返ってみると、中井さんの言ったことを守り、行動し、批判され、
また考え、行動してきたという意味で、中井さんを先生にして過ごした2年間だったと思う。

 そのような一連の過程が、資本論の第一章(第三節)あたりと重なって感じられた。

つまり、以下のようなことである。

 まず、ある一つの商品の中で、使用価値と交換価値という内的二分、自己分裂(葛藤、矛盾)が起こる。
これは人間におきかえれば自我の芽生えであるし、私自身も義務教育が終わって自己責任でやっていくとなったときに非常に葛藤した。
そのとき結果的に私の場合高校を辞めたのだが、そういう経験がある。

 次に、その商品がどの「商品」と交換されるのか
(例えば、20エレのリンネル=1着の上着、10ポンドの茶、40ポンドのコーヒー・・・)という、
「悪無限」が発生する。
 そうした「悪無限」というのは、私のことで言えば、私が高校を中退するときに、
私の人間関係とテーマの否定はできるが肯定(止揚)はできない、ということと重なる。
なぜか。私は高校を辞める前後で、無意識的に、自分の生きるテーマと、先生、仲間を探していた。
その時の私は、どうでもいいものが目の前に無限に「ある」、つまり、何も決定的なものが「ない」、という状態であった。
 そしてその「悪無限」を止揚して、貨幣が現れ、さらにその貨幣が、通約可能性をもつと、商品論に書いてあった。

 このことは、私が一人の先生を選び、そしてその先生を通して、私の新しい人間関係とテーマをつくっていく、ということになる。
このように、商品論には現在に至るまでの私の人生の形式がそこに現れているように思った。

 一体何故、「商品」という一見「生き方」とは遠いものを叙述していながら、そのようなことが起こるのだろうか。

 ひとつに、マルクスが先生として選んだヘーゲルが、自我を徹底的に究明したからだと思う。
 まず、「関係」を問題にするとき、それはAとBという二つのものの関係である。
ヘーゲルは何よりもまず自我を問題とした、ということを牧野さんの本で読んだことがある。
自我は内的二分であるので、まず内的二分の二つの関係から出発するのは、ヘーゲルを先生としたマルクスならそうするだろう。

 次に、先生を選ぶということについて、牧野さんの『生活の中の哲学』を読んでいて、
「感覚の個別」と「概念の個別」という言葉がでてきた。
前者は「世界中に一人しかいない」(すべての人にあてはまる)という意味で個別なのだが、
それは後者の「かけがえのない個別」よりも低いものだという。

 貨幣や先生は、後者の概念の個別ということで一致すると思う。
なぜならば、両者はそれまでの関係を止揚して現れた(悪無限を止揚して現れた)からである。
前者は諸商品を止揚し、後者はその人の人間関係を止揚した。

 以上のように、自我から出発し、「概念の個別」というヘーゲルの思想で物事を捉えると、
それは商品(の関係)であれ人間関係であれ、内的二分に始まり、止揚されるものとするものが現れ、
それが結果的に、「生き方」と同じ論理で現れているのではないか、と思う。

(2)「現実と闘う時間」
 後半の「現実と闘う時間」では、現在の私がいかに自分の周りで起きていることを批判できていないか、
ということを思った。

 現実と闘う時間で問題になったのは、同じ大学生のAが私の行ってきた聞き書きの「後追い」をして、
つまり私のインタビュー相手に同じインタビューをして、それを鶏鳴の文ゼミに提出したことだった。
私は彼がそのインタビュー相手にインタビューに行くということを(あるいは行ったということを)きいていたが、
何の疑問も感じられなかった。
ただ「私の聞き書きに不十分な点があり、それを知りたいがためにインタビューに行ったんだろう」などと「推測」してしまって、
直接理由をきかなかった。
そうした自分の周りで起こることひとつひとつに敏感になれないと、相手を批判できず、
ただ漫然と問題を見過していってしまうのだと思った。

 そして今後、社会問題と関わっていくなかで、外に対してだけでなく、自分たちの組織内部でもどれだけ批判をし合い、
代案を出せるか、ということが勝負ということがわかり、自分のやっていく方向性の中で、やるべきことが以前よりも具体的になった。

 私の中で確かな前進のあった合宿だった。

9月 16

秋の読書会のテキストなどの変更
                
9月28日と10月26日の読書会のテキストを変更し、その後の進め方を変更します。

9月と10月は、マルクスの『資本論』について、もう少し学習します。
 マルクス著『賃労働と資本』(大月書店の国民文庫版)と
 マルクス著『賃金・価格および利潤』(岩波文庫)を購入してください。

 『賃労働と資本』(大月書店の国民文庫版)はアマゾンの「中古品」で簡単に入手できます。
  『賃労働と資本』は『資本論』第1巻の剰余価値を含めた要約です。
 『賃金・価格および利潤』は『資本論』全3巻の要約です。

(1)9月28日は
  集中ゼミで読んだ『資本論』の範囲の復習をし、
  マルクス著『賃労働と資本』(大月書店の国民文庫版)の「エンゲルスの序論」と
  マルクス著『賃金・価格および利潤』(岩波文庫)を読みます。

  「エンゲルスの序論」でマルクスのそもそもの問題意識を確認し、
  『賃金・価格および利潤』これは『資本論』全3巻の要約なので、
  ここで全3巻の概要をおさえたいと思います。

(2)10月26日の読書会には
  『マルクスの批判と反批判』(新潮社)から「価値と生産価格」を取り上げて考えます。
    マルクス著『賃労働と資本』(大月書店の国民文庫版)と
    マルクス著『賃金・価格および利潤』(岩波文庫)を参考にしながら、
    『資本論』から関連する箇所を読んでみたいと思います。

(3)アダム・スミスは1か月遅れで実施。つまり
 11月23日 読書会(高島善哉著『アダム・スミス』岩波新書 青版 674)
 12月21日 読書会(アダム・スミス『国富論』1 中公文庫)
 2014年1月 読書会(アダム・スミス『国富論』2、3 中公文庫)

 古典派経済学の創始者アダム・スミスの『国富論』を読みます。
 スミスはマルクス『資本論』の前提の労働価値説の創始者でもあります。

 新たに経済学が生まれてきた時代背景を知り、その時代の経済問題と
 雄々しく闘ったスミスの戦いぶりを、読んで考えてみたいと思います。

 高島善哉著『アダム・スミス』岩波新書(青版 674)は古いですが、
 アマゾンで 「中古品」として簡単に購入できます。

 アダム・スミスの『国富論』は、岩波文庫版ではなく、中公文庫版で読みます。
 訳文の点と共同研究が背景にある点で、そうします。

9月 02

猛暑、集中豪雨の異常気象の8月も終わり、やっと秋になりましたね。

みなさんはいかがお過ごしですか。

この夏休みの成果はどうでしたか。

私の方は、8月に2日間の集中ゼミを開催し、マルクス『資本論』(第1巻第1篇と第2編)を読みました。
これからの研究のための前提を確認し、その足場を作ることはできたと思います。
詳しいことは、また報告します。

今回のメルマガで社、秋の学習会のスケジュールと読書会テキストをお知らせします。

参加希望者は早めに連絡ください。参加には条件があります。

(1)毎週月曜日のゼミ
9月16日より開始

 ?日本語文献の読書会
  関口『無冠詞論』
 ?ドイツ語原書講読
  マルクスの「労働過程論」(『資本論』第1巻第3編第5章)を読み
  その後ヘーゲルの「目的論」(『小論理学』)

(2)毎月のゼミの日程とテキスト

9月14日 文章ゼミ+現実と闘う時間
9月28日 読書会(マルクス『資本論』第1巻第1篇+岩井克人)
10月12日 文章ゼミ+現実と闘う時間
10月26日 読書会(高島善哉著『アダム・スミス』岩波新書 青版 674)
11月9日 文章ゼミ+現実と闘う時間
11月23日 読書会(アダム・スミス『国富論』? 中公文庫)
12月7日 文章ゼミ+現実と闘う時間
12月21日 読書会(アダム・スミス『国富論』?、? 中公文庫)
12月某日 今年1年の振り返りと忘年会

(3)9月の読書会について
8月の集中ゼミではマルクス『資本論』(第1巻第1篇と第2編)を読みました。

9月の読書会は、この補講の意味があります。しかし、これだけ単独での参加も可能です。しかし、これだけ単独での参加も可能です。

? 参加者には全員にレポートを求めます
1つテーマや「問い」を立て、それについて報告すること
大きなテーマや「問い」である必要はない
気になったこと、気付いたことを、少し調べたり考えて、報告すればよい

? 岩井克人のマルクス批判のテキストを考える時間を取ります。

(4)10月から12月の読書会とテキストについて
 古典派経済学の創始者アダム・スミスの『国富論』を読みます。
 スミスはマルクス『資本論』の前提の労働価値説の創始者でもあります。

 新たに経済学が生まれてきた時代背景を知り、その時代の経済問題と雄々しく闘ったスミスの戦いぶりを、読んで考えてみたいと思います。

高島善哉著『アダム・スミス』岩波新書(青版 674)は古いですが、アマゾンで 「中古品」として簡単に購入できます。

アダム・スミスの『国富論』は、岩波文庫版ではなく、中公文庫版で読みます。
訳文の点と共同研究が背景にある点で、そうします。

以上

6月 05

6月以降の読書会と文章ゼミの日程はすでにお知らせしたように、以下です。
いずれも午後5時開始。料金3千円(文ゼミのみの場合は2千円)。場所は鶏鳴学園です。

6月8日 読書会と「現実と闘う時間」 
6月22日 文ゼミと「現実と闘う時間」
7月6日 読書会と「現実と闘う時間」 
7月20日 文ゼミと「現実と闘う時間」

7月の読書会テキストが決まりました。

7月の読書会では、さらにマルクスの方法について考えるために、牧野紀之と許萬元の以下の3つのテキストを読みます。
現代日本の研究者で、ヘーゲルやマルクスについて考える時に参考になるのは、牧野紀之と許萬元の2人だけだと思います。

 牧野紀之「許萬元のヘーゲル追考論」(A4で11ページほど)
 許萬元の『ヘーゲル弁証法の本質』から第3編「マルクス弁証法の本質」(35ページほど)
 許萬元の『認識論としての弁証法』第3編の?「学的認識の論理」(50ページほど)
を読みます。

 許萬元の2冊は品切れになっているようです。図書館でコピーしてもいいですし、購入したければ、古書として青木書店版か創風社版で入手できます。
 牧野のテキストは、参加者にはお渡しします。

5月 09

5月以降の読書会と文章ゼミの日程はすでにお知らせしたように、以下です。いずれも午後5時開始。料金3千円(文ゼミのみの場合は2千円)。場所は鶏鳴学園です。

5月25日 文ゼミと「現実と闘う時間」
6月8日 読書会と「現実と闘う時間」 
6月22日 文ゼミと「現実と闘う時間」
7月6日 読書会と「現実と闘う時間」 
7月20日 文ゼミと「現実と闘う時間」

このメルマガの読者で、参加を希望する方は事前(初めての参加者は2週間前。2回目以降の参加者は文ゼミは2週間前、読書会は1週間前)に連絡ください。
keimei@zg8.so-net.ne.jp
 
今回は、6月の読書会テキストと7月の予定のお知らせをします。

(1)6月テキスト
6月はマルクス『経済学批判』(岩波文庫)に付録として入っているマルクスの「経済学批判序説」(286?329ページ)を読みます。
同じく、エンゲルスの書評(254?268ページ)も参考にします。

今、原書購読の時間にマルクスの「経済学批判序説」の「三 経済学の方法」を読んでいます。
丁寧に一語一語の意味を考えながら読んでいるのですが、マルクスの考察は根源的で刺激的で、久々に、わくわくするほどに興奮しています。
マルクスのヘーゲル理解の深さに驚嘆するとともに、それでいながら、それでもなお、
ヘーゲルを観念論者として切り捨てるマルクスの不思議さにも驚きます。
そこに、人間を深く理解する鍵があるようにも思います。

今回は、マルクスの「経済学批判序説」の全体を読むことで、
「三 経済学の方法」を読んで考えてきた疑問点を、
さらに深く、さらに広い時代背景からも、考えてみたいと思います。

(2)7月のテキスト
7月の読書会では、マルクスの方法を検討するために
許万元の『ヘーゲル弁証法の本質』(創風社版で入手できます)を読むか、
経済学自体を考えるためにアダム・スミスの『国富論』を読むか、
いずれかになると思います。