11月 13

11月9日。外部委員として、岐阜大学の経営協議会に参加した。

今の最大の問題は、政権交代で、先行きが見えなくなったことだ。
良くも悪くも、これまでのやり方が通用しなくなった。

第1期の中期計画、中期目標の評価も出て、
来年からの第2期の中期計画、中期目標が定まり、
いよいよ第2期へと動きだそうとした矢先。
大きな変革の嵐が吹いている。

まずは最重要なのがお金の問題だ。
しかし、来年度の予算がどうなるか、それがまるで見えない。
運営費交付金の1%削減の方針が、公約どおりに、本当に止まるのかどうかも不明だ。
特別教育研究経費も廃止が検討されている。

教員免許更新制の行方も不透明。教員養成の6年制も検討される。

医療問題。
医者養成への、医療費、医学部の定員増と予算の補充など、
すべて、まだ先が見えない。

岐阜大学の執行部は、従来確認された根本方針を堅持する覚悟を持ちながら、
変化の実態を冷静に見極めようとしている。

賛成だ。
こうした大きな変革の時には、
明確な理念、方針においてはぶれることなく
また、いたずらに、動くことなく、
実際の変化の姿を見極めることが大切だろう。

10月 30

10月22日、23日の2日間。中学・高校の先生方に「論理教育」のワークショップを行いました。1日に3時間ずつの、ハードなものでした。また、26日には同じ先生方に中学・高校6年間の「表現指導」について講演しました。
インプットとアウトプットの両面で、私の考える教育の理念と具体的方法論をお伝えしました。

これは、東京都立の桜修館中等教育学校で行ったものです。
ここは、中高6年の一貫教育を行っている学校ですが、「論理教育」を理念に謳っています。全校挙げて、全教員による論理教育を試行しています。
その理想の実現のために、私のワークショップと講演は行われました。

桜修館中等教育学校は、都立大学附属高等学校として創立されましたが、この間の都立高校の再編統合によって、4年前(平成18年4月)に中等教育学校(中学・高校の一貫教育校)として再スタートした学校です。各学年4学級(160人)で、6学年合計24学級(960人)の規模。

その売りは「論理教育」で、「本校は、論理的に考え、表現、行動するリーダーを育成し、国際社会で活躍する人材を輩出することを目指します」とあります。
全校でのこうした取り組みは画期的なものです。
また、新しい学習指導要領では全教科での言語活動を謳っていますが、この学校の理念は、その先取りになっています。

昨年に中学3年間の取り組みが終わり、今年は1期生が高1になりました。
来年度には彼らが高校2年になり、全員が「論文」という大作に挑戦し、それを全教員が担当します。
今年は、中学3年間の取り組みの総括をし、来年の論文指導に備える重要な年です。そこで、私の方法論に賛同していただいた須藤勝校長や一部の先生方の要請で、今回のワークショップと講演会が実現しました。

今後、どのような形で、論理教育と表現活動が行われていくのか、実に楽しみです。

10月 18

 この夏に行われた「日本作文の会」全国大会の高校分科会で、鹿児島の中俣勝義氏、都立江北高校定時制の木村信太郎氏の実践から考えたことをまとめました。

◇◆ 刺激的な出会いと学びのあった大会 中井 浩一 ◆◇

 この夏の大会では、刺激的な出会いがあり、学ぶことが多かったと喜んでいます。
 
? 鹿児島の中俣勝義氏

 鹿児島県の中学での実践家として有名な中俣勝義氏との出会いは嬉しいものでした。
 彼は定年後、医療福祉専門学校で「文学」と「教育学」の授業を担当されており、その実践報告をしていただいた。学生は10代から30代までの多様な人々。
  『蟹工船』をテキストにした「文学」の授業では、今の日本社会や、自分の生き方を見つめ直すことを促して、成功しているようでした。
  「教育学」では、その多様な学生に、中学の実践から生まれた生徒作品を整理し、それをぶつけることで、各自の生き方・考え方を見つめ直すことを求めるものでした。受講者からのすばらしいコメントが生まれていました。
 実は、この大会で中俣氏が報告すると聞き、直前に氏の中学での実践記録『先生!行き場がない』(1995年。エミール社)を読んで、心を動かされていました。私の実践と似ていることに驚き、また励まされたのです。それは以下の3点です。

(1)公開の原則
(2)認識の深化のために、観点を与えての書き直しを重視する
(3)生徒同士の読み合いを重視する

 特に、(1)と(2)は私と同じ考え方の方が少ないので、心強く思いました。(1)は(3)のために不可欠です。私は公開か非公開かは生徒の側の選択権だと考えるので、それを教員が奪うようなことは間違いだと思っています。(2)は生徒の認識を深めていくために不可欠と思っていますが、なかなか行われていません。
 中俣氏が医療福祉専門学校で行っている「教育学」の授業では、30代の女性から次のようなコメントが生まれています。

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 私は高校を卒業し、4年大学へ行き、社会に出て、また今、学校に通っています。年を重ねていますので、高校生あたりから自分のことについては、かなり受けとめられるようになってきたと思います。でも、まだまだ未消化で、何かあると自分のことを思い出して、それをずっと考えてしまいます。しかし、以前のように、悲しいこと辛いことの中心に私がいて、そこから抜け出せないということではありません。心の傷は確かにありますが、普段は、哀しみ辛さを脇に避けて置くことが出来ます。それはこれから自分を作っていけるということ、傷を受けとめ、前に進めるということであると思います。
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 この後半部分に私は注目したいのです。「心の傷は確かにありますが、普段は、哀しみ辛さを脇に避けて置くことが出来ます」。これは大切なことです。それは「逃げ」でも「無視」でもありません。いったん「脇に置く」のです。そして初めて、「これから自分を作っていける」のだし、「傷を受けとめ、前に進める」のです。いったん「脇に置く」のは、真にそれに向き合い解決していくためです。
 
 30代の著者が、こうした認識を獲得できたのは、中俣氏が中学生から引き出した作品群を読み合い、みなで考えることによってでした。その作品群は、中学生たちがみなで読み合い書き直しを経て生まれた物です。そして、専門学校での4カ月の授業でも、毎回授業後に感想を書きます。それが10数回積み上げられて、最後の回に、彼女はこうした認識を表現しています。
 表現指導の持つ力、可能性がしっかりと見えました。そのために必要な条件も明らかだと思います。

? 都立江北高校定時制の木村信太郎氏

 都立江北高校定時制の木村信太郎氏の実践では、全生徒の作品を毎年「江北文集」にまとめて刊行しています。ここでも基本的に、実名での公開が原則であり、教員の皆さんも本音で書いた文章を寄せています。        
 そこから、次のような文章が生まれています。

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友の話

 今の僕がいるのは、今までに出会ってきた人たちがいたからです。昔、僕は小学校に入学する前に、よっちゃんという人と万引きをしまくっていた。それが最初の悪い事で、そのことがあって警察につかまったのも小学校入る前で、小学校入学してからは、うそつき健太と呼ばれていた。マジ、うそつきまくっていて、友達はよっちゃんて人しかいなかった。小二までがそのままで、小三になってクラスのみんなとケンカばっかしていて、その時に一対一をおぼえたのだ。女の子に恋というものをしたのだが、女も男もクラスの人からは、まじきらわれていて恋とかいっている場合じゃないことだと思っていたけど、おそかった、と思ったら一人の男子の子がクラスのみんながオレのことを責めているところ、オレに味方してくれて、そのときまじうれしかった。そしてはじめての親友ができた。そのときクラスのみんなとはじめて仲良くなれたときだったんだよ。それから学校が楽しくて楽しくて、まじ学校がいいとこだと思った。だけど、母のことがあって、学校に行けない日が多くなってきて、先生もそのことで心配してくれたし、友達も心配してくれた。そして、なんとか小六の時は、安定して学校に行けるようになった。楽しいことのあとには卒業という別れがおとずれ、その時、自分は大人への一歩なんだと心の中で思いつつ、とても悲しい気持ちで卒業式をむかえ、はるばる卒業したのです。 そして中学生となりました。中学では、案外かんたんに友達ができて、ばか騒ぎしまくったり楽しい毎日ですが、悪いこともおぼえたりした。タバコに酒やケンカもしたり、小学校ではしてはいけませんっていっていたやつをやったり、放火して父にぶっ飛ばされたりもありました。先公がうざくなったり、他校に乗りこんだり、バイクパクったりしたし、女ってもんもおぼえたりしたし、よく警察につかまったりもしたけど、なんだかうまくいって、鑑別に入ってなくてよかったし、行かされなくて中学の友達はみんあ本当にいいやつばっかだったよ。今でもみんなとつるんだりしてるし、なんていうか楽しかった中学校も、高校は、もっといいやつらと友達だと思ったよ。僕のことをいつも心配してくれて電話してきてくれるやつもいたし、よく言いあいになって怒るけど、仲良くなるのがすごく早いやつもいたし、いつもいっしょにいるやつもバイク乗ってて面白くていいノリの人も、かつぜつ悪いやつも、年上なのにとてもやさしくしてくれる人も、おれまじで高校の友は生涯の友だと思ってる。まじいいやつばっかでした。
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 「仲良くなれたときだったんだよ」「中学の友達はみんあ本当にいいやつばっかだったよ」「高校は、もっといいやつらと友達だと思ったよ」などの文末のことばが、私は気になります。この呼びかけは誰に向けられているのでしょうか。なぜ呼びかけているのでしょうか。

 この作文は授業中に書かせたものでしたが、著者は夢中で書いていたそうです。そして、この文章を書いてしばらくして彼は退学したとのことでした。彼は、この文章を書いている時点で、すでに退学の決意を固めていたのでしょう。彼は、この文章が退学後、刊行されて定時制の友たちに読まれるだろう事を意識して、この文章を書いていると思います。

 この文体の中に現れる「呼びかけ」は誰に向けられたものでしょうか。それは自分に対してでしょう。これは「自分とは何か」の答えを出すためのもの、自己確認の文章です。友について語ることは、それを通して自分を語ることに他なりません。直接自分を語るのでないだけに、それは冷静に自分を見つめることを可能にします。
 しかも、それは自分に語りかけているだけではなく、やはり定時制での仲間の一人一人を思いだし、その一人一人に語りかけ、自分との関係を確認しているのです。それが自己確認に他ならないからでしょう。仲間への呼びかけを通して、それは自分ときちんと向き合うことができています。その友との関係が大切なものだからでしょう。
そして、その自己確認を終えて、彼は退学し、次の道を歩き始めました。

 私の解釈が合っているかどうかはともかく、こうした文体の意味にも着目し、その意味を考えていきたいものです。

10月 17

10月15日(木) 松濤美術館の「生誕120年 野島康三(のじまやすぞう) 肖像の核心展」に行った。

HPには以下のようにある。
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日本の近代を代表する写真家 野島康三(1889年?1964年)。
慶応義塾在学中に写真に興味を抱いた野島は、東京写真研究会などで作品の発表を始め、頭角をあらわします。
日本写真会の同人として活躍し(1926年から)、国画会写真部の創設に参加する(1939年)など日本近代写真のなかに大きな足跡を残しました。芸術のパトロンでもあった野島の全貌を写真作品約150点と文化人たちの書簡や記録写真など豊富な資料とあわせて紹介します。
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日本における、写真の「近代」がわかる展覧会だった。
野島はパトロンとして、白樺派や画家たちを支えたようで、その交流が手紙類からうかがわれた。
岸田劉生、梅原龍三郎、柳宗悦、武者小路など。

岸田の絵と、野島の写真との響き合いについては、以前神奈川県立美術館葉山で、両者を並べて展示することで強調していたのを思い出した。

松濤美術館には、野島の写真や手紙類などの遺品が、遺族によって寄贈されている。
学芸員に野島の研究者がいるからのようだ。
野島の写真は、京都の近代美術館と松濤美術館が守っていることを知った。

10月 17

★梅津和時 還暦記念コンサート★
『Full Swing! ドクトル梅津SHOW』

2009年10月15日(木) 。上記のコンサートに行った。
多士済々が、梅津さんの還暦を祝う場に参加できて良かった。
白石かずこさん(詩) は久しぶり。
三宅伸治(vo,g) さん、仲井戸 “CHABO” 麗市(vo,g) と梅津さんの3人のかけあいいには、後にしっかり清志郎がいた。「トランジスタラジオ」。
最後に、梅津さんによる清志郎追悼の一発。

以下は、主催者によるコンサートの詳細
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日時:2009年10月15日(木) 開場18:30 開演19:30
会場:渋谷 duo MUSIC EXCHANGE
出演
梅津和時(sax,cl)
★Full Swingers
太田惠資(vl) 清水一登(key) from 新大久保ジェントルメン/鬼怒無月(g) 早川岳晴(bass) from KIKI BAND/多田葉子(as) 松井亜由美(vl) 張 紅陽(acc) 関島岳郎(tuba) 夏秋文尚(ds) fromこまっちゃクレズマ/Horns: NARGO(tp) 北原雅彦(tb) GAMO(ts) 谷中敦(bs)/仙波清彦(per)
★Special Guests
おおたか静流(vo) 巻上公一(vo) 白石かずこ(詩) 片山広明(ts) 三宅伸治(vo,g) 仲井戸 “CHABO” 麗市(vo,g)
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