7月 07

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

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 ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その2)
                              中井 浩一
   【3】【4】【5】段落

  ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
   〔 〕は私の補足や語句の説明。

  ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
  ・(1)(2)などは私の注釈の番号

  ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
   私が判断した箇所に入れた。

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  第一節 労働過程

 【3】 労働過程の単純な諸契機には〔3要素がある。それは〕、合目的的な
    活動または労働そのもの(19)と労働対象(19)と労働手段(19)である。

 ◇注釈
 (19)この3つの出し方は内在的なものではなく、外的で機械的で悟性的なもの。
     この3つしかないことは、どこにも証明されていない。

 【4】 人間のための食料や生活手段として最初から完成したものを用意
    しているから、この大地(経済的には水もそれに含まれる)は、
    人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象(20)として
    存在する。自然界によって与えられたすべての物は、労働によって
    ただ大地との直接的な結びつきから引き離される(21)だけで、
    労働対象となる。たとえば、魚はその生活環境である水から引き離されて
    捕えられ、木は原始林から伐り倒され、鉱石は鉱脈から掘り出される。
    これに反して、労働対象(21)で、それ自体がすでに過去の労働によって
    いわば濾過されているならば、われわれはそれを原料(21)と呼ぶ。
    たとえば、すでに掘り出された鉱石が洗鉱されたならば、それが原料である。
    すべての原料は労働対象であるが、すべての労働対象は原料であるとは
    かぎらない。〔なぜならば〕労働対象が原料であるのは、ただ、すでに
    それが労働によって媒介されて変化を受けている場合だけ〔だから〕である。

 ◇注釈
 (20)この「一般的」と言う用語がわからない。本来は、人間が自らの対象
     である自然を労働手段と労働対象に分裂させ、特殊化する、と展開する
     べきだった。
 (21)この原料(労働による)と労働によらない労働対象の区別にどういう意味が
     あるのかわからない。「引き離す」こと自体も「労働」ではないか。

 【5】 労働手段とは物またはいろいろな物の複合体(22)であり、
    労働者(23)はそれを自分と労働対象とのあいだに入れて対象に
    働きかけるのである(24)。労働者は、労働手段としてのいろいろな物の
    機械的、物理的、化学的な性質を利用して、自らの目的が達成できるように、
    他のいろいろな物(生産対象)にたいする人間の労働を伝える手段とする。
    労働者が直接に支配できる対象は、労働対象ではなく、労働手段である
   (25)。ただし、生活手段として完成しているもの、たとえば果実などの
    つかみどりでは、人間自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつ
    のであるが、このような場合は別である。こうして、自然的なものが
    それ自身〔労働手段として〕人間の活動の器官(26)になる。
    その器官を彼は、聖書の言葉にもかかわらず、彼自身の肉体器官に
    つけ加えて、彼の自然の姿を引き伸ばす(27)のである。
    大地は人間にとっての根源的な食料倉庫であるが、同様にまた
    人間の労働手段の根源的な武器庫(28)でもある。それは、たとえば
    石を供給するが、人間はそれを投げたり、こすったり、圧したり、
    切ったりするのに使う。《大地はそれ自体一つの労働手段ではあるが、
    それが農業で労働手段として役だっためには、さらに一連の他の労働手段と
    すでに比較的高度に発達した労働力とを前提する》。(29)
    およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された
    労働手段を必要(30)とする。最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具
   (31)や石製の武器(31)が見出される。加工された石や木や骨や貝がら
    といった〔無生物〕(31)のほかに、人類史の発端でも、すでに労働に
    よって変えられた、つまり馴らされ、飼育された動物(31)が、
    労働手段として主要な役割を演じている。労働手段の使用や創造(32)は、
    萌芽としてはすでにいくつかの動物も行なうことだとはいえ、それは
    人間特有の労働過程を特徴づける(32)ものであり、それだからこそ、
    フランクリンも人間を道具を作る動物だと定義(33)しているのである。

     死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと
    同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の
    遺物がもっている(34)。何がつくられるか〔労働対象と成果〕ではなく、
    どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を
    区別する(35)。労働手段は、人間の労働力(36)の発達の測度器である
    だけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係(37)の
    表示器でもあるのだ。

     労働手段そのもののうちでも、全体として生産の骨格・筋肉系統と
    呼ぶことのできる機械的労働手段は、ただ労働対象の容器として役だつだけで
    その全体をまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことのできるような労働手段、
    たとえば管や槽や寵や壷などに比べて、一つの社会的生産時代のはるかに
    より決定的な特徴を示している。容器としての労働手段は、化学工業で
    はじめて重要な役割を演ずるのである(38)。

 ◇注釈
 (22)あくまでも物質である。しかし、後で「動物」も労働手段となることが
     指摘される。
 (23)注の13で指摘したが、「人間」ではなく「労働者」を主語にしている。
 (24)わかりやすい「媒介」。3項からなる。しかし、これは労働過程の3項を
     前提とした説明方法で、内在的な説明にはなっていない。
 (25)人間は、直接に支配できる対象にしか関わることができない。それが道具である。
     だから重要なのは道具なのだ。しかし、何が労働対象で、何が労働手段なのかは、
     固定的に決まらない。
     問題は、人間が直接に働きかけることができる対象と、その対象を媒介として
     間接的に働きかけるしかできない対象とに区別されると言うことだ。そして、
     道具は次々と拡大していく。
 (26)この指摘はさすがである。道具は人間の手足の延長だと言うのだ。
     人間は科学技術と機械力を生み出し、産業を発展させてきた。これはすべて、
     人間の肉体の延長だと言うのだ。大きく言えば、これは大地全体(この地球の
     総体)のすべてが人間化したということだ。これは逆に言えば、人間の
     すべてが自然化したということでもある。
     そしてここから出てくる人間の使命とは何か。人間は自然の真理であり、
     自然を完成することがその使命なのだ。
 (27)前とこことで、労働手段は人間の肉体の延長だとする。
 (28)これが一般的労働対象から労働手段が分裂することのマルクスの叙述である。
 (29)これは傍流で補注の位置づけ。こういう傍流を入れまくるのが、マルクスの
     悪い癖だ。
 (30)労働手段(道具)の開発と、思考(目的意識)と、人間社会の成立とは
     同時なのである。
 (31)無生物の道具だけではなく、生物をも道具にする。人間を道具にしたのが
     奴隷だが、人間は人間(自分も含む)をも手段にする。資本家は労働者を、
     否、資本家たちをも道具にしている。ここから「生産関係」の話をするべき。
 (32)「労働手段の使用や創造」ができるかどうかが、猿と人間を分ける
 (33)人間と他の動物との違い
 (34)その社会の発展段階を決めるのは生産力であり、それは道具の威力に
     他ならないのだ。マルクスの凄みがここにある。石器時代、青銅器時代、
     鉄器時代といった区分が想定されている。
 (35)重要なのは生産物ではなく、それを生み出した労働手段(道具)だと
     いうのだ。それは正しいが、それだけを言うのは一面的だろう。
     最終的にはやはり生産物こそが重要で、それがその社会を決める。
     それは「何を」(what)と「どのように」(how)で、重要なのは
     最終的には「何を」(what)だということだ。手段は目的に従属するからだ。
 (36)ここと次の注が、マルクスが唯物史観らしきことを述べた唯一の箇所。
     唯物史観の生産力は道具の威力。
 (37)唯物史観の生産関係を規定するのは生産力。ただし、どういう関係で
     こう言えるのかは説明されていない。
 (38)この段落も、傍流的ではないだろうか。本来は、注36、注37で
     説明した内容を、くわしく展開するべきだった。それをしないで、
     枝葉末節の話に流れてしまう。これはマルクスの叙述の大きな問題だ。

7月 06

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

  ■ 全体の目次 ■

  【1】【2】段落 →ここまで本日に掲載
  【3】【4】【5】段落 →ここまで明日7日に掲載
  【9】【10】【11】【19】【21】段落 →ここまで明後日8日に掲載

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  ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その1)
 
   【1】【2】段落

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 第一節 労働過程

 【1】 労働力〔という商品の使用価値〕の使用が労働そのものなのである(1)。
    労働力の買い手〔資本家〕は、労働力の売り手〔賃金労働者〕に労働をさせること
    によって、労働力を消費(2)する。このことによって、労働力の売り手
    〔賃金労働者〕は、それ以前にはただ可能性として労働力、労働者(3)
    だったのだが、それが現実に活動している労働力、労働者(3)になるのだ。
    賃金労働者が〔自らの〕労働を商品にするためには、それをなによりもまず
    使用価値に、〔人間の〕何らかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に
    表わさなければならない。しかし、労働者がどんな特殊な使用価値、
    どんな品物を作るかを決めるのは、資本家であって賃金労働者ではない。
    〔しかし〕〔このように資本主義社会での〕使用価値または財貨の生産は、
    資本家のために資本家の監督のもとで行なわれるのだが、そのことによって
    使用価値の生産はその一般的な性質(4)を変えることはない。それゆえ、
    労働過程はさしあたっては、どんな特定の社会的形態〔たとえば資本主義社会でも〕
    からも独立して(5)、考察されなければならないのである。

 ◇注釈
 (1)労働と労働力を区別し、その両者の関係をこのように定式化するまでには、
    何十年にもわたるマルクスの研鑽があった。
 (2)「消費」と「使用」は同じ。マルクスはこの後で「消費」と「生産」が
    一体であることを説明する。
 (3)この可能性から現実性への発展を見ていくのが、ヘーゲルの「現実性」論だが、
    マルクスはそれをそのまま踏襲する。これは本来は実体に反省するため。
 (4)このように時代に無関係に、すべての時代の根底にあるものとして
   「一般的」ととらえるのは、ヘーゲルのいう「外的反省」の立場で、低い。
    マルクスはこう言いながらも、次の2段落(注の11,注の18)などで、
    繰り返し資本主義社会での特殊例を出す。これは、もともと、マルクスの
    この切り捨て方が無理だったからなのだ。
 (5)注4と同じで、「独立して」はダメ。

 【2】 労働は、まずは人間と自然とのあいだの過程である。この過程で
    人間は自分と自然との物質代謝を、自分自身の行為によって媒介し、
    規制し、制御するのである。人間は、自然素材(6)にたいして
    自分自身をもまた自然力(6)として相対する。〔つまり〕
    その自然力とは人間の肉体にそなわったもので、腕や脚、頭や手(7)
    の持つ能力である。人間はそれらを働かせることによって、
    自然素材を、自分自身の生活のために使用されうる形態にしてわがものとする。
    人間は、それらの能力を動かすことによって自分の外の自然に働きかけて
    それを変化させる(8)が、それだけではなく、同時に自分自身の自然〔天性〕
    を変化させる(8)のだ。人間は、自分自身の自然のうちに眠っている
    可能性を〔能力にまで〕発展(9)させ、その能力の発揮〔労働〕(9)
    を自分のコントロール下に置く。

     ここでは、労働の最初の形態、つまり動物が本能的に行う労働は
    問題にしない。《労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に
    現われるという状態に対しては、人間労働がまだその最初の本能的な
    形態から抜け出ていなかった状態は、太古的背景のなかに押しやられて
    いるのである。》(11)われわれは、〔動物ではなく〕ただ人間だけが
    行うような労働をここで考えよう。〔たとえば〕くもは、織匠にも似た作業を
    するし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。
    しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているのだ。
    なぜならば、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いている(12)
    からである。労働過程の終わり(12)に出てくる結果とは、労働の始め
    (12)にすでに労働者(13)の心像のなかにあった、つまり観念的には
    すでに存在していた(14)のである。労働者は、自然的なものの形態変化を
    ひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の
   〔観念的な〕目的を現実のものとする(15)のである。その目的は彼が
    知っているものであり、自らの行動の仕方を規定する掟として、
    自分の意志を従わせなければならない(16)のである。

     そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。
    労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志(17)が
    労働の継続期間全体にわたって必要である。《しかも、それは、労働がそれ自身の
    内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、
    したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的話力の自由な営みとして
    享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。》(18)

 ◇注釈
 (6) これは唯物論。自然を人間が変革できるのは、人間が自然と同じ物質としての
     側面を持つからだ。
 (7) これも唯物論。頭(脳)を特別扱いせず、肉体としてとらえる。しかし頭と手を
     並べることで、「手が物をつかむ」ことが1つ上のレベルに止揚したものが
    「頭が観念をつかむ」ことを暗示している。両者を同一としながらも、発展的な
     とらえ方にもなっている。
 (8) 人間の自然に対する労働は、自然を変え、人間自身を変える。この両面を
     おさえるのが、マルクスの圧倒的に優れた点。
 (9) 可能性から現実性へ。人間の肉体面の能力もそうだし、言葉の獲得などの思考や
     精神面もそう。感情や感性面の表現もそう。集団形成や組織的行動もそう。
 (10)牧野紀之の「素質・能力・実践」で説明された「素質」→「能力」→「実行」
     を思わせる。
 (11)この文は資本主義の説明で、ここでは不要なはず。
 (12)「始め」と「終わり」の同一性が目的論の核心。
 (13)人間論のはずが、直前の資本家と労働者の話に引きずられ、ここから「人間」
     ではなく「労働者」が主語になってしまう。「資本家」は労働していないかの
     ような仮象を与えている。
 (14)当たり前だが、マルクスは「観念」を否定していない。
 (15)観念と現実。可能性と現実化である。
 (16)こうした側面を見ているのが、さすがマルクスである。
     人間は自分勝手な目的実現をめざすことはできるが、本気でそれを
     実現するためには、その目的を実現するために必要なこと(それは
    「掟」であり客観的なものだ)に自分もまた従うしかないのだ。
      一方的に自分の恣意を他者に押し付けるだけでは事は済まない。
     人間は目的を他者や自然に押し付けるのだが、同じ目的にその人間自身も
     また従うしかないのだ。そのために、人間は自分自身をも変えていく
     (成長する)しかない。ここに、人間の概念、自然の概念がちらっと顔を
     のぞかせる。
      ここの掟(Gesetz)が自覚され、蓄積されて、「学問」「科学技術」
     として体系化されていき、自然科学や社会科学となった。
 (17)目的=合目的的意志
 (18)この文は資本主義の説明で、ここでは不要なはず。

7月 05

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。

 ■ 全体の目次 ■

 1.マルクスの労働過程論 ノート
  A 全体への批判
  B 構成
  C 本来の構成(代案)

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注                           
 
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 ■ 本日の目次 ■

  1.マルクスの労働過程論 ノート(その2)   中井 浩一
B マルクスの労働過程論の構成
C 本来の構成(代案)

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B マルクスの労働過程論の構成

(1)資本主義社会の資本家と賃金労働者の関係の話から、
     一般的な労働過程論へ    …1段落

(2)一般的労働過程の内部構造
    [1] 人間と自然の物質代謝が労働  …2段落
    [2] 人間は労働で人間のために自然を変えてきたが、
      同時に人間自身を変えてきた  …2段落
      ・人間はその潜在的能力を労働によって発展(開花)させてきた
    [3] 動物一般や昆虫と人間の労働との違い 思考=目的意識性
       …2段落
    [4] 労働過程の3要素  …3段落
       人間労働(合目的的活動)→直前の[3]にあたる
       労働対象 →次の[5]にあたる
       労働手段 →次の[6]にあたる
    [5] 労働対象  …4段落
    [6] 労働手段  …5段落
    [7] 傍流 空間が前提 …6段落
    [8] 労働過程の結果・成果、それを止揚したのが生産物
        …7段落

(3)生産物の立場からの、労働過程の検討
    [1] 生産物の立場からの労働過程を振り返る 「追考」の宣言
       …8段落
    [2] 過去の生産物から新たな生産物が生まれ、それが次の労働の条件になる
       …9段落
    [3] 人類史からの事実命題 人間は労働の蓄積で、世界を変えてきた
       …10段落
    [4] 大工場内部での労働の蓄積
      ・主原料と補助原料 …11段落
      ・1つの生産物が多様な原料になる …12段落
      ・1つの労働過程で、1つの生産物が、
       次の生産の労働手段にも労働対象にもなる …13段落
      ・中間生産物 …14段落
      ・全体の中での役割で、何になるかは決まる …15段落
      ・すべての過程を止揚したものが生産物 …16段落
        止揚されていないのは欠陥物

(4)生産と消費
    [1] 消費されない生産物は、使用価値が無になる
       …17、18段落
    [2] 生産=消費 …19段落
       2つの消費=2つの生産物=生産物と人間自身
    [3] 注釈 人間の労働によらない大地がある …20段落

(5)一般的な労働過程論のまとめ …21段落

(6)資本主義社会の労働過程の特色
    [1] 一般的な労働過程論から資本家と賃金労働者の関係にもどる
       …22段落
    [2] 資本主義社会の労働過程の2つの特色 …23段落
      ・労働も資本家のもの …24段落
      ・生産物も資本家の所有物 …25段落

    骨子は(2)労働過程内部、(3)その生産物から労働過程を振り返る、
   という2つ。この方針自体が、唯物史観をきっちり説明するには不十分。

    仮に、マルクスの大枠の方針を認めたとしても、本来は、
   (3)の[4]と(4)の[1]は、(2)の[6]の後に入れるべき。
   整理されていないので、読みにくい。

    マルクスがここで実際にやっていることは、労働関係の用語〔(3)の[4] 〕
   (原料、労働対象、労働手段、中間製品、など)を、全体の労働過程に
   位置づけることで、その用語の意味を確定すること。

    しかし、ここは本来は、そんなことをやる場所ではないはず。

C 本来の構成(代案)

      マルクスは労働過程論を、本来はどう書くべきだったのか。
     唯物史観の3要素はどこからどう導出されるべきなのか。
     以下に、私の代案を示す。

(1)資本主義社会の資本家と賃金労働者の話から、労働過程論へ

       資本主義社会の資本家と賃金労働者の関係が
      なぜ生まれたのか、
      そしてそもそも労働が価値であるとはどういうことなのかを
      理解するために、労働とは何か、人間労働が他の動物と
      何が違うのかを考えなければならない。

(2)労働における人間と動物の違い

    [1] 生物と自然の物質代謝が労働 
 
    [2] 動物一般や昆虫と人間の労働との違い 目的論
       目的意識性
      → 人間の思考(内的二分)
      → 対象世界をも二重化することを可能にした。

    [3] 自然への働きかけの変化 自然界を二重化した
       人間は、対象の自然を労働対象と労働手段に分け、
       労働手段で労働対象に働きかける方法に変わった。
       労働対象の説明
       労働手段の説明 →これが社会の生産力を規定する 

    [4] 人間は労働で、人間の社会を二重化した
       人間の現実の社会(存在)と、それを反映した法律、思想(当為)の世界
       これが生産関係と上部構造
       人間社会は対立分裂し、それによって発展する
       法律や思想もそれを反映する

    [5] 唯物史観 生産力を高め、発展するための発展
       労働手段を改良して生産力を高め
       人間の生産関係を発展させ
       法律や思想も発展させてきた。
       この3つの関係は相互関係であるが、従来は大きくは
       上が下を規定してきた。
       ヘーゲルの思想が生まれた以降は、思想が全体を指導する

(3)実体への反省 発展とは本質に反省する変化

      人間は労働過程を通して人間になってきた。
      自然も労働過程で本来の自然になってきた。
      可能性が現実化したと展開したのは、実体へ反省する準備で
      なければならない。
      人間の使命、自然が人類を生んだ意味を示す。
      自然の概念、人間の概念を説明する。

(4)唯物史観の立場からの人類史のスケッチ(人類史における労働過程)

      自然と人間の発展過程
      唯物史観による生産力、生産関係、上部構造の発展の過程

(5)資本主義段階の社会の簡潔な説明(その生産力、生産関係、上部構造)

7月 04

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。

 ■ 全体の目次 ■

 1.マルクスの労働過程論 ノート
  A 全体への批判
  B 構成
  C 本来の構成(代案)

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注                           
 
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■ 本日の目次 ■
1.マルクスの労働過程論 ノート(その1)
 A 全体への批判

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1.マルクスの労働過程論 ノート
                    2013年10月22日 中井浩一

  A 全体への批判

 (1)唯物史観の導出ができていない

     マルクスが『資本論』のここに労働過程論を入れたのは、
    労働価値説の証明と、唯物史観の導出のためである。

    ところが、2つともにできていない。

     唯物史観の導出ができていない点については、
    道具(労働手段)が生産力と関係することを言うだけで、
    生産関係や上部構造がどこから出てくるのか、
    またこの3者の関係はどうなっているのかを示せない。

     これは唯物史観を主張するマルクスにとって
    致命的な欠落だったのではないか。

     それは冒頭で、一般的な労働過程論を展開するとしたことで、
    避けられなくなった。資本主義社会といった特定の社会段階から
    切り離した、共通部分として書くと言う。
    抽象的悟性の立場、外的反省の立場に立ってしまった。
    しかし、資本主義社会から切り離して論ずることは実際にはできない。
    そこで、資本主義社会のことが、無原則に労働過程の本質論に入り込む。

     当初は「人間」論のはずが、2段落以降で「労働者」が主語に
    なってしまう。「資本家」は労働していないかのような仮象を
    与えている。

     人間は労働によって、自分たちの都合のよいように、この世界を
    変えてきた。しかし、同時に、自分自身をも変えてきた。
 
    思考、目的にあった労働形態を作るために、
    つまり生産力を高めるために、道具などの生産手段を生みだし、
    それにふさわしいように自分自身の能力(肉体的にも精神的=思考にも)
    を高め、さらには人間の生産関係を変えてきた。

    この点を言えなかったのは、唯物史観の創始者にとって致命的だった。

     ある思想の創始者には、創始者としての責任がある。
    この資本論の労働過程論は、人間の本質を明らかにし、
    唯物史観の意味を鮮明に描き出すべきところだった。
    それがまるでできていない。

 (2)「実体」への反省が不十分

    (1)の結果に終わったのは、「実体」への反省が不十分だからだ。
    構成上は、次の B「構成」で示す「(3)生産物の立場からの、
    労働過程の検討」の中で、結果論的な考察(Nachdenken)、つまり
    「実体」への反省がなされなければならなかった。

     そして、人間の使命、自然が人類を生んだ意味を導出する
    べきだった。
    人間はなぜ労働をするのか。自然と人間はどういう関係なのか。
    自然の概念、人間の概念、労働の概念とは何か。
    そうしたすべてが明らかにされないままに終わっている。

     つまり本来の結果論的な考察(Nachdenken)になっていない。
    そこで、許万元が『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』で
    マルクスの代わりにそれを実行した。
    しかし許は、マルクスの批判は行わない。

 (3)マルクスのこの文章ならびにその構成はかなりひどい。
    点数をつければ30点ほど。

 100点満点でのもの。
    以前はマルクス大先生の文章は常に80?90点ほどだと
    買いかぶっていたが、今回はそのひどさに愕然とした。

     この文章の目的、ねらいは何か。
    そのために、何をどういう順番に書くべきなのか。
 
    それを十分に考えて、全体の構成を練り上げてから
    執筆するべきだった。
    ところが、マルクスはそれが不十分なままに、出たとこ勝負で、
    行き当たりばったりで執筆しているように思う。

     本来の目的を見失い、本当に書くべきことが書かれていない。
    これでマイナス30点。
    全体の構成の練り上げが不十分で、必然的な構成ではなく、
    行き当たりばったりの個所が多い。これでマイナス30点。
    また、傍流が多く読みにくい。これでマイナス10点。

    以上の結果、総合評価は30点である。

 
 (4)この(1)から(3)の問題点について、いまだ誰も批判を
    していない

    せいぜい牧野紀之の批判的な言及があるだけだ。

10月 18

今年の夏の集中ゼミでは、マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」と
 第2編「貨幣の資本への転化」を読みました。

 第1篇「商品と貨幣」は一番難解とされています。
 この30年近く、何度も読んできた部分を、今、どのレベルまでマルクスの真意に迫り、
 それをヘーゲルの論理学の視点から批判できるかが、勝負だと思って読みました。

 マルクスのやろうとしていることがわかるようになってきたと、感じました。

 驚いたのは、第1篇「商品と貨幣」では、
 商品交換から貨幣が生成した必然性の証明を目指しているのに対して、
 第2篇「貨幣の資本への転化」では、
 貨幣から資本が生成した必然性の展開になっていないことです。
 ここでは単に、「貨幣による商品の等価交換」と
 「貨幣の増殖という資本形成の過程」の矛盾を示して、
 その矛盾を説明するものでしかないのです。

 このために、本当に第1篇「商品と貨幣」での
 商品交換から貨幣が生成した必然性の証明が必要だったでしょうか。

 その他、今回考えたことをまとめました。

■ 目次 ■

1.マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」、第2編「貨幣の資本への転化」の内在的論理展開
(1)第1篇
(2)第1篇内部の1章から3章の展開の意味
(3)第1篇内部の1章の「判断」と3章の「推理」との関係
(4)第1篇第1章内部
(5)第1篇第1章第4節と第2章
(6)第1篇第1章の本来の展開(代案)
(7)第1篇第1章の第3節
(8)第2篇

==========================================

1.マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」、第2篇「貨幣の資本への転化」の内在的論理展開

(1)第1篇
 【1】目的は貨幣の生成の必然性の証明
  そのために、まず商品交換の矛盾を指摘し、その矛盾から貨幣が生成するまでを展開する。
 【2】この第1篇は、ヘーゲル論理学そのもの。
  マルクスのヘーゲル批判の激しさと、ここでのヘーゲル論理学への追従ぶりの激しさとのギャップ。
 【3】この第1篇で、商品の使用価値と交換価値への分裂、労働の二重化の説明をするが、
  それが剰余価値を発見するための前提だった。それが4章で明らかになる。

(2)第1篇内部の1章から3章の展開の意味
  1章は商品交換から貨幣が生成する必然性の論理的証明
  2章は、その貨幣の立場からの生成過程の歴史的振り返り
  3章は、貨幣自身の論理的展開

  これはヘーゲルの論理学における3構成法の踏襲
  【1】生成の必然性の展開 〔生成史〕
  【2】その成果の立場からの振り返り
  【3】その成果自身の展開 〔展開史〕

(3)第1篇内部の1章の「判断」と3章の「推理」との関係
 【1】第1篇は第1章の商品交換(物々交換)から始めている。
  この資本論はブルジョア社会を前提としている。
  そうであれば、ブルジョア社会では物々交換は例外であるからおかしい。
  実際のブルジョア社会での商品交換は実際には貨幣を媒介している。

 【2】しかし、そもそも貨幣の生成過程の説明をしたいのだから、
  貨幣による媒介の段階から始められない。
  そこで貨幣による媒介が外在化せず、まだ内的で潜在的だった段階の物々交換から
  始めるしかなかった。

 【3】この物々交換の場合から始める点だけは、歴史的始まりでもある。
  これは商品交換(物々交換)が歴史的始まりだが、同時に論理的始まりでもあるから。

 【4】第1篇内部の1章「判断」と3章「推理」の関係
  これを概念論でとらえれば、3章は3項からなる推理で、
  1章は2項からなる判断である。
  そして、判断の矛盾が顕在化したのが推理であるという
  ヘーゲル論理学と同じ展開である。推理は判断の止揚なのだ。
  だから判断の2項から始めるしかなかった。

 【5】しかし、マルクスの説明はそうなっていない。
  マルクスは、判断から推理へと言う論理展開を意識できなかったのかもしれない。
  または読者にそうした理解を前提できなかったのか?
  マルクスが理解できなかったとして、それでも事実上、
  ヘーゲルの概念論の展開を行えたことは、マルクスがいかに深く、
  ヘーゲルの方法と能力を身につけていたかを示す。

(4)第1篇第1章内部
  第1節、第2節は、教科書的に、
  商品とその商品を生む労働の内部矛盾(議論の前提)と労働価値節の説明。
  それをまるで定義のような「断定」の形で置く。(「断定は科学の敵」牧野紀之)
  この唐突さはマルクスの本意ではなかったろう。
  読者にとっての「わかりやすさ」のために、こういう展開にしたのではないか。

  第1節、第2節を前提にして、商品の内部矛盾から貨幣を導出するのが第3節。
  ここで、この1節から3節までは、論理的証明。
  それに対して4節は何か。歴史的説明のようだ。

(5)第1篇第1章第4節と第2章
  ともに歴史的過程の確認、それを反映する経済学史の確認である。
  マルクスは、自分の論理的説明に、これらを対置している。

  違いは、4節は、商品内の価値=労働時間(労働価値説)の、
  歴史的展開(事実)と、経済学(事実の理論的反映)の発展の振り返り。
  (つまり第2節への注釈)
  2章は、商品交換→貨幣→金貨の歴史的過程と、
  貨幣の生成の必然性を問わないブルジョア経済学への批判
  (つまり第3節への注釈)

(6)第1篇第1章の本来の展開(代案)
  冒頭に、「問題提起」として、第1章第4節と第2章の内容を置く。
  つまり、商品交換→貨幣→金貨の歴史的過程と、
  商品内の価値=労働時間の歴史的展開。

  次に、それをとらえる経済学の発展の振り返りをして、

  最後に、アダムスミス以来のブルジョア経済学の意義と限界をまとめる。
  その限界を克服するには、論理的説明が必要で、
  それを行ったのがマルクス自身の経済学だとする。
  以上が冒頭の「問題提起」。

  この答えとして、第1篇の第1章の第1節から第3節までを出す。
  そうすれば、第1節、第2節の唐突さもなくなる。
  このように、歴史と経済学史からの問題提起と、
  その答え(論理的展開)とすれば、自然な展開になる。

(7)第1篇第1章の第3節
 【1】論理的説明だが、内在的と言うよりも、機械的(悟性的)な説明になっている
  ・AからBが部分と全体の関係
  ・BからCが「反転」という説明
  ・CからDが「置き変え」

 【2】本来はAとBの交換に内在する矛盾が、顕在化し自己展開したと書くべき
  この分裂、矛盾を全面展開したのが、今のブルジョア社会と、説明するべき

 【3】交換(判断)そのものは本質論なのだが、その内部でのマルクスの説明は、
  存在論のカテゴリーがほとんど。
  質と量、悪無限からの止揚(独立存在)で説明している。

(8)第2篇
 【1】「貨幣から資本への転化」というタイトルだが、
  貨幣から資本の生成の必然性の証明にはなっていない。

  商品と貨幣の等価交換という仮象の中に、本質(秘密=剰余価値)を
  見出したという書き方。つまり推理小説のような面白さ。

  商品交換における使用価値と価値との対立から、
  論理的に「新たに使用価値そのものを生み出すような使用価値である商品」を
  さがすことになり、それが「労働」という商品だった、という展開。
  W-WからW-G-Wを出し、次のG-W-Gとの矛盾を示した。

 【2】なぜ、資本の生成の必然性を展開しなかったのか。
  当時は、それが無理だったからか。
  しかし、それなら、貨幣の生成の必然性を示すことにどれだけの意味があったのか。
  
 【3】マルクスの思考は、概念論よりは、本質論の範囲で動くことが多いように思える。
  用語では存在論のものが多い。そこに問題がある。
  しかし、ヘーゲルの用語を振り回す誰よりも、
  ヘーゲルの考え方を実行しているのもマルクスだ。
  貨幣の生成の必然性、資本主義社会の没落の必然性を書いたことがそれだ。

 【4】唯物史観と剰余価値の発見
  マルクスは剰余価値の発見を、自分の経済学史における最大の功績と考えていた。
  マルクスは、自らがプロレタリアートの立場に立っていることを、
  自分が剰余価値を発見できたことで確認できたと考えていただろう。
  ブルジョア経済学では無理だったと考えていた。

  しかし、剰余価値の創造には、プロレタリアートだけではなく、
  ブルジョアも多大の貢献をしている。それをまったく無視するのはおかしい。

 【5】剰余価値の発見には、第1篇の商品の使用価値と交換価値への分裂、
  労働の二重化が前提だった。それが4章で明らかになる。