4月 18

春の合宿の案内

新緑の美しい季節が来ますね。

その季節に、山梨県の八ヶ岳の麓の清里で、合宿を行います。
ヘーゲルの『精神現象学』の理性論を読み、各自の報告会や文章ゼミも行います。
一部だけの参加も可能です。
関心のある方は連絡ください。

(1)日程
 5月3日?5日 

(2) 学習メニュー
翻訳(牧野紀之訳 未知谷)でヘーゲル『精神現象学』の第3部第5章「理性論」の第1節を読みます。
晩には、文章ゼミ、報告会(現実と闘う時間)を行います。
そこで、基本文献(『生活の中の哲学』『先生を選べ』『ヘーゲルの修業』など)について説明し、一部は読みます。

合宿への参加希望者は、前もって以下に連絡ください。
 詳細をお伝えします。
ただし、初めての方は、事前に「自己紹介文」を書いて送ってください。

 1. 簡単な履歴(年齢、大学・学部、仕事など)
 2. 何を学びたいのか
 3. どのようにこの学習会を知ったのか、なぜこの学習会で学びたいのか
 
 などを書いて、以下にお送り下さい。
 E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net

1月 25

 読書会の日程の変更

 1月の読書会の日程を、29日(土曜)に変更します。
 3月の読書会の日程を、21日(月曜・祝日)に変更します。
 2月は変わりません。

 つまり、以下になります。

 1月15日 文ゼミ
   29日 読書会

 2月12日 文ゼミ
   26日 読書会

 3月12日 文ゼミ
   21日 読書会

 なお、読書会テキストですが、1月?3月はアリストテレス哲学の
神髄、「形而上学」(岩波文庫・上下)に挑戦しようと思います。
その視野の広さ、その思考の圧倒的な高さ。ヘーゲルが惚れ込んだ
アリストテレスの凄みを直接に味わってみましょう。
テキストはアリストテレス著「形而上学」(岩波文庫上下)

 以下の順に読みます。

 1月29日 12巻[35ページ](岩波文庫・下巻)
       1巻[50ページ](岩波文庫・上巻)

 全体を見渡すのには、12巻がベストです。これはアリストテレス自身による
全体の要約と言ってよいでしょう。ヘーゲルも『哲学史』で、ここを使用しています。

 そして、導入的な意味で、1巻も読みましょう。アリストテレスが
自らの師プラトンを全面的に批判しています。
この批判のすごさからも学ぶことが多いと思います。

 2月26日 3巻[約30ページ]、7,8巻[約100ページ](岩波文庫・上巻)
       9巻[約30ページ](岩波文庫・下巻)

 この「形而上学」は3巻で問題提起し、その前半に答える形で、
3,4,6巻、後半に答える形で7,8,9巻があるようです。
補足が10,13,14巻。

 この7,8,9巻が、「形而上学」の核心部分だと思います。
変化、発展の論理と、個別に内在する本質とを結びつけて展開します。
すごいです。

 3月21日 4,6巻[約50ページ](岩波文庫・上巻)
       10,13,14巻[約120ページ](岩波文庫・下巻)

 3巻の問題提起の答えの内で、7,8,9巻以外の部分を読みます。

 なお、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)で
アリストテレスの箇所(74?87ページ)を読んでおくとわかりやすいでしょう。
アリストテレスの核心だと思う点は、メルマガ179号で書きました。
是非、読んだ上で、アリストテレスにアタックしてみてください。

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1月 11

読書会の日程の変更

 1月の読書会の日程を、29日(土曜)に変更します。
 3月の読書会の日程を、21日(月曜・祝日)に変更します。
 2月は変わりません。

 つまり、以下になります。

 1月15日 文ゼミ
   29日 読書会

 2月12日 文ゼミ
   26日 読書会

 3月12日 文ゼミ
   21日 読書会

 なお、読書会テキストですが、1月?3月はアリストテレス哲学の
神髄、「形而上学」(岩波文庫・上下)に挑戦しようと思います。
その視野の広さ、その思考の圧倒的な高さ。ヘーゲルが惚れ込んだ
アリストテレスの凄みを直接に味わってみましょう。
テキストはアリストテレス著「形而上学」(岩波文庫上下)

 以下の順に読みます。

(1)1月29日 12巻[35ページ](岩波文庫・下巻)
       1巻[50ページ](岩波文庫・上巻)

 全体を見渡すのには、12巻がベストです。これはアリストテレス自身による
全体の要約と言ってよいでしょう。ヘーゲルも『哲学史』で、ここを使用しています。

 そして、導入的な意味で、1巻も読みましょう。アリストテレスが
自らの師プラトンを全面的に批判しています。
この批判のすごさからも学ぶことが多いと思います。

(2)2月26日 3巻[約30ページ]、7,8巻[約100ページ](岩波文庫・上巻)
       9巻[約30ページ](岩波文庫・下巻)

 この「形而上学」は3巻で問題提起し、その前半に答える形で、
3,4,6巻、後半に答える形で7,8,9巻があるようです。
補足が10,13,14巻。

 この7,8,9巻が、「形而上学」の核心部分だと思います。
変化、発展の論理と、個別に内在する本質とを結びつけて展開します。
すごいです。

(3)3月21日 4,6巻[約50ページ](岩波文庫・上巻)
       10,13,14巻[約120ページ](岩波文庫・下巻)

 3巻の問題提起の答えの内で、7,8,9巻以外の部分を読みます。

 なお、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)で
アリストテレスの箇所(74?87ページ)を読んでおくとわかりやすいでしょう。
アリストテレスの核心だと思う点は、メルマガ179号で書きました。
是非、読んだ上で、アリストテレスにアタックしてみてください。

1月 10

昨年12月の読書会では、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)を読んだ。昨年読んだヘーゲルの範囲で出てきた思想家の概略を確認しておきたかったのだ。ヘーゲルの論理学の「判断論」「推理論」、『精神現象学』の「自己意識論」に出てきた以下の思想家たちだ。

古代では
  アリストテレス 第1編 第6章(74?87ページ)
  ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90?102ページ)
中世では
  アンセルムス 第2編 第1章(133?136ページ)
近世では
  デカルト 第1編 第3章(165?174ページ)
  スピノザ 第1編 第4章(175?184ページ)

読みながら、また読書会の意見交換ではっきりした点をまとめておく。

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◇◆ ヘーゲルとアリストテレス 中井浩一 ◆◇
 
(1)アリストテレスは古代哲学の完成者

 「アリストテレスは古代哲学の完成者」だというのを、改めて確認した。そして、アリストテレス哲学を近代のレベルで再興し、それによって近代の哲学を完成させたのがヘーゲルなのだと思った。

 アリストテレスは本当に凄い。彼の哲学は、内容的には、ほとんどヘーゲル哲学と同じだ。そのことには、ただただ驚くしかない。二千年以上も前のアリストテレスにも、そして二百年前のヘーゲルにも。
 ヘーゲルは、他のすべての哲学者には厳格で、高く評価しても必ず限界を指摘するのだが、アリストテレスだけは手放しの誉めようで、それはとても意外だった。しかし、これだけ2人が同じだと、それも当然だと思えた。ヘーゲルにとって、自説(「発展の哲学」)を作り上げる上で参考になるのは、アリストテレス哲学以外には存在しなかったのだろう。

 アリストテレスのすごさとは何か。

 ?個別と普遍(本質)の問題と、?変化・発展の問題と、?全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていることもすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。
 この?は誰もが問題にする。この?に対するアリストテレスの答えは並の答えで、すごいのは、この?と?とを結びつけて論じたことだ。?と?を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。その結果、?を説明することができたのだ。
ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。

(2)「近代」とは何か アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるもの
 ヘーゲルは、このアリストテレスを、近代のレベルで再興し、それによって近代哲学を完成させた、とまとめることができるのだろう。

 では、その「近代のレベル」とは何か。アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるものとは何か。
 自我、自己意識の存在、意識の内的二分である。この自我の自覚を持つことで、人間は「人格」を持ち、「人格」を持つ点での平等、人間はみな平等であることになった。デカルトのコギトが自我の宣言だ。

 アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体とその構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。
 しかし、読書会では質問が出た。アリストテレスほどの凄い人が、なぜこの立場に立てなかったのだろうか。
 当時の世界が奴隷制社会だったからだと思う。イヌと人間の違いを一般的に考えるには、同じ人間の中で、人間と奴隷(イヌと同じ)に絶対的に分かれる社会では、ムズカシイ。
アリストテレスほどの人でもそうなのだろうか。諾。人間は、時代の子であり、その時代的な制約から抜け出ることはできない。

 「自我」「自己意識」の思想は、ローマ帝国における帝国と市民の成立、キリスト教における神の前の人間の平等によって、その可能性が生まれた。

 もちろん、それは可能性だから、それを表明する思想家の登場を待つしかない。それを行ったのがデカルトだ。ヘーゲルは、デカルトのコギトを、自我、自己意識の存在、意識の内的二分の宣言としてとらえている。

(3)近代のダイナミズム
 しかし、読書会ではここで質問が出た。デカルトのコギトは、東洋の悟り、「仏とは汝だ」と何が違うのか。
 まず、東洋の自己とは、自分についての意識ではあるが、それは意識の内的二分をとらえていない。むしろ分裂を否定し、自分と世界との一体性をとらえようとしている。そのために、そこには分裂を克服するための運動が出てこない。この運動のあるなしが、決定的な違いだと思う。
 デカルトは、自己意識から始め、そこから神の存在証明、世界(対象世界)の存在証明へと進み、その上で安心して世界の研究に打ち込んだ。したがって、デカルトの対象世界の研究は、常に自己意識に支えられている。自己意識とは、対象意識と自己意識の分裂のことであり、これをつなぐために、デカルトは神を持ち出したとも言える。
 こうしたダイナミックな円環運動がデカルトの思想の核心にあり、東洋にはない点だろう。
ヘーゲルは、中世のスコラ哲学による神の存在証明を「主観的」とし、デカルトやスピノザのそれを「客観的」としている。その根拠は、こうした運動にあるのだろう。

 なお、以上のことを考えることができるほどに、各思想家の思想をシンプルにまとめている点が、波多野精一著『西洋哲学史要』のすばらしさである。

1月 09

ゼミ生3人の、2010年のヘーゲルゼミの振り返りです
 
(1)苦しいけど幸せ A
(2)生活の中の哲学 B
(3)自分の中にあるものを言葉にすること C

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(1)苦しいけど幸せ  A

 今年の六月から、ヘーゲルの読書会に参加し始めた。ほぼ毎週一回月曜日に、『小論理学』の判断論と推理論を十一月末までかけて読み、途中八月には山梨での合宿にも参加して、そこで四日間、『大論理学』の判断論と、『精神現象学』の自己意識論を読んだ。
 参加するにあたっての自分の「目的」は、一言でいえば、今の自分の思考法(=生き方)の限界を超えること、であった。その背景には、大学院での博士論文が書けずにいること、があった。今の自分のやり方では前に進めない、否、進んでも意味がない、という意識が強くあった。四十歳を目前にして、このままでは次の段階に進めない、という意識である。
参加して何よりも感じたことは、中井さんの能力の高さだった。特に、判断論の中の、仮言判断の不確かな位置付けに対する中井さんの自説には、情熱というか執念というか、これを分かるまでは自分を許さない、という徹底的な考察の姿勢が現れていた。実際、その週の範囲であったところに、何度も何度も後から戻って来ては、中井さんは前回よりも上のレベルからの考察を展開しようとしていた。また、ドイツ語のたった一つの冠詞から考察すると同時に、ヘーゲル論理学全体の中での位置付けを理解するべく、何度も目次を参照したりもした。さらに、驚くべきことは、それを、我々参加者にも分かる言葉で説明するのである。
正直なところ、私はヘーゲル自体には未だ圧倒されてはいないが、中井さんには本当に圧倒される。当初の参加目的である、自分のダメなやり方を超える、ためには、第一に、「圧倒」されるしかない。苦しいが幸せである。無論、圧倒されているだけではダメなので、現在、『小論理学』下巻を、今年三度目の通読をしているところである。

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(2)生活の中の哲学  B

 ヘーゲルを読み始めたのは2008年第一回目の夏合宿の時からだ。最初は訳がわからなかった。今年から毎週月曜日にヘーゲルを原書でも読むようになってから、以前と比較すると少しずつ理解できるようになってきた。理解できるようになったというより、自分の日々の行動を無意識にヘーゲルの言葉で整理するようになった。一番衝撃を受けた点はヘーゲルの判断論だ。よく中井さんはホワイトボードに、最初は一つの円だがそれが発展し、矛盾が生じ二つの円に分かれ、しかしその後また一つの円に戻る図を書く。
 私は今まで自分の育ってきた環境や親の価値観を否定してきた。ヘーゲルの図での二つに分裂し矛盾が生じている状況が続いていた。しかしちょうどこの図の説明がなされる2,3日前に自分の育ってきた環境を受け入れることからしか、厳密に言うと肯定的理解からしか物事は始まらないのではないかと思える経験をしていた。そのような見解を述べた文章も書き終えていた。まさしく分裂していた状況が、再び元の一つの円に戻る作業を身をもって体験していたからこそ、ヘーゲルおよび中井さんの説明に衝撃を受けた。自分の経験したことを文章で述べ、自分なりの分析をした内容がヘーゲルはさらに数段上のレベルで整理していたことに衝撃を受けた。なぜ数段上だとわかるかというと、無駄なく単純な用語で普遍的に述べているからだ。ヘーゲルは具体例を一切出さずに、普遍的にあてはまることだと分かりそれのみを述べている凄さである。日常生活に落とし込めている凄さである。日常生活を送っていれば気が付く格段特別ではないことを改めて自覚化、可視化させ、言葉として記していることの凄さをここ最近実感できるようになった。

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(3)自分の中にあるものを言葉にすること  C

ゼミに参加することが恥ずかしい気持ちが私にはある。参加者の多くが20代でこれから自分を作って行こうと格闘している人たちだが、私は今年39歳になった。けれど仕事の立場はアルバイトで中途半端であり、自分の家族を持たないことも恥ずかしいと思う。重ねてきたものがないからだ。けれど何もないまま生き続けることが怖くてゼミに参加しようと思った。ぽつぽつ参加する状態を経て昨年末から定期的にゼミに参加するようになったものの、最初はどうしたらよいか途方にくれていた。
文章ゼミで、思いつくことを言葉にすることから始めた。自分の思うことを言葉にして批評してもらう中で、こんなことを言ってはいけない、という気持ちがほぐれるという経験を重ねた。例えば「話したあとの気持ち」という文章を出したときのこと。それは知人と食事をした時に自分が感じたものを言葉にした文章だった。私はゼミに出すにはふさわしくない下らない内容だと思っていたので、ゼミでその心配な気持ちを話した。それに対して参加者のひとりが「下らなくない」と言ってくれた。安心した。安心すると、次の言葉が自分の中から出てきた。
自分の書くものは何を伝えたいのかがはっきりしない文章だと思う。年齢が40近いのに簡単な文章しか書けないことに落ち込むことも多い。けれど今の自分にはそのような文章しか書けないのだから、書けるものを出していこうという気持ちになった。ゼミではどんなに短い文章でも取り上げてくれて意見を聞けるのが有り難い。自分がつまらないことだと思いながら、けれどその存在を無視しきれない気持ちを形にした言葉に居場所を与えてもらえる。その作業をくり返す中で、自分が落ち着いてきたように思う。この1年書いてきたものを振り返ると、最初は何を書いたらよいのかわからなかったのが、いつのまにか両親のことを書くようになっていた。書くことを続ける中で、亡くなった両親が今も自分の中に大きな位置を占めていることに気づかされた。
夏の合宿は関心があったが、集団生活はしばらくぶりで参加をためらった。ためらっている気持ちを先生に伝えると、参加してみて調子が悪くなったら帰るなど自由にしていいと返事をもらった。それで気持ちが楽になり、途中から参加した。
他人と生活した2泊3日では、緊張したり、話が上手にできなかったりした。誰も自分を責めていない状況にも関わらず、責められる気持ちから逃れられなかった。合宿を終えてから、どうしてなのかという思いを言葉にすると、「自分で自分を責めている」と言われた。その時に、身体で感じる苦しさが自分で作り出しているものだと知った。
読書会はたいがい課題の本を読み終えられないまま参加していた。他の人の報告や文章も読み切れないことが多い。ヘーゲルも他の読書会も内容はほぼわからず、できない自分を感じ続けている。けれど自分が少しでも前に進めていたらと思う。